それは、わたしじゃないから
ふう、と息をつく。
保護という名目で居候をさせてもらえることになり、続く領主との話を終えた僕は、ちょうど母娘と入れ違いに風呂を借りた。一人で入るにはやや大きいゆったりとした浴室も、華苑が名家であることを雄弁に語っていた。普段通りであれば、その快適さは自宅の風呂にも劣らなかったであろう。
そう、普段通りであれば。
「記憶のリセット、かあ…」
カレンについて渡海さんに聞かされた話は、そう重いものではなかった。大きな事故の後遺症、特別な事件に巻き込まれたことによるPTSD。当事者はもちろんだが、その家族にも少なからず傷を残しているはずだ。そこを再びほじくり返すようなことにならなかったのは幸いだった。
しかし、根本的な解決を図る上では最悪とも言える。
ある日突然、記憶障害が起きていた? 冗談はよしてくれ。きっかけすら分からないのではどうしようもない。もっとも、一介の高校生に過ぎない自分では知ったところでどうなるものでもないのだろうが。
そりゃ周りもさじを投げて九年間様子見、という建前の放置だってするだろうさ。
もちろんそれを責める権利はないし、そのつもりもない。この問題に関して僕は、ド新参でズブの素人にほかならない。解法の検討がつかない難問にかかりっきりになるよりも、いくらか易しいモノにたくさん取り掛かることが望ましいのは学力試験が証明している。医者だけではなく、多くの患者にも制限時間があるのだから、緊急性の低いカレンの優先順位はどうしたって下がってしまう。
ならば。
「考えろ、考えろ。――大人たちにはできなくて、自分にしかできないことを」
帰る見通しが立たない以上、時間はあるのだ。時間は。
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とんとん、と控えめにノックをする。
「カレン、起きているなら少し話をさせてくれないかな」
「あ、タマにぃ。どうぞ~」
開いたドアから顔をのぞかせる、ふわっとした髪の少女。少しおとなしく思われるのはやっぱり、眠いからだろうか。
せっかく一日でそれなりの信頼を得られたんだ、このまま寝てしまわれては困る。誰とでも仲良くできる子なのかも知れないが、明日、同じことをしてうまくいくとは限らない。
「実はな、カレン。僕はいろいろあって帰る家がなかったんだけど、渡海さん――カレンのお父さんにお願いして、しばらくここに泊めてもらうことになった。これからもよろしく」
「? タマにぃ、うちにすむの?」
「そうだよ」
「やったあ、それならいつでもあそべるね! でも、どうしておうちがないの?」
「それはまた、今度話すよ。ところで、今は何をしてたんだ?」
「んとね、にっきをかいてたの。おにいちゃんとあえた、きょうのこと」
「そっか、すごいな。僕の周りには五歳で日記をつけられるほど字が書ける子はいなかったよ」
「わたしには、ことばをつかうとくべつなちからがあるんだって。だから、ことばのおべんきょうはしなさい、って」
言って、えへへと笑う。言葉の力――言霊だろうか? 結界がある世界だし、そういうものがあっても変じゃない。不思議ではあるけれど。
日記、まず一つの対策はそれだった。無難といえば無難だが、とりあえず僕のことを書いてもらわなければ、明朝にはただの知らない男になってしまう。中身が五歳だから日記をつけられないかもしれない、という心配は杞憂だったらしい。提案するまでもなく書いてくれていたとは。正直、嬉しい。
でも、日記があるということは、記憶が残っていないときのことも分かっているんじゃないか?
「カレン、その日記――読み返したりはしないのか?」
「うん、よまないよ」
「それは、どうして?」
「だって、――、
「こわい、から。わたしとおんなじ字だけど、それは、わたしじゃないから」
昼に見た、泣きそうな表情とは違う。不安よりも深く、沈み込むような、恐怖。
確かに、その通りだ。
どんなに嬉しいこと、楽しいことがそこに書かれていようとも。
我が身に覚えがないのならば、自分ではない誰かのことと、何が違うだろう?
……配慮に欠けていたか。俯くカレンを抱き寄せ、頭をなでる。
結局、こうすることしか思いつかなかった。明日、目が覚めてこの関係が失われたら、どう慰めるのかも、考えておく必要があるのかな。
「こわい。わたし、こわいよ。あしたおきたら、タマにぃがわからなくなってるなんて、いや…ぜったいに、いやだよ……!」
きっと、もう何年間も、消えていく今日の自分を思ってつらい夜を過ごしてきたのだろう。見ていられなかった。
「でも、僕は忘れない。それに、明日また会えるさ。今日のお前を知った明日のお前と、今日と同じことをする。そうすれば、明日も今日のカレンに会える。それで、また新しいことをするんだ。明日会える、今のカレンと。ほら、ずっと一緒にいられるし、遊べるだろ?」
苦し紛れにしたって我ながらひどい理屈だ。アキレスと亀みたい、なんて自嘲してしまう。彼女も、おかしなことを言っているのだとわかっているようで、「なあに、それ」と笑う。よかった、意味はあった。
「じゃあさ、」やや落ち着いたカレンが言う。
「わたしが、ねるまで、となりにいて?」
「ああ、それくらいならお安いご用だ。………?」
自分にできることはなんでもしてあげたい、その一心で反射的に返事をしてしまったが。
――女の子と、出会ったその日に………同衾?
バカな。いくらなんでも誤解が過ぎる。これは添い寝だ、添い寝。僕はただ、文字通り手を貸してあげたいだけだ。というか、ほかに誰もいないのだから、言い訳をする必要もない。
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布団に入ってからも他愛のない話を続けていたが、やがて静かになり、そのまま眠ってしまった。やっぱり疲れてはいたんだな、と顔を見やると、一筋の涙。一日に、二度も、五歳児に気を使われてしまった。プライド? 庭の魚にさっき食わせてやった。
……このバカ。子供のくせに気ぃ使ってんじゃねえよ、ちくしょう。
明日からのことを考えるとやっぱり気が重い。でも、これしかない。
僕が適役な、僕にしかできない、僕なりの答え。
日記もそうだが、本命はこっちだ。医者を含め、葉菜さんや渡海さん大人になくて、今の僕にあるもの。
考えた結果、やっぱり時間しかなかった。
どう考えても、僕個人の力量で彼女の記憶をどうこうできるとは、到底思えない。だから、現状のまま、前へ進む方法を選ぶのだ。
ひたすら付きっきりで、周りの人との橋渡しをする。ただただ不毛で、具体的なことは何一つ考えていない。どのみち、人が三人も集まれば、想像を超えたことなんていくらでも起こりうる。慣れるまでは手探りだが、それでいい。
寝付いた頃に、布団を出て、用意してもらった部屋に戻ろうと思っていたのだが、右手をきゅっと掴んで離してくれない。もうこのまま寝ちゃうか、という覚悟を決めたら、続いて眠りに落ちるのは早かった。