120 痛くない
指、噛んでる……。
ブランの表情はよく分からない。何かを考え込んでいるようにも、何も考えていないようにも見える。一点を見つめて、じっと、僕の指を噛んでいる。瞬きもしていないんじゃないか、というぐらいに動かない。ただただ、僕の指を噛んでいる。
困ったな……いや、困らないけど……やっぱ困るかな……うん、どう反応すればいいか分からなくて困る。
僕は、その、覚悟を決めていたんだ。予想される展開に備えて、衝撃的な光景に耐えられるように、感情を、心を、揺さぶられないように……だというのに、これだよ。まさかの、噛んでるだけ。別の意味で動揺しちゃったじゃないか。なんだ、この夢。意味が分からない。
「ん……」
寝言だ。熟睡してる僕の寝言を聞くことになるとは……いや、夢だけどね。それに寝言というか、寝息というか、声が漏れただけだし。僕は相変わらず気持ちよさそうに寝ている。このベッドでそれだけ寝れるとは、僕、すごいなあ。夢だけど。
僕の声にブランの視線が動く。指から口を離し、寝ている僕へと顔を向けて……わ、笑った。ブランが、笑ってる……。
まあ、その、ブランは、笑うけど……当然、よく笑ってたけど、ね……こんな、うーん、ダラけた笑顔というか、ふにゃって、にへらってなるような、そうだ、ノワールみたいな、えっと、バ、バカそうな笑顔は……浮かべない、から……。
ブランが僕の指から口を離し、寝ている僕に顔を寄せる。ニコニコしてる。身体も移動させ、僕の頭の側にしゃがみ込み、ベッドに両手を添えてその上に顎を乗せる。僕の顔を真横から見つめる。ニコニコしてる。
……誰だよ、コレ!
その後も困る光景が続いた。いろいろと困る光景だった。一言で言うと、犬がいた。まるで犬がじゃれついているかのようだった。思い出すのも恥ずかしい。何やってんの、ブラン。夢だけど、夢だけど、ねえ……。
満足したのか、一通りじゃれついたブランは窓から静かに去っていった。後に残ったのは気まずさだけだ。ブランの私的な時間を覗き見してしまった気まずさ。知るべきでないものを知ってしまった気まずさ。夢とはいえ、今後ブランに会う度にこの光景を思い出してしまいそう。とても気まずい。どうしよう。
そしてこの夢はいつまで続くのだろうか、そんな疑問を抱きながらブランが出て行った窓を見つめていた。内開きの窓なのに、ブランが外に出てからちゃんと閉まっていた。魔法かな? 物音を立てることもなく、何の痕跡も残さず、去っていった。残されたのは、寝ている僕と、先客。あと、幽体離脱の僕。
何だったんだよ、一体……呆れたような、疲れたような、そんな気持ちで天を仰いだ。
「……」
見上げた天井は明るい色をしていた。あれ、さっきまで暗かったのに……? 窓の方を向くと……光が差している。後頭部には枕が当たっている。視界には髪の毛が入り込んでいる。あー、これ……目が覚めたのか。
手を目の前まで持ち上げ、噛まれていた指を観察する。見慣れた僕の指だ。噛み跡は無い。指を擦り合わせる。触り慣れた僕の指だ。何も付いていない。しばらく手の平を天井にかざしてから、ベッドの上に降ろす。
……夢、だよねえ。
変な夢だった。どうしてブランが、あんな……い、いろいろする夢を見たのだろう。訳が分からない。ま、まあ、夢なんて、そんなもの……だよね。意味なんて無い。うん。むしろ、悪夢じゃなかっただけいいじゃないか。うんうん。困惑はしたけど、最悪な目覚めではない。
身体を起こし、ベッドから下りる。ベッドと身だしなみを軽く整え、荷物を持って部屋を出ようと扉を勢いよく開ける。
あ、しまった。かなり大きい音が出た。
バツの悪さを感じながら部屋の中を振り返ってみれば、先客はすでにいない。ええ、いないのかよ、僕の罪悪感をどうしてくれるんだ、なんて顔も名前も知らない先客に内心毒づきながら、廊下に出て扉を静かに閉める。
さて、朝食を摂って、それから……キャロルに会いに、孤児院に行こう。
妥協しまくった宿で、しかも素泊まり。当然、朝食が用意されるはずもない。従業員に一声かけてから外に出て、ふと周りを見渡す。懐かしい街で、道を行き交う人々。壁が、道が、肌が、髪が、王都よりも浅黒い。朝日はまだまだ強いけれど、王都よりも少しだけ空気が冷たい。
その風景の中に、あの白い犬がいない。
……そりゃ、そうだ。懐いていただけで飼っていたわけじゃない。躾だってしていない。朝まで大人しく僕を待っていたらすごすぎる。どうせ勝手にどこかへ行ったか、それとも誰かについて行ったか、どちらにしてもあの人懐こさがあれば苦労はしないだろう。心配する必要はない。
道中の、あの妙な現象から気を紛らわすのに貢献してくれたし、感謝してるよ、邪険に扱ってごめんね、と寝起きでまだ少しぼんやりした頭で考える。
それで、記憶欠落と大移動と夢の各謎現象は……全部、あの少年のせいってことでいいのだろうか……?
そのことばかりを気にしていられるほどの精神的余裕が今後あるかどうか分からないし、とりあえずアイツを諸悪の根源にしてしまいたい。すべての原因にしてしまいたい。アイツはこの街にいるのだろうか。もしいるのなら僕の目の前に現れて誠心誠意謝ってほしい。オマエのせいでここ最近の僕の心情は最悪なんだぞ。好き勝手しやがって……!
じゃなくて! 目を閉じて頭を左右に振り、沸々と湧いてくる怒りを払いのける。足を踏み出し、人の流れに混ざる。とにもかくにも、孤児院は街の北西側だ。そんなに広い街じゃないし、僕も少しは成長して歩幅が大きくなっただろうし、どこか適当なところでのんびり朝食を摂ったり寄り道したり考え事をしたりしても昼前には着くだろう。いざという時は魔法を使えばすぐの距離だ。
この街を少し見て周りたいし、思考の整理と心の準備も兼ねて……ゆっくり、行こう。