4.竜に護られた王国
夜が明けて冬至の前日の朝、《海の民》の《猛き》アースムンドは、ヒルダ姫の呼び出しに応じて、王城の中庭を訪れました。
回廊に囲まれた冬枯れの中庭で、両脇に将軍と大臣を従えて、ヒルダ姫は婚約者を待っておりました。
姫君の告げた言葉は、《猛き》アースムンドには思いもよらぬものでした。
婚礼は取りやめる。《海の民》は即刻この王国から立ち去るように。従うならばよし。だが従わぬというならば、この国に残る《海の民》の命、すべて奪い去ってくれよう。
何を馬鹿な、と笑い飛ばすアースムンドを前にして、姫君は黙って右手を上げました。
すると、にわかに激しい風が巻き起こり、太陽が黒い影におおわれました。
いいえ、雲ではありません。思わず空を見上げたアースムンドは、そこに白く輝くおおきな竜の姿をみとめました。
竜は荒々しい叫びをあげ、今にも掴みかからんばかりにアースムンドを睨み据えました。
「これなる竜は、わたくしの友にして我が王国を守護するもの。
今、我が王国は竜の護りを得ました。そなたらがいかに武を誇ろうと、我が友なる竜の前には芥に同じ。命を惜しむならば、はやく故郷へ帰りなさい」
アースムンドは歴戦の勇者です。驚きおそれつつも、冷静に姫君と竜を値踏みしました。
竜は手妻のたぐいといったまやかしではなく、本物のようです。そして姫君は、緊張しながらも揺るがぬ自信を漂わせています。
ヒルダ姫の言葉が偽りではないことを、アースムンドは悟りました。
《猛き》アースムンドの指揮の下、《海の民》の軍勢は故郷へと引き揚げていきました。
アースムンドは駆け引きに優れた首領でした。先だっての戦は《海の民》の勝利に終わったことを持ち出し、《海の民》の不利にはならない形で話し合いをすすめました。そして《海の民》をひとりたりとも損なわぬばかりか、王国の宝のいくばくかを故郷に持ち帰ることまで成し遂げたのでした。
城の見張りの塔の頂上で、ヒルダ姫としろがねの竜は、《海の民》の船団が水平線の彼方へ消えていくのを見送りました。
「《海の民》は去った。私もねぐらへ帰るとしよう。用のある時はいつでも呼んでほしい。何をおいても駆けつけよう」
しろがねの竜は穏やかな声で言いました。ですがその心は、裂かれるようなかなしみで満たされていました。
この姫君と過ごした時間はまだわずか。にもかかわらず、竜はヒルダ姫と別れがたいと感じていました。フリーダのひ孫であることとは関わりなく、ヒルダ姫その人を、竜は慕うようになっていたのです。
ですが姫君は人間です。やがて人間の男を伴侶として迎え、その人間とともに生きていくでしょう。竜よりも早く、この世から去っていくことでしょう。
「そばにいてください、そう願ってはいけませんか。《暁の光》」
ヒルダ姫が言いました。
竜の新しい名を呼ぶその声は、静かでありながら、かなしみに満ちているように思われました。
「姫よ、私は竜であなたは人間。ともに生きることは難しい」
「そうですね。わかってはいるのです。このようなことをお願いするのはあなたにとって迷惑なことだと。それでも言わずにはいられなかった」
ヒルダ姫の声は淡々としていました。ですが、今にも泣き叫びそうになるのを必死でこらえているような、切々としたものがあふれ出ていました。
「迷惑などではない」
耐え切れず、竜はその心にあることを、そのまま言葉にしていました。
「決して迷惑などではない。あなたが望んでくれるなら、そばにいよう。いや、そばにいたいのだ。我が姫よ」
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はるかな北の地に、ちいさな王国がありました。
国を治める女王は、美しくて賢い方でした。
女王の傍らにはしろがねに輝く竜がおりました。
竜は女王を支え、ともにこの国を守っておりました。
女王には夫がおりました。
白銀の髪に氷の色の瞳を持つ女王の夫は、麗しい声を持つ吟遊詩人でした。
女王の夫は実はあのしろがねの竜なのだ、そのように語る者もいます。
ですがそれがまことであるのか、ただの伝説であるのか、今となっては知るすべもありません。
その頃、北の地では《海の民》が暴れまわっておりました。
多くの国が《海の民》の前に膝を折り、その支配を受けることになりました。
暗い時代でした。そんな中にあって、女王と竜に護られたこの国は長く栄え、人々の心に宿る希望の灯となったのです。