成束 珠樹
どのくらい深くまで歩いてきただろうか。
時計をする習慣がなかったものだから、当然今も付けていない。家を出たのは確か――三時頃だった。すでに日はとっぷりと沈んでしまっている。かれこれ四、五時間は歩いているはずだ。
それだけ歩き続けてもたどり着けないような場所を目指しているのか。それほど時間がかかるにも関わらずどうして時計すら持たずに出てきたのか。それ以前に歩き以外の移動手段を用意すべきだったのではないか。いろいろな疑問が出てくるだろう。僕だって疑問だ。
順番に答えよう。
そもそも、僕は地図を持っていない。これは僕が特別無策のマヌケということではなく、最初は目的もなく、気晴らしに散歩をしていただけだったのだから。
二つ目の回答に繋がるが、散歩の途中で僕は一つのおとぎ話を思い出した。と言っても、この地域に古くから伝わる言い伝えのようなものだ。
曰く、町のはずれに広がっている竹林の奥深くに、現れたり消えたり、はては移動していたりもする集落があって、そこに住む人々はヒトならざる力を有している――らしい。よくもこんな変わりばえのしない口伝が現代まで残っているものだと田舎ネットワークに感心する。
が、しかし。僕以外の人間は、幼児から老人まで、当然同世代の若者も含んで、みんながみんなこんな話を信じているのだ。正気を疑う。
そんな都市伝説――もとい、田舎伝説が頭に浮かんでしまった"あてもなくふらついていた僕"が暇つぶしに竹林に入るのは誰にだって想像できる。
話を戻すと、地図などはじめから存在しないし、目的地の実在からして怪しいということだ。当然到着時間の見通しもない。……やはり無策のマヌケなのかもしれない。
そして三つ目の理由については説明不要だろう。どのみち林の入り口で徒歩に切り替えるしかなかったのだ。むしろ、林の入り口に一台の自転車だけが残っている絵面なんて、ある種不吉なことを連想させてしまうのだから、最初から持ってこなくて正解だったといえる。わざわざ追ってくる物好きな人に見つかってしまうのも忍びない。
誰を相手取るでもなく、脳内で説明や自己弁護をすることにも疲れてきた。今のが何回目だっただろう。十回を超えたあたりから記憶がおぼつかない。樹海は越えられないんですけどね。……風のせいだろうか、少し寒くなってきた。三月になったばかりだし、冬を越えたと言っていいのか、まだ怪しい時期だ。
風で笹の葉がさらさら擦れる音が心地よい。ふと見上げると、わずかに開いた木々の隙間から、今にも折れてしまいそうな三日月が見えた。その控えめな反射光のおかげか、星もよく見えた。遠吠えをする犬の声はいつもより遠く、対照的に虫の声はとても近かった。
普段と少し違うだけの夜に非日常を感じ、僕は今さら、自分が家に帰りたがっていることに気がついた。件の集落が存在するなど、はなから思っていなかったし、気晴らしの散歩という目的はすでに果たしている。
少し休憩をしよう、それで落ち着いたらすぐにでも帰ろう。そう思って、腰を下ろした。
この考えには間違っている、というか、甘いところが二か所あった。
まず一つはあてもなく繰り出し、半日近くも彷徨い歩いた林を出るのはそう簡単ではないということ。そのうえ今は夜だ。ヘタをすると遭難してしまう。すでに遭難一歩手前のようなものだが。
もう一つ、こちらはより単純な話だ。休むことなく長時間、知らない場所を歩くことは身体的にはもちろん、精神的にもそれなりの疲労がある。そんな状態で腰なんて下ろせばどうなるか。
動く気力を奪われて眠りに落ちる。それまでに、さほど時間はかからなかった。
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少年―――成束珠樹が夢の世界に旅立ってから、少しだけ後のこと。
「――あら?」
現れたのは一人の少女。
「もしもーし。こんなところで寝ちゃうと、風邪を引いてしまいますよ」
肩にかからない程度の黒髪。夜空よりもなお澄んだ瞳。外見的特徴をもう一つ加えるならば、いわゆる巫女装束を身に着けている。歳は十七、八くらいだろうか。
仕方ない、と口にして揺すり起こそうとする少女。しかし、その腕に触れた途端、熱いヤカンでも触ってしまったかのように思わず引っ込める。
「これは…もしかして」
少女は、何かを確かめるように、今度はその腕にぺたぺた触れる。分かってしまえば驚くことのない、そんな具合の刺激であるようだ。
やがて、やっぱり、とほころんだ少女の顔は、いくらか幼く見えた。まるで――そう、恋に恋する、夢見る少女そのものだった。
心から愛おしい、といった様子で、眠ったままの少年を抱き、声をかける。
「こうもすぐに会えるとは露ほども考えていませんでしたわ―――婿さま♡」
それから少しの間、少年を見ては思っていたよりもイケメンだ、とかお名前はなんというのかしら、とか子供の名前はどうしましょう、とか考えては頬を緩ませたり、少年の頬をつんつんしたりしていたのだが。
「いけません、このまま放っておいたら婿さまのお体に障ってしまいます!とりあえずは郷にお連れしましょう。事情は起きてから説明すればよいでしょうし……よし」
やおら、ふわりとした風が、少女を中心に巻き起こった。"郷"の人が見れば感じるものがあるのだろうが、少年のいる世界のおそらく大多数は、暖かな優しい風以上の感想は抱くまい。
「空間指定…完了、時間指定……完了、周囲に人影………なし、っと。
「では、参りましょう。私の故郷へご案内いたします。レイ―――
風がその強さを増す。さあ今から時空跳躍ですよ、というまさにそのタイミングで、事は起きた。
眠っていた少年が、寝ぼけて、少女の腰に抱きついてしまったのだ。
いや、それだけならば、術式にはなんの影響もない。元より二人まとめて跳ぶつもりであったのだ。
しかし、術者はというと。
「―――じゅうひゃあああああああああああああ!?」
あれほど、眠っている少年へ熱い愛をささやいておきながら、異性への免疫が実はからっきしだった情けない術者は、見事に素っ頓狂な声を上げて飛び上がった。
既に術式は発動してしまっている。このままでは知らない場所で遭難しかけていた少年を、追い打ちで知らない時間にまで跳ばして、完全に遭難させてしまう。それだけは、絶対に避けなければならない。
パンッ、と頬を張り、心を鎮める。落ち着いて、まずは空間、次に時間のズレを正す。これだ。
しかし、やはり混乱していたのだろう。―――単に、跳躍対象から少年を外すだけで、事は足りていた。あるいは、少年の腕でもなんでも、体の一部を掴んでさえいれば解決した。一緒に跳べば、遭難しても再び戻ってくることができるのだから。
結果的に、少女は郷に転移していた。ただ、中途半端な再指定により、少年の姿はどこにもなかった。
もしかしたら転移前の座標にいるかもしれない、という一縷の望みにすがり、元の竹林に戻って歩き回り探したが、見つけることはできなかった。
最悪の事態。
そう理解した少女は、―――とりあえず、その場に寝転んで天を仰いだ。
郷への報告、対策の考案、少年の安否を考えると(否の場合なんて考えたくはないのだけれど)、一刻も早く考えて、動かなければならないのだが。
「これだ、じゃあなかったなあ~…」
無気力を全身で表す少女は、そう呟いて、一旦、目を閉じた。現実味の帯びきっていない、今のうちに睡眠を取ることも、まあ正しいだろうと、自分に言い聞かせながら。
こんなところで寝ちゃうと、風邪を引いてしまいますよ。
ついぞ、その自らの言葉を思い出すことはなかった。
これが、少年と少女との初対面、その顛末であった。眠ったまま向かい合うことも、対面という言葉の意味に含まれるのかどうかはさておき。