司波 佑陸
学校に行けるようにしてやる、とは言ったものの、具体的なことは何も考えていない。予想外のことなので、仕方がないと言えばその通りなのだけれど。
とにもかくにも、真っ先に両親に伝えるべきであろう。この日をどれだけ待ち望んでいたことか、僕には推し量ることもできない。
現在、朝の八時ほど。丸い形状に長針と短針、それにもっとも駆け足の秒針。見た目は慣れ親しんだオーソドックスなアナログ時計と変わらないので、そのまま読んで間違いなさそうだ。
おそらく、渡海さんは漁師と領主とがあるから既に家を出ているのでは、と踏んでいたし、予想通りその姿はなかった。まさか、葉菜さんまでいないとはさすがに思わなかったが。専業主婦じゃなかったのか?
どうしたものかとあれこれ考えているうちに、ふと違うことが思い浮かんだ。持て余した朝の時間で家の中を案内してくれている女の子を呼び止める。
「朝ごはんはいつもどうしてるんだ?」
僕は別に我慢できるけど、カレンもそうだとは限らない。こういうことから案外、葉菜さんに届くあてが見つかるかもしれないし。
「いつもは、おかあさんがじゅんびしてくれるかなあ」
まあ、言うて五歳だしそれもそうか。いや、六歳になったんだったか。
…何か食べられるものを探してみるか、あまり人様の台所に入り込むのも気が引けるがしょうがない。
というのも、台所は聖域だ。学生の一人暮らしを筆頭に例外もいくらかあるが、その領域には絶対的な主人(だいたいは母親だろう)が存在する。勝手知ったる我が家ならばともかく、昨日知り合ったばかりの家庭で、言わば神に断りなく、キッチンを使うなんて考えられない。
――なんて持論があるけれど、ぶっちゃけ料理なんてできないので厨房に立ちたくないだけだ。半年前に学校でやった調理実習で、うっかり親指に切り込みを入れて以来、包丁は持たないと文字通り深く刻んだ。
「ちなみに昨日の朝は何を?」
「えーと、えーっとね…わすれちゃった!」
にへらと笑ってごまかす精神年齢六歳。しかし実際は中等教育も終わろうという年頃なので、このあたりのギャップがまた威力を増す。ほんと可愛いなコイツ。
そうかそうか、ごはんは忘れても僕のことは憶えているんだなあ……なんで無生物と張り合ってんだろう、さすがに情けない。
いいかげんに腹を決めて、とりあえず冷蔵庫に向き合う。と、そこでメモが目に付いた。どれどれ―――
『 神樹さまのことで渡海さんのお手伝いと、
珠樹さんの身元について手続きに外出しています。
ご飯は冷蔵庫の中にあります、温めてからどうぞ。
追伸 あんまり仲良く眠っていたので微笑ましくて、
渡海さんにも写真を撮って送ってしまいました(笑) 』
―――なる、ほど。
「カレン、牛乳は好きか?」
「え~…あんまりすきじゃない、かも」
「結構。それなら全部飲んでしまっても問題ないな」
体への打撃はまだ力を入れられれば少しはマシになる。一方、顔は力の入れようがないので、気休めにカルシウムを盛る作戦に出た。
ちなみに、この後めちゃくちゃ腹壊した。午前中いっぱいトイレにこもり、カレンから非難の視線をいただいたのは言うまでもない。
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正午を過ぎた頃、インターホンが鳴った。
まだ葉菜さんは戻っていない。自分が応対したほうがいいだろうかとも思ったが、いまいち立場がはっきりしないので、とりあえずカレンに出てもらうことにした。
「はーい?」
現れたのは、どこかしらの制服を着た一組の男女。ちょうど僕と同い年くらいだろうか。
まず目に付いたのは男子。身長は標準をやや上回るくらいだが、体格のよさからもう少し大きく見える。短髪や端正な顔立ちから、武人のような印象を受けた。武道とは縁遠い僕にもそう感じさせるのだからよっぽどだろう。
その隣で袋を持っている、ボブカットの女の子も性別からすれば背が高い方だ。武人(仮)の放つオーラに優るとも劣らない存在感から、そのしなやかな肢体もよく鍛えられていることが察される。
何者だ…? 自慢にもならないが、もしもこの場でカレンや華苑邸に危害を加えられても、僕にはどうすることもできないだろう。一人悪い想像ばかり膨らませるも、それはすぐに杞憂となった。男の方が目線の高さを合わせて口を開く。
「やあ、花蓮ちゃん。いつも弟たちが世話になっているね。お父さんかお母さんはいるかい?」
「あ…もしかして、ゆうくんとむっちゃんのおにいさんおねえさんですか!?すごいです、そっくりです!」
どうやら、縁のある間柄のようで安心した。それ以上に、ホント悪い人たちじゃなくてよかった…
「でもごめんなさい。おとうさんはおしごとで、きょうはおかあさんもごようじでいません」
カレンの言葉に反応してか、女のほうが怪訝そうな顔をする。
「へえ。じゃあさ。――今、家にいるもうひとりの人は、だれなの?」
………え?なんでそんなこと分かったんだ?
動揺して、物音を立ててしまう。もう隠れられないし、どうしても隠れてなくちゃいけないわけでもない。そのまま玄関へ向かう。
いざ対峙すると、正直ビビる。絶対殴られたら天国行くってこれ…!
「はじめまして。私は司波と申します。それで、あなたはどちら様でしょうか」
表面上はにこやかだし、言葉遣いも整っているが、目が全く笑っていない。こんなところで生死の分岐。本当に勘弁してくれ。
「こちらこそはじめまして。僕は成束珠樹といいます。この家で、―――家庭教師をしています」
まあ、嘘ではない…よな? 咄嗟にしては、そこそこの返答ができただろう。
――そう、思っていたのは一瞬。司波と名乗った男がこめかみを引きつらせながら詰め寄ってくる。
「家庭教師。家庭教師ときたか!! 成束と言ったな、あまり笑わせるなよ。お前の目的は何だ?どんな意図があってこの家に、花蓮に近づいた?」
ええ、なんかすっごいキレてるんですけど…。
けれど、こちらも女の子相手に、夢を叶えるだなんて息巻いておいて、引き下がるわけにはいかない。
「彼女を、学校に通わせてあげるって約束したんだ。決して簡単ではないことだとも承知している。今ここでキミに笑われようが、この意思は変わらない」
「は、この子の抱える問題の大きさを理解しているのか? いいか? 彼女はな――「知ってるよ」
続く言葉を遮る。
ああ、きっとそうだ。たぶん、わかった。
友達二人の、今知った兄と姉。女の子が持った袋。カレンの記憶障碍。そして誕生日。
「時間は、また進み始めたんだ。あとは、周囲にだってやれることはある」
ハトが豆鉄砲をくらったような顔をする司波。まだ理解が追いついていない様子。やがて、自らの誤解ではないことを確認するために、問を投げる。
「いつからだ? いつから記憶が、いや、それよりもどうやって?」
「残っているのは昨日の記憶からだ。どうやって、というのは、その――「タマにぃとね、いっしょにねたの!」
沈黙。
「わお」と好奇の目線を向ける女に、完全に固まる司波。二種の異なる目線に、どうしようもなくたじろぐ。
黙っていたかと思えば、いきなり爆弾を投げ込んできた本人はというと、のんきに「ねー♪」なんてのたまっている。
「ち、違うぞ。やましいことなんてない、ただ、せがまれて添い寝をしただけだ!」
「添い寝…」
ふらり、と背を向ける司波。
「ちっくしょおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!」
雄叫びを上げた刹那、凄まじい速さで駆け出し、そのまま戻ってこなかった。
この状況、性別がことごとく逆だったならば、平日の昼下がりおなじみの「この泥棒猫!」から始まるサスペンスに発展していたかもしれないなあと思うと、男に生まれたことに感謝しかなかった。
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やがて、取り残された少女が苦笑とともにこちらに向き直る。
「珠樹くん、だっけ? ごめんね、ウチの弟が。いつもはあんなんじゃないんだけど、花蓮の事になると周りが見えなくなっちゃうんだ。また会うことがあったら謝ってくるはずだから、それで許してあげてくれないかな?」
「あ、ああ…別に謝られるようなことはされてないんだけど。それで、君が"むっちゃん"でいいのか?」
驚いたかのように瞬きをする眼前の少女。それもつかの間、不敵に微笑む。
「…へえ、察しがいいんだ。いいね、嫌いじゃない。
「そうだよ、さっき情けなく逃走したのが、弟の司波佑陸。
「そんで、私が姉の睦海。姉弟といっても、双子だから同期なんだけどね」
――やっぱりだ。九年経っているんだから、そりゃこうなってるだろうな。
しかし、未だ状況にしっかりとは着いてこれていない六歳が一人。
…少し、二人にしてあげよう。その場を離れるべく、僕は歩き出した。
「僕は庭を見て回ってるから、カレンと話してきなよ。九年ぶりの再会みたいなもんだろ。ついでに、その手に持ってるモノも、本人に渡していいんじゃないか? ちょうど今日から進み始めたんだ」
「……なるほど、またうまい具合に動き出したもんだね。ありがとう、そうさせてもらうわ」
それには手を振り応えて、玄関より入る二人を見送る。
カレンにとっては六回目の誕生日でも、周りからすれば違う。九年間、面と向かって誕生日を祝えずに、両親へ託すことしかできなかった。この双子もまた、彼女を待ち望んでいたうちの二人なんだろう。
散歩がてら、これからのことを考える。先ほど、隠れていた僕の存在を感知した睦海や、信じられない速さで去っていった佑陸。それに昨晩聞いた、カレンの"言霊"の話。
迷い込んだのが昨日今日とはいえ、ここのことは何も知らない。もしあれば、図書館へでも案内してもらうことにしようか。