106 歪む
白狐さんと僕による北の山脈紀行。
ゆっくり、少しずつ、何度も休んで、何日もかけて、僕と白狐は北の山脈を進んでいった。いったい王都を出発してからどれだけの日数が経ったのだろうか、とか、そういえば何も食べていないのに平気だな、とか、いろいろと気にするべき問題がいくつかあったけど、深く考えずに白狐と歩いた。
深く考えないようにしていた。
考えたくなかった。
もし、現実的なことを考えてしまうと、現実を直視してしまうと、思い出してしまう。直近の現実が、知りたくない事実が、受け容れたくない真実が、まとわりついてくる。
堕ちた思考の片隅でちらつく影に、殺されそうになる。
怖い。目を合わせてしまえば絶対に逃れられない。分かる。一瞬だ。あっ、と言う間さえもらえない。僕が目を開けるのを今か今かと待ち構えている。
じっと息を潜めて、そのくせ気配を消そうともせずに、気づけとばかりに僕の顔を覗き込んでいる。僕が気づくのをあの手この手で早めようとしている。
毒々しい最期が、甘い腐臭が鼻腔を満たす。
怖い。僕が息を吸えば、それは好機となる。僕が身じろぎすれば、それだけ身動きできなくなる。そうして縛られ、奪われ、侵される。僕は欠片も残らない。
嫌だ。塗り潰されたら、戻れない。戻れないのに、まるで雨漏りでもしているかのように雫が落ちてくる。頭のてっぺんに、1つ、また1つと積み重なっていく。
何度も音が響いてきて、その度に膨れ上がっていく。ゆっくりと、少しずつ溜まっていって、耳障りな鼓動がますます大きくなる。重くて、煩わしくて、痛くて、苦しい。
どかしたいのに、動けば、零れて、溺れてしまう。
嫌だ。嫌なのに、どんどん黒くなる。どんどん大きくなる。どんどん近づいてくる。どんどん締めてくる。お願い、やめて。もう、楽に、させて。
ああ、瞼の裏も、目の前も、どちらも等しく光が閉ざされているのならば。
手招きされるままに、その藍に、飲まれてしまおうか。
そう思った。だから目を開けた。目の前はやっぱり暗かった。見えなかったものが、見える。見なかったものを、見ている。あれだけ怖くて、嫌だったものを、僕は――――
そうして落ちた視界の片隅で揺れた影が、僕を掬った。
目の前には非現実的な光景が広がっていた。理性的な魔物に護られ、道を案内される。魔物の身体に身を預け、長い尾に包まれて眠る。常に隣にいて、ただ単に寄り添ってくれる。
見た通りの光景が、そのままの意味だった。
怖くなかった。嬉しかった。温かかった。
明るかった。優しかった。
白く、輝いていた。
「おいおい、無視するだなんて、ひどいじゃあないか。全く、悲しいや」
夢を見た。
「それは、理想。幻想。空想。直に終わる。現実から逃げて、幻に甘えて、どうするんだい? 気づいていないフリも、もう限界じゃあないのかい?」
少年がいた。
「せっかく思い出したんだ。せっかく気づいたんだ。演じておくれよ。楽しませておくれよ。そのための舞台なのだから。そうだろう、綺麗で愚かなヒーローくん」
少年は笑った。
「己れからのサプライズは以上さ。そうだ、お前も何か言ってやれよ、なあ……」
見慣れた道に、さらには北の山脈の入口が、東順路の入口が見える場所にまで戻ってきた。本当なら喜ぶべきところだけど、白狐と別れることへの不安の方が強い。山脈から出るのが怖い。
「もう、ここまでで、大丈夫、だから……」
でも、逃げられない。立ち止まった僕の方に振り向いている白狐へと告げる。言葉、理解しているのだろうか。分からないけど、感謝の気持ちを言葉にして伝えたかった。動作にして伝えたかった。
「ありがとう、本当に……ありがとう」
白虎の隣に膝をついて抱き着き、首に顔を埋める。そんな僕の奇行に驚きも嫌がりもしない。振り払われないのをいいことに、回した腕に力を込める。白い狐の魔物。僕をここまで導いてくれた。支えてくれた。でも、ここで、終わり。もう、ここからは、いない。ゆっくりと身体を離し、金色の瞳を見上げる。
白狐の顔が近づいてくる。僕の頬に、そっと、顔を寄せる。触れたかと思うとすぐに離れて身体を反転、一度も動きを止めることなく来た道を走って戻っていった。途中で立ち止まることも、振り返ることもなく、あっという間にその白い後ろ姿は見えなくなった。
立ち上がり、入口へと向かう。このまま、王都まで、ちゃんと、無事に、帰らなきゃ……次第に歩みが速くなる。我慢できず、走り出す。それでも落ち着かず、飛んで移動する。入口を越え、平原へと出る。
ここまで送ってもらったんだから、ちゃんと、帰らなきゃ……生きて、帰らないと……。
魔力の量を気にすることなく全力でブッ飛ばして帰ったおかげで、魔物も野生動物も賊も全て無視して王都までたどり着くことができた。言い様の無い複雑な感情を胸に、そのまま堂々と寮の正面玄関から入ろうとしたところで、おじさま管理人に止められた。うーん、数ヵ月前にも同じようなことがあった気がする。
どうやら僕が北の山脈で行方不明になったことは既に寮内に知れ渡っているらしい。寮どころかギルドにまで捜索願が出されているとかで、どうやらかなり大きな問題になっていたようだ。日付を教えてもらえば、探索から既に10日も経っていた。生存が絶望的だと言われても納得してしまいそうな日数だ。
それからは僕が無事に戻ってきたことを寮生に知らせたり、捜索願を取り消したり、事情聴取を受けたり、医師に診断されたりと、慌ただしく1日を過ごすことになった。
事情聴取ではどこまで正直に告げるべきか悩んだ。真実が知られれば確実にテッドの立場が悪くなる。僕が正直に話しても問題無いように既に対策をしてあるのだろうか。というか、テッドを気遣うべきなのだろうか。
結局、めんどくさくなって、覚えてない、の一点張りにした。白狐のことも話さなかった。魔物との戦闘後の記憶は曖昧で、気づけば見知らぬ場所で気を失っていた。そこからは必死になって帰ってきた。詳細は覚えていない。とにかく疲れた。休ませてくれ。それだけ訴え続けていたら、よっぽど僕の顔がやつれていたのか、思ったよりも早く解放された。
あー、よかったよかった。大きな嘘は吐いていないし、バレても誤魔化せそうだし、大丈夫。完璧。何の問題も無い。
全てが終わってから、ふと、クロのことが気になった。寮内を探してみたけど、すぐに見つからないし、周囲からの好奇の目が鬱陶しいし、本当に疲れていたし、早々に諦めてさっさとお風呂に入って寝た。
学校は既に始まっている。初回の授業を受けられなかったことが……まあ、いっか。とにかく、疲れた。寝よう。学校のことはまた明日、考えよう。
嫌な夢じゃないといいな……って、夢……夢か……記憶の事、ちゃんと、調べないと、な……。
そして僕は寝坊した。気づけば太陽は空高く、午前が終わろうとしていることを暑苦しく告げていた。誰か起こしてくれてもいいのに。確かに僕は行方不明からの単身北の山脈帰り。それが昨日の今日だ。腫れ物扱いされるのは納得できる。だけど、それとこれとは別だ。はあ……学校、授業、履修科目……どうしよう。
まあ、後期だし。今月は何も履修しない、というのもアリかな? そんなことを考えながら部屋を出て、人気の無い廊下を進む。何も履修しない、となると……何をしよう。1ヵ月もあるんだ、いろいろ……うん、いろいろ、できる。
食堂の前で立ち止まる。朝食、は……別に、いいかな。そんな、お腹、空いてないし……誰かがいたら、めんどくさいし。身体の向きを変えて玄関へ向かう。
まずは、そうだなあ……王都の外にでも出るか。今、すごく、魔法をブッ放したい。後のことはそれから考えるとしよう。