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135 お世話いたします

「おはようございます、クリス様」

「ん……おはよう、ヘイリー」


 寝顔と、眠そうな顔と、気の抜けた笑顔。

 可愛らしい主の、1日が始まります。





 クリス様は記憶を失われたこともありますが、長らく市井で過ごされたため、貴族としての教養は身に着けておりません。そのため、御屋敷に戻られてしっかり休んでからは、家庭教師を呼びつけて勉強する日々を過ごされることになっております。また、基本的に、午前中に座学、昼食と休憩を挟んで午後からマナーやダンス、剣術や馬術等のレッスンを行うことになっております。


 休憩中の過ごし方は特に決まっておりませんが、クリス様は非常に勉強熱心でいらっしゃるため、よくランカスター家の書庫へと向かわれます。それでは休憩にならないのでは、と何度かお声をかけているのですが、好きな本を読んでいるので気楽なものだ、となかなか受け入れていただけません。

 どのような本を読まれているのかと密かに拝見いたしましたところ、ランカスター領の出納帳であったり、ランカスター家の系譜であったり、決して簡単なものではありませんでした。側仕えする者としては心配でなりません。できる限り休んでいただこうと、鎮静作用のある薬草を混ぜたお茶を召し上がっていただいているのですが……。


 しかし、必ずしも書庫で過ごされるというわけではありません。休憩中に御友人の元へ御訪問したり、逆に来ていただくこともあるのです。


 先日はロバーツ男爵家の御令嬢、エリーゼ様にお招きいただき、お茶とお菓子を頂きました。3回目ということもあり、クリス様はエリーゼ様にだいぶ打ち解けていらっしゃったようです。

 それ以前より何度かお茶を御一緒していらっしゃったようですが、今では唯一の貴族の御友人で、クリス様の御事情をよく理解していただいていらっしゃるため、良き相談相手にもなってくださっているようです。

 ……もっと早く、クリス様をランカスター家へお迎えできていれば……談笑なさる御二方を見ていると、そう思わずにはいられません。


 そして本日は学校での御友人、アルダス様がいらっしゃる御予定です。



「今日はクリスのお友達がいらっしゃるのよ」

「お友達…………あ! アルダスですか?」

「ええ」


 朝食の席で奥様とクリス様が本日の予定をお話しになっています。

 クリス様は、初めはぎこちなかったテーブルマナーもすぐに身に着け、今では食事中の談笑も自然にできるようになりました。学業成績が非常に優れていらっしゃったこともあり、テーブルマナーだけでなく、不安だった勉学も家庭教師の方が驚くほど早く進んでおります。

 ……一時は落胆されていた旦那様も、クリス様が日々成長する様を嬉しそうにしております。


「……ごちそうさまでした」

「ルアンナ、待ちなさい」


 ……一方で、ルアンナお嬢様はクリス様を避けております。今は一緒に食事を摂っていらっしゃいますが、クリス様がお戻りになられたばかりには、罵倒の言葉を投げかけるほどに嫌っていらっしゃいました。

 今も、黙々と食べられ、すぐに私室へとお戻りになっています。


「ルアンナ……」


 それでも、クリス様はルアンナ様と仲良くなられようと努めていらっしゃいます。日に日にルアンナ様がクリス様へ向ける表情は柔らかくなっておられるように思います。最近ではクリス様が挨拶をすれば、小さい声ながらも御返事をされるようになり、クリス様はとても嬉しそうです。


 クリス様の努力の結果、初めはぎこちなかったランカスター家の空気が和らいでいき、一使用人としてもとても嬉しく思います。


 クリス様の空いたティーカップに紅茶を注げば、それを見ていたクリス様が笑顔で私を見上げます。


「ありがとう、ヘイリー」

「いえ」


 私の小さな主は、とても素敵な方です。




「よお、クリス」

「久しぶり! アル!」


 アルダス様をクリス様の私室まで御案内し、紅茶の用意をします。

 ……アルダス様は週に1度はクリス様を訪ねられます。旦那様や奥様やお嬢様、私以外の使用人の前では優雅な振る舞いを見せますが、クリス様の前だけでは、クリス様の意向もあり、以前のように接していただいております。


「何か思い出したか」

「えーっと……」


 テーブルで向かい合う2人にそっと紅茶を差し出し、そっと下がります。


「……また、夢の話、聞いてくれる?」

「おう」


 クリス様は、たくさん夢を見られているようです。楽しいことばかりではないようですが、時々記憶の片鱗のようなものもあり、その確認も込めてよくアルダス様へと夢の内容をお話しになります。

 そうすれば、アルダス様は夢の補足をしてくださります。また、巧みな話術でクリス様を引き込み、不安げに話し始めていたクリス様を必ず笑わせてくださるのです。


「たぶん、寮での出来事だと思うんだけど――――」


 クリス様の記憶の片鱗や、アルダス様の話は、私も楽しませていただいております。


「―――夜、大きなテーブルを、かなりの人数で囲んでて……地図とか、警備の位置とか、いろいろあって」

「……作戦会議か」


 小さな主の新たな一面を知れば知るほど、記憶を全て思い出される日がとても待ち遠しくなるのです。


「この試験問題は、入手難易度最高だ――って、レジーが」

「くくっ、言ってた言ってた」


 中等部に通っていなかった身としては、学校の話は特に興味深いものです。


「――――それで、テッドが屋根裏に潜ろうとして」

「壁ぶち壊したヤツな」


 優しく、個性的な御友人ばかりだったようで、私としても嬉しくなります。




「あ、そうだ、アル」


 馬術のレッスンが次に控えているため、早めに退室しようとしたアルダス様へとクリス様が声を掛けました。


「ん?」

「セルマさんに何か言われた?」

「…………え?」


 初めて聞く名でした。


「まあ、蕁麻疹が出る前に休んでね」

「お前……」

「じゃないと」


 いつもと変わらない雰囲気のクリス様でしたが、アルダス様が非常に驚いていらっしゃったため、この話題が予想外のものであることがようやく理解できました。


「…………あれ」


 私が注視したところで、クリス様が、こてん、と首を傾げました。


「忘れちゃった。ごめん」

「……は、つーか、さん付けしてんじゃねえ」


 クリス様が、無邪気に笑われました。




「アルダス様」

「はい?」


 正門までお見送りしたところで呼び止めました。

 爽やかな笑みを浮かべたアルダス様の顔をじっと見つめます。


「先程の、セルマ様、というのは……」

「ああ」


 少しの動揺も見せることなく、笑みを崩すことなく、アルダス様が答えます。


「聖女様ですよ。彼は聖女様と個人的に交流なさっていたので」

「そうでしたか」


 事前にクリス様について伺った内容に含まれない話でした。どうやら聖職者に興味があらせられることは存じておりましたが、まさか宗教組織オールの聖女と交友関係にあったとは……驚きを内心に留め、表情に出さないように納得の意を伝えました。

 意に介していらっしゃらないようで、何事も無かったかのように、ああそうだ、とアルダス様が別の話題へと移ります。


「間もなく試験期間に入るので、先々月同様しばらく伺えないかと思います。申し訳ありません」

「分かりました。健闘をお祈りしています」


 今日の会話を思い出してそう返答した私に対し、アルダス様は完璧な礼を返しました。






「では、お休みなさいませ」

「うん、おやすみ、ヘイリー」


 クリス様に挨拶を済ませ、使用人室へと向かいます。

 クリス様に仕え始めてからの日課です。クリス様が御屋敷に戻られてから約1ヵ月半、欠かしたことはありません。いつも通り、メイド長に今日のことを報告いたします。

 朝目覚めてから夜お眠りになるまでを、特に、勉学やレッスンの進捗具合、アルダス様との会話について、重点的に報告します。

 中でも今日は、聖女――セルマ・ティアレ=アイテル様のことを、報告せねばなりません。


「……分かりました。では、下がりなさい」

「はい。失礼いたします」


 私の報告を聞き終わったメイド長は、数秒の沈黙の後、下がるように仰いました。

 これが、少しでもクリス様の記憶を取り戻すきっかけになれば……。

 僅かな期待とともに、その日を終えました。




 しかし、その翌日。


 クリス様は……万事に備え外側からも施錠し、特注の耐魔法ガラスを嵌めていた窓の破片、さらには多くの斬撃の痕を残し……私室から、姿を消していました。

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