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134 貴方を探してる

『王都でやり残したことがあるから戻るね』


 何度も、何度も、思い出す。


『ありがとう』


 たったそれだけの、短い手紙。





 朝起きて、チェストに手紙があるのに気づいた。

 差出人が書かれていなくても、クリスであろうことはすぐに分かった。


『戻る』


 慌てて隣の部屋へと駆け込めば、綺麗に片付けられた部屋の中に、彼の姿は無かった。

 急いで窓を開け、外を見回しても、早朝の街を行き交う人々の中に、彼の姿は無かった。


『ありがとう』


 違う。

 違うの。


 お礼の言葉じゃなくて、もっと、別の、違う言葉を。





 ベンチに腰掛け、ぼんやりと空き地で遊ぶ子供たちを眺める。

 彼がいなくなって数日は残念がっていたものの、今では彼の名前を口にすることはほとんどない。

 彼がいなくなったことを受け入れられていないのは、私だけだ。


 寒いな……秋がだいぶ深まってきた。風が冷たい。頬に触れる冷たさは、彼の手を思い起こさせる。


 こうやって物思いにふけるのは褒められたことではない。分かっている。みんなに気を使わせてしまっている。ちゃんと、分かっている。

 でも、それでも、どうしても、忘れられない。



 空き地から目を逸らす。孤児院の入り口近く。少しだけ広い通り。

 彼は手紙を残し、消えたかと思うと、その日のうちに再び戻ってきた。


 貴族として。






 その日の朝、孤児院の前に豪華な馬車が止まった。その周りには護衛と思われる仰々しい格好をした男性が複数人いた。そして、馬車の中から出てきた女性は私たちの前まで出てきて綺麗なお辞儀をすると、ランカスター家のメイドを名乗った。


『クリス様はランカスター家の御子息様でございます』


 あたしが身につけているものに比べ、よっぽど上等であろうことが見てすぐに分かった。黒いワンピースも、真っ白なエプロンも、細部にこだわりが見て取れた。刺繍、レース、フリル……外見だけでなく、立ち居振る舞いにも洗練されたものを感じた。


『このような場所を訪れる御方ではございません』


 彼女の後ろにあった馬車の中には、彼がいた。彼は目を閉じ、微動だにしなかった。こちらを、少しも、見てくれなかった。


『決して、勘違いなされぬよう』


 遠回しに、忘れろ、と言われた気がした。彼女の冷たい目が、身の程知らず、と言っていた。黙って頭を下げるしかなかった。彼の名前を呼ぶことすらできなかった。


 ただただ、怖かった。



 嘘だ、と思いたかった。彼があたしに囁いた言葉を、触れた体温を、疑いたくなかった。本物だと思いたかった。

 でも、馬車に乗った彼は、間違いなくあたしの知る彼で、簡素だった衣服から意匠の凝らされた豪華な洋服へと着替えていて、あたしのことを忘れたかのように涼しい顔をしていて、彼との距離を嫌でも感じて、彼から距離を置かれていることを理解させられて、何も言えなかった。


 頭が真っ白になった。



 忘れないといけない。忘れないといけないのに、忘れられない。

 あんな形で伝えられたくなかった。彼から直接聞きたかった。

 言葉でも、手紙でも、どちらでもいい。彼から伝えられたかった。


 貴族だから忘れてくれ、でも、貴族だけど待っていてくれ、でも、どっちでもよかった。

 あたしが平民だから遊んでいた、でも、平民だけど本気だ、でも、どっちでもよかった。


 ありがとう、じゃ何も分からない。何にお礼を言われているのか分からない。

 あれだけ好きだと言ってくれたのに、これからどうすればいいのか分からない。


 あのメイドの女性が言外に伝えてきたように、忘れればいいのだろうか。

 クリスという人物は訪れていなかったのだということにすればいいのだろうか。

 そもそもクリスという人物は存在していなかったのだということにすればいいのだろうか。

 貴族のクリスとは別のクリスが訪れたのだということにすればいいのだろうか。

 貴族のクリスがお忍びで来たのだと内密にしていればいいのだろうか。


 彼はあたしに何を望んでいるのだろうか。

 忘れてほしいのだろうか。

 覚えていてほしいのだろうか。

 彼はあたしに何か望んでくれているのだろうか。

 何も無かったことになっているのだろうか。

 一緒に過ごしたことになっているのだろうか。


 何が勘違いで、何が勘違いではないのだろうか。


 どうして、ありがとう、だけなのだろうか。


 怖い。


 どうすればいいのか分からなくて、怖い。


 彼のことが分からなくて、怖い。


 彼の、貴族の怒りに触れた時のことを思うと……怖くて、怖くて……息が詰まる。




 この街の領主はランカスター家じゃ、ない。

 それが何を意味するのか、具体的には分からない。だけど、誰にもクリス様のことを話してはいけない、全て無かったことにしなさい、そう告げたエッタさんの表情はとても深刻そうで、両肩が痛むほどに握られていて、無言で頷くしかなかった。

 子供たちが数日で彼の名前を口にしなくなったのも、シェリーやエッタさんが厳しく注意しているからだ。

 分かっている。


 分かっている。

 きっと、このことが漏れるようなことがあれば、制裁を受けるのはあたしだけでは済まない。シェリーやエッタさんだけでなく、子供たちまでもが悲しい目に遭ってしまう。それだけは絶対に避けなければならない。あたし個人のことでみんなに迷惑をかけるわけにはいかない。

 分かっている。


 分かっているけど、分かっているからこそ、忘れられない。

 忘れてしまうことが、恐ろしい。

 忘れることで、許されるのだろうか。

 忘れれば、誰も酷い目に遭わないのだろうか。


 あたしは何も言われていない。何も言われていないことを、自分の都合の良いように解釈してはいけない。勘違いするな、というのはこのことかもしれない。

 勘違いしてはいけない。

 勘違いしないまで、ちゃんと理解できるまで、あたしは何も忘れられない。

 勘違いしていなかったのだと確信が得られるまで、忘れてはいけない。


 きっと、これは、あたしが一生をかけて背負う罰なのだろう。

 身の程知らずなあたしの、罰。






 通りから少し目を逸らし、その視線の先で動く人影を見て、背筋が凍った。



 口元を隠すようにして首に巻かれた、濃い緑色のストール。


 丈の短いジャケットの内側や、腰、脚に巻かれた太いベルトに見える、金属光沢。


 普段着には有り得ない、胸や肘、膝等の随所に見られる、防具プロテクター



 無駄の無い動きは、街の大通りで時々見るような、戦闘に慣れた者そのものだった。



 視線の先で、武装していた、白髪の、金色の瞳の男性と、目が合った。



 震える脚でベンチから腰を浮かす。


 目が合った時に一瞬動きが鈍ったものの、男性はこちらを見たまま歩く速度を上げた。



 怖い。



 ずっと不安に思っていたことが、まさに今、目の前で起きようとしていた。


 ランカスター家にとって、あたしは目障りなはず。


 口封じをされるかもしれない。



 たとえば……ああいう、冒険者を、雇って。



 逃げるのは無理だろう。


 でも、子供たちに、見せるわけにはいかない。


 隠れないといけない。


 目立たないところに行かないといけない。



 男性に背を向けて走る。


 どこに行けばいい?


 孤児院から離れたところ、人気の無いところ……路地裏?


 いや、街から出るべき?


 なら……森?



 裏庭へと駆け込み、柵を飛び越える。


 民家の間、細い道を駆け抜ける。


 慣れた道を、森へと続く門へと急ぐ。


 路地裏から小さな通りへ、迷わず向かう。



 その目の前を、誰かが立ち塞がった。



 慌てて勢いを殺す。

 息はまだ乱れていない。この程度で疲れていては子供たちの相手などできない。

 ぶつかる寸でのところで立ち止まり、退いてもらおうと顔を上げた。


 そして見えたのは、白髪と、金色の瞳。


 息を呑む。


「聞きたいことがある」


 覚悟を決める。


「ちょっと、付き合ってもらえるかな」

「……分かりました」


 暗い裏道で男性が浮かべた笑みに、寒気がした。





「怖がらせてごめんね」


 男性の後ろを大人しくついて行けば、連れていかれたのは少し上品な喫茶店だった。


「好きなの頼んでいいよ」


 予想外の展開に、差し出されるままにメニュー表を受け取った。

 男性は柔らかく微笑んでいる。

 首に巻いていたストールは取られていて、表情がよく見える。

 なんとなく、彼を思い出した。


 目の前の男性からメニューへと視線を移し、その値段を見て思わず目を見開いた。


 とてもあたしには手が届きそうにないお値段。


 静かにメニュー表を閉じた。


「どうしたの?」


 男性は頬杖をついてあたしを見ていた。

 その表情も雰囲気も、相変わらず柔らかい。


「あの、喉、乾いてないので、大丈夫です」

「ん、そっか」


 男性が伸ばしてきた手にメニュー表を渡す。

 メニュー表を開き、その金色の瞳が上下に動くのをじっと観察する。


 なぜあたしは、命を狙っているであろう人物にお茶を奢られようとしているのだろう。


 金色の瞳がこちらを向く。


「ね、ウェスタンパンチってどんなの?」

「え、あ、王国西部でよく飲まれてて、共和国の文化の影響を受けてる飲み物です」

「そうなんだ。材料って分かる?」

「うーん、温かい葡萄ジュースなんですけど……独特の香りがあります」

「普通のジュースとはちょっと違うのかな」

「果汁以外にもいろいろ入ってて……すごく、身体が温まります」

「なるほどね。君は好き?」

「はい、好きです」

「そっか」


 男性が微笑む。

 そんな場合じゃないのに、どきっとしてしまう。

 雰囲気が彼に似ているせいだ。


「ところでコーヒーとか紅茶はよく飲むの?」

「コーヒーは飲んだことないです。紅茶は時々」

「ココアは?」

「飲んだことないです」


 男性の質問に、できるだけ平静を装って答える。

 なぜあたしは、命を狙っているであろう人物と会話しているのだろう。



 そして男性は片手を上げてウェイトレスを呼び、ウェスタンパンチとケーキセットを注文した。




 わあ、と歓声を上げてしまったことを許してほしい。ケーキを食べる機会なんて今まで無かったんだもん。

 クリーム色に光り輝くケーキと、それを囲うように散りばめられた赤いソース、真っ白な粉の砂糖だなんて、初めて見た。

 しかも、美味しい。甘くて、滑らかで、とろけて、すっぱくて、綺麗で、びっくりした。こんなに美味しいものは初めて食べた。

 飲み物――ホットココアにもびっくりした。ふんわりとクリーム色の細かい泡が表面を覆っていて、その下は茶色っぽい液体があって、でも見た目に反して甘味とか苦味は柔らかくて、飲みやすくて、あっという間に無くなった。


 少し、大人になった気分。


 男性――ブランさんが勝手に注文した時にはかなり焦ったし、申し訳無かったし、何を企んでいるのかと怖かったのに、すっかり忘れてがっついてしまった。恥ずかしい。


「美味しかった?」

「はい、とても……」

「よかった」


 恥ずかしい。

 気が抜けて、初めてのウェスタンパンチに驚くブランさんを見て笑ってしまうほどに警戒を解いてしまった。他にもいろいろ喋った気がする。笑った気がする。恥ずかしい。

 なんてあたしはチョロいんだ。


 恥ずかしさに俯きがちになりつつも、ちらりとブランさんの様子を窺う。

 あたしが緊張しているのも、疑っているのも、きっと分かっているのだろう。そのうえで、ずっと柔らかく微笑んでいる。

 ブランさんは今も微笑んでいる。あたしを見ている。恥ずかしい。彼を思い出す。思い出してしまう。恐怖とともに、羞恥を感じる。


「キャロルさん」

「は、い」


 ブランさんが居住まいを正し、真面目な顔をした。どきっとした。彼を思い出す。いくら似ているからって、どうしてこんなに思い出すのだろう。ブランさんに失礼だ。集中しないと。

 集中、集中。ブランさんの金色の瞳を見る。


「聞きたいことが、あってね」

「はい」


 忘れてはいない。そう言われてここに誘われた。ちゃんと覚えてる。

 緩んでいた気が引き締まっていく。


「俺、探している人がいて」


 人を、探している。

 どきりとする。2週間ほど前のことを思い出す。彼も人を探していた。


「たぶん、この街に来てたと思うんだけど、行方が分からなくて」


 胸が高鳴る。

 嫌な予感がする。


「クリスっていってね、亜麻色の髪に、碧い瞳をしてる男の子なんだけど」

「ク、リ、ス……」

「孤児院に来なかった?」


 ねえ、どうすればいい?


 あたしはどうすればいいの?


「分かんない、です」


 どうして、何も言わずに、去っていったの。


 分からないじゃない。


 どう答えれば、あなたを怒らせないの。


「ん、そっか。でも――――」




 教えてよ、クリス。


 あたしを解放してよ。




 ブランさんの手は、彼のように冷たかった。


「――――そんな顔されちゃ、さすがに見過ごせないな」


 その手を、振り払えなかった。

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