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131 貴方を愛してる

「好きだよ」


 耳元で囁かれる言葉に、きゅ、と身体が縮まる。顔が熱い。魔法の光は彼の背後から優しく届いていて、彼の表情はぼんやりとしか見えない。


 けど、見えなくてよかった、と思う。


 彼は……クリスは、とても、とてもとても甘い時間を、惜しげもなくあたしにくれる。それが、もう、本当に、恥ずかしくて恥ずかしくて……あの綺麗で、熱い、澄んだ碧い瞳を直視してしまったら、気を失ってしまいそう。


 ゆっくりと近づく彼の体温を感じ、そっと目を閉じた。





 洗濯物が山積みになった籠を抱えながら、ぼんやりと、亜麻色の髪の毛を目で追う。何の欠点も無い、百点満点の笑顔が子供たちに降り注がれている。子供たちも嬉しそうに笑っている。


 綺麗だな、とその光景を見つめる。


「彼氏見てないで、ほら、働いた働いた」

「え、や、シェリー、ちょっと、そんな……」


 慌てて声の方を振り向けば、半眼でニヤニヤと笑うシェリーが口元を手で覆うところだった。


「すっかり恋する乙女になっちゃって」

「やめてよ……」


 顔が熱くなる。ここ数日、いつも顔が熱い気がする。揶揄われるし、思い出すし……昼間にも、彼が、近くに、来るから……。


「ほら、彼氏が見てるよ」

「えっ」


 振り向いてしまう。それがまた揶揄われる原因になるというのに、心は正直だ。

 彼と目が合う。子供たちに向ける笑顔とは違う、甘い甘い微笑みが目に飛び込んでくる。頭から湯気が出てるんじゃないかというぐらいに顔が、耳が、さらに首まで熱くなってくる。

 彼の微笑みは心臓に悪い。


「はー……すごいね」


 シェリーも、子供たちも、こういう時に限って何もしてくれない。あたしが彼から目を逸らすまで、まるで時が止まったかのように誰も動いてくれない。


 ぎぎぎ、と音が鳴るんじゃないか、というぐらいに不自然な動きで身体の向きを変え、裏庭へと向かう。洗濯物を干さないといけない。籠を落としてしまいそう。足が縺れそう。

 その隣にシェリーが並ぶ。

 ふらふら歩くあたしに合わせて歩きながら、面白そうに笑っている。


「キャロルをこんなにしちゃって、罪な男だねー」


 何も言い返せない……。





 彼は突然帰ってきた。



 1日目は、びっくりしたけど、嬉しくて、懐かしくて、楽しくて、今でも彼の表情の機微から心情が読み取れて、彼を独占していたあの頃に戻れたみたいで、優越感にさえ浸っていた。

 2日目は、少し冷静になって、苦しくなって、怖くなって、申し訳なくて、あの時彼に言った言葉を謝りたくて、彼がまた離れていくのではないかと思うと、恐怖でいっぱいになった。

 3日目は、昔と今の彼が違うことを、成長していることを気づかされて、戸惑って、もやもやして、やっぱり独占したくて、触れて……思い知らされた。

 4日目は、自覚してしまって、意識してしまって、彼は全く遠慮してくれなくて、すぐにみんなに知られて、揶揄われて、それ以上に彼が積極的で……。



 思い出すとまた顔が熱くなる。もしかして熱があるんじゃないだろうか。ぱたぱたと手で扇いでいると、隣からくすくすと笑い声が聞こえた。



 3日目までは、彼の言動は、昔の彼を思わせるものだった。

 口数はそんなに多くなく、いつも完璧な笑みを浮かべていて、でも瞳は常に冷静で、まるで彼に踊らされるように、みんなが彼のことを気に入った。

 夜、あたしと話す時も、熱心に話を聞いているようにあたしの目を見ているのに、じっと彼の瞳は動かなくて、別の何かを考えている時の瞳だとすぐに分かった。


 彼の完璧な防御を崩そうと、軽い悪戯心で彼に触れた。

 彼の目が見開かれるのが、瞳に輝きが戻るのが、目が細められるのが、楽しかった。目の前にいるあたしに反応して、彼の感情が滲み出ているのが分かって、嬉しかった。


 でも、それだけ彼のことが分かるのに、どうしても分からないことがあった。

 彼と別れたあの日のことを、あたしが彼に向けて叫んだあの言葉を、彼はどう思っているのか。


 あの時、どんな表情を浮かべていたのか、あたしは見ていない。

 あれから、時々彼が街を訪れていることは知っていたけど、見ないようにした。

 そして、彼が街を離れたことを知って、後悔した。


 ずっと、謝りたかった。

 忘れられなかった。


 いざ謝ってみれば、蓋をしていた感情が次から次へと溢れてきた。

 全て、涙となって、次から次へと流れていった。


 そして、彼は、それを受け止めてくれた。


 だから、気づいてしまった。


 私にとって、彼は1番だった。

 1番頼れて、1番信じられて、1番大切で、1番大事で、1番大好き。

 その気持ちが……ちっとも、変わってなかった。



 でも、時間が経てば気持ちが変わると思っていた。

 美化されているだろうし、いろいろ気が動転していて勘違いしているのかもしれないし、とにかく、何かを悩んでいる彼がゆっくり休めるように、気の許せる友人として、幼馴染として、振舞おうとした。振舞おうと決めた。


 なのに、どうしても彼と2人になると……つい、気が緩んで……。


 冷静な彼の瞳が揺れるのが楽しくて、嬉しくて、もっと揺らしたくて、引き金を引いてしまった。

 見たことのない瞳になった瞬間、やってしまった、とも、やった、とも思ってしまった。

 押し倒し、見下ろす彼の瞳の温度に、心臓が高鳴った。

 冷静さと戸惑いの入り混じる瞳に、冷たくも熱い瞳に、心が歓喜に震えた。

 髪に触れられ、口付けられ、そこではっとした。


 これ以上はダメだ、止めなくては。


 焦って彼を突き飛ばした。あたしから離れた彼の冷たい瞳を見て、激しい後悔に襲われた。

 彼の心を弄んでしまった。

 休んでもらうどころか、揺さぶって、戸惑わせて、傷つけてしまった。

 部屋を静かに出て行く彼を、黙って見送ってしまった。


 追いかけるべきなのか、そっとしておくべきなのか、部屋に戻るべきなのか、残るべきなのか、今晩中に謝るべきなのか、明日の朝に謝るべきなのか、何と言って謝るべきなのか、謝って許してもらえるのか、ぐるぐる回る不安に押しつぶされそうになって動けなかった。

 ベッドを降りれば足が震えていた。


 そこから先は、必死だった。

 なるようになれ、と彼を探し、連れ戻し……なぜか逆に謝られ、焦って、焦って、焦って焦って……告白してしまった。

 感情のままに動いていたら、彼に抱きしめられていて、好きだと言ってもらっていて、キスまでされていて、部屋に戻っていて、顔を覆って足をじたばたと振り回していた。


 夢かと思った。




 夢じゃなかった。


 4日目から、彼の言動は、急変してしまった。

 口数が増えた。甘い微笑みを向けられるようになった。情欲が剥き出しの熱い瞳を向けられるようになった。みんなが彼の変貌ぶりに驚いて、呆れて、すぐにバレた。

 毎晩、あたしの部屋に来て、愛の言葉を囁く。額に、瞼に、鼻に、頬に、耳に、首に、指に、口付けを落とす。ひたすらあたしに愛を注ぎ続ける。


 彼の熱い攻撃を躱そうと、必死に感情を殺そうとした。

 彼の目があたしだけを映していても、手が触れようと、唇が触れようと、吐息がかかろうと、冷静になろうとした。目の前の彼から目を逸らし、熱い顔を冷まそうとした。


 でも、無駄な抵抗だった。

 嬉しいものは嬉しいし、恥ずかしいものは恥ずかしい。


 心臓はどきどきとうるさいし、身体は勝手に力が入る。

 五感で彼を捉えてしまうし、心は簡単に捕まってしまう。

 そして、彼を求めてしまう。


 そんな夜を2回ほど過ごした。

 まだ一線は越えていない。


 彼は、あたしがいっぱいいっぱいになれば離れてくれる。

 寂しさを感じれば、すぐに埋めてくれる。


 そして、部屋へと戻っていく。


 だから、悩んでいる。


 彼は、満たされているのか。

 あたしを優しく、丁寧に、大切に、大事に、愛してくれる。

 それだけ……あたしは、彼を愛せているのか。





「はい、キャロル」


 ぼんやりと夕食後の片付けをしているところで突然エッタさんから手を差し出され、反射的にソレを受け取る。


「こ……こ、こここ、これ! わ、わわわ」

「お守りだよ」


 慌ててソレをエプロンのポケットに突っ込む。いったい、いつの間にこんなものを用意したのか。とてもじゃないけど子供たちには見せられない。実物を見るのはあたしも初めてだ。

 エッタさんが微笑ましそうにその一連の動きを見ている。


「大事なことだからね」

「は、いぃ……」


 こういうことにまですぐに思考を巡らせられるのは、やはり大人の女性だからなのか。薄っぺらなソレが、妙に重く感じる。そわそわとポケットを見下ろしたり押さえつけたりしていると、エッタさんがこそこそと耳打ちしてきた。


「いつでも相談していいからね」


 何を、とは言わずとも、なんとなく分かった。黙って頷いた。





 子供たちを寝付かせて、部屋へと静かに戻る。最近、子供たちの寝付きがとても良い。

 もちろん、彼のおかげだ。

 初めて魔法を見た時と比べ、今では子供たちのおねだりも可愛らしくなってきている。それでも毎日遊び疲れる程度にははしゃいでいるようだった。一方で彼は子供たちと遊ぶコツを覚えたのか、夜になっても疲れた様子は無い。

 でも、遅くまで彼を付き合わせるのは申し訳ないので、いつも早めに休んでもらっている。


 部屋が近づくにつれ、心臓の音が大きくなる。チェストに慌ててしまったアレが頭の中に浮かぶ。

 付き合い始めて、彼があたしの部屋を訪れた時からそのことは考えていた。特に2回目からは、そのことばかり考えてしまっている。

 あたしは、彼に、我慢、させているのでは……。


 彼はあたしの髪や頬に触れたり、腰に手を回すことはあっても、む、胸、とか、お尻とか、には、絶対に手を伸ばさない。

 唇に軽く触れるだけのキスはしても、深いキスはしない。

 軽く触れるだけで、近くにいるだけであたしがいっぱいいっぱいになっているので、それを気遣ってのことだと思う。その気遣いはとても嬉しい。嬉しいけど、申し訳ない。

 また、彼の心を弄んでいるような気がして、とても、とても、辛い。


 部屋の扉を開け、中に入る。ベッドに腰掛け、窓際のチェストを見つめる。

 洋服の隙間に、アレが突っ込まれている。


 顔が熱くなる。


 とりあえず、着替えよう……エプロンを外し、仕事用のワンピースを脱ぐ。生成りのワンピースに袖を通し、ボタンを留める途中で、手が止まる。


 ……誘う、か?


 誘う……はっきりと、その言葉を頭に思い浮かべて、全身が熱くなる。


 な、なんてことを、考えているの……!


 慌ててボタンを留めようとして、汗ばんだ指先でボタンを抓むも、震えて、滑って、うまく留められない。早くしないと、彼が来る。余計に焦ってしまい、ボタンが穴を通らない。


 部屋の中をうろうろと歩き回りながら必死にボタンと格闘していると、扉をノックする音が聞こえた。


「はいッ!」


 反射的に返事をして気づく。まだボタン留めてなかった! 慌てて扉に背を向ける。彼の足音が、扉が静かに閉じる音が聞こえる。彼の足音が近づいてくる。


「ちょ、と、待って……!」


 彼の足音が止まる。急いでボタンを留めようとする。ようやくボタンが穴を通る。あと3つ。指の震えが大きくなる。熱い。すごく熱い。


「どうしたの」


 彼の囁き声と吐息が耳にかかる。するり、と後ろから伸ばされた手がお腹の前で組まれる。きゅ、と身体が縮む。


「ボ、ボタン、が……」


 背中から彼の気配が無くなる。お腹の前で組まれていた手も離れ、俯いたあたしの視界に彼の靴が見えた。震える手に冷たい彼の手が添えられる。


 ふ、と吐息が漏れるのが聞こえた。ボタンから手を離して顔を上げれば、微笑んだ彼があたしの胸元に視線を落としていた。

 両手が胸に伸びてくる。身体を強張らせ、目を閉じる。

 予想していた感触は訪れなかった。薄目を開ければ、彼の手が次々とボタンを留め、最後の1つを留めようとしていたところだった。


 それに気づき、理解したときには、ボタンは全て留まり、彼の手は離れていた。


「はい」

「ありがと……」


 顔を上げれば、彼の甘い微笑みが目の前にあった。その瞳はあたしだけを映している。恥ずかしくて、俯いた。


「わっ」


 彼の手が背中と脚に伸びたかと思うと、足が床から離れていた。浮遊感に、彼に抱かれているのだとすぐに理解した。慌てて彼の首に腕を回す。小柄な彼が軽々とあたしを抱え上げることが信じられなくて、少し怖くて、首にしがみついた。

 浮遊感はすぐに終わる。彼の行き先はあたしのベッドだ。彼がベッドに腰を下ろし、あたしの腰は彼の脚の上に降ろされる。膝の裏に回されていた腕は、いつの間にかあたしの靴を脱がすために足へと伸びている。

 恥ずかしいのに、されるがままにされてしまう。


 靴を脱がされ、ベッドに寝かされる。

 毛布が掛けられ、ベッドに腰掛けたままの彼に頭を撫でられる。


 ……いつもと違う。


 いつもなら、甘い言葉を囁かれて、いつの間にかベッドに倒されて、ひたすら彼の攻撃に身を捩るだけの、幸せすぎる時間を過ごすはずなのに。


 彼の顔を見上げる。

 甘すぎる微笑みが、熱い瞳がこちらを向いていた。

 心臓が跳ねる。


 幼くて、可愛いとすら思っていた彼の顔が、とても綺麗で、かっこよく見える。間近で見ると、手足から力が抜けてしまうほどだ。


 そんな彼の顔が、遠い。


 不安になる。

 どうしたのだろう。あたしが何かしただろうか。なぜ触れてくれないのだろう。なぜ近くに身体を寄せてくれないのだろう。熱くなる身体に、彼の冷たい身体は気持ちいいのに、どうして彼は体温を感じさせてくれないのだろう。


 頭を撫でる彼の手を掴む。

 彼の手が動きを止める。

 彼の表情は変わらない。


「クリス……」

「なあに?」


 近くにきてほしい。触れてほしい。聞かせてほしい。

 彼を感じたい。

 そんな、はしたない思考に、全身が熱くなる。


「き、す」


 キスしてほしい。


「し、て」


 ふ、とクリスが微笑む。ベッドに腰掛けたまま、身体を捻り、顔を寄せてくれる。

 目を閉じる。頬に手が触れる。冷たい指が髪を払う。

 頬に柔らかい感触が当たる。


 ……ちがう。


 目を開ける。まだ近くにあった彼の顔を睨む。

 どうして。

 続く言葉が思いつかず、彼をじとりと睨む。


 彼は嬉しそうに、甘く、甘く微笑んだ。


「ほら、そんな顔しないで、ね」


 頬に触れたままだった彼の手が、す、と頬を撫でる。

 冷たい手があたしの熱い頬を冷やす。


「疲れてるでしょ。早く寝なきゃ」


 そんなこと、は――――




 ぐわん、と視界が揺れる。




「おやすみ、キャロル」


 抗えない強烈な睡魔に、何も考えられずに意識を手放す。



 愛してる。そう聞こえた気がした。

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