3.竜の名前
吟遊詩人の歌が終わると、城の広間に集まった人々は口々に感じたことを述べあいました。
美しい歌だという者もいれば、たいしたことのない歌だという者もおりました。
たとえば《海の民》の長の子、《猛き》アースムンドは次のように言いました。
「女子供なら喜ぶのかも知れぬ。だが俺には物足りぬ。
竜は強きものだ。
その強きものと戦う勇者の物語、あるいは、おのれの望むものを力づくでも手に入れようとする戦士の物語。そういった物語をこそ、俺は望む」
ただ、みなが等しく口にしたことがありました。
これははじめて聞く歌だ。吟遊詩人はどこでこの歌を知ったのだろう。
居並ぶ人々の中にただひとり、ひとことも感想をもらさぬ方がおりました。
《白き月》のヒルデガード、この城のあるじである姫君のみは、大きく目を見開き、顔を青ざめさせながら、何も語ろうとはしなかったのです。
大臣に促され、ようやくヒルダ姫は言いました。
「すばらしい歌でした。そなたならば、ほかにもすぐれた歌を知っていることでしょう。まだ疲れていないならば次の歌を」
「お望みのままに、姫君」
こうして楽の音とともに宴は続き、その夜は更けていったのです。
翌朝、ヒルダ姫の求めに応じて、吟遊詩人――《銀の星》のケレブリルが姫君の部屋を訪れました。
「訊ねたいことがあるのです」
人払いをすると、もの思わしげな顔で姫君は言いました。
「『しろがねの竜の歌』、そなたはどこであの歌を知ったのです。
みな、あの歌は初めて聴くものだと言いました。
ですが、わたくしはあれと同じ物語を知っています。
昔、母上が語ってくれた物語。幼い日、ただわたくしのみに、繰り返し語ってくれた物語が、あの歌と同じものなのです。
秘密の物語だと、母上は言いました。
ひいおばあさまからおばあさまへ、おばあさまから母上へ、母上からわたくしへ。母から娘へと語り伝えられてきた秘密なのだと。
ではそなたは。同じ物語を知り、それを歌いあげるそなたは、いったいどこで知ったのです」
吟遊詩人は応えました。
「あの歌は私の中にありました。そうとしか申し上げられません」
「つくり話だと……そなたが思いつくままにでっち上げたものだというのですか」
問いには応えず、吟遊詩人はじっとヒルダ姫を見つめています。
その氷のごとく澄んだ蒼い瞳は、口にはできない何かを訴えかけているように思われました。
ざわめく心を抑え、ヒルダ姫はなおも問いました。
「他にも訊ねてみたいことがあります。
あの後、竜はどうしたのでしょう。
そなたの思いつきでもかまわない。あの物語の続きを語ってほしいのです」
「承りました」
吟遊詩人は目を伏せて考え込みました。
物語を組み立てているのでしょうか、それとも何か迷っているのでしょうか。ずいぶんと長い間考え込んだ末に、ようやく顔を上げて、吟遊詩人は語り始めました。
「竜は苦しんでおりました」
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フリーダを祝福して送り出したものの、竜の心には消しがたいかなしみがありました。
どれほど自分がフリーダを求め、必要としていたか。離れることによって、竜はよりはっきりとそのことに気づいたのです。
フリーダがしあわせであることが竜の望みだったはずです。
アセルスタンとともに生きることこそが、フリーダのしあわせであるはずです。
そう思っているにもかかわらず、竜の中にはアセルスタンをうらやみ、そして妬む心がありました。
アセルスタンさえ来なければ、今でもフリーダは竜のそばにいてくれたことでしょう。竜の歌に耳を傾けて、一緒に笑ってくれたことでしょう。
そう、アセルスタンさえいなければ。
邪魔なものなど消し去ればいい。この爪で引き裂き、この牙で噛み砕いてしまえばいい。
竜は強く、人間は弱い。いかにアセルスタンがすぐれた騎士であろうとも、竜が本気で願うならば、葬り去ることなどたやすいはず。
そう思い至ったとき、竜はおのれの心に巣くうものの醜さにぞっとしました。
ですが、打ち消しても打ち消しても、憎しみはなおも竜の心を苛みます。自分の心のままならなさに、竜は悩み、苦しみました。
フリーダたちのことはなるべく考えないようにしよう。ただ時が過ぎゆくのを待とう。
苦しんだ末、竜はそう思うようになりました。
フリーダへの誓いは忘れない。名前を呼ばれれば必ずわかる。竜にとって名前とはそういうものだから。だからそれまでは忘れていよう。フリーダたちからは目を背け、気にとめないようにしていよう。
そうして百年の月日が過ぎ去っていったのです。
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「目を背けていた。だからなのでしょうか。竜は来てくれなかった」
吟遊詩人の物語を聴き終えて、ヒルダ姫はぽつりとそうつぶやきました。
「母上は物語とともにお守りを遺していきました。これは物語に出てきた竜の鱗なのだと、冗談めかして言っておられました。
幼いころは、それが本物の竜の鱗なのだと信じていました。でも育つにつれて、あれはただのおとぎ話だった、そう思うようになりました。
兄上と父上が亡くなり、《海の民》に結婚をせまられたとき、わたくしはあの鱗のお守りのことを思い出しました。駄目でもともと、そう思いながら、最後の望みをかけてお守りに口づけしたのです。ですが竜は来ませんでした」
「姫君は竜の名前をお呼びになられましたか?」
「いいえ」
「名前を呼ばれなかったので、竜は来なかったのかもしれません」
「でも、わたくしは竜の名前を知りません」
「母君の物語には、竜の名前は語られていなかったでしょうか」
「わかりません。覚えていないのです。
母上が亡くなったのはわたくしが六つの頃。それからはあの物語を語ってくれる人はだれもおりませんでした」
「竜は言葉に縛られます。そういう生き物です。名前を呼ばれれば来るということは、逆に言えば、名前を呼ばれない限りは来ないということでもあるのです」
「では、名前を呼べば、竜は来てくれたのでしょうか」
「……おそらくは」
吟遊詩人ケレブリルを下がらせると、ヒルダ姫は考えを巡らせました。
竜の名前。それがわかればすべてをくつがえすことができるのでしょうか。
ヒルダ姫の心に、一度は消え去った希望が宿ります。
姫君は母君の物語を思い出そうとしました。
幼い頃に聞いた物語はおぼろにかすみ、正確に思い出すのは難しいものでした。ですが、昨夜のケレブリルの歌によって、物語は少しずつよみがえりはじめます。
母君の物語はケレブリルの歌と大筋では同じです。ですが、細かいところですこしずつ違っていました。
そうしてようやく、ヒルダ姫はケレブリルの歌にはなかった言葉にたどりつきました。
母君の物語の中には、名前を求める竜に少女が語りかけた言葉があったのです。
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そして少女は歌うように語りかけました。
「雪と氷のしろがねの竜
やさしくておそろしい わたしの友達
雪のように明るく 氷のように清らな
あなたは星の奏でる歌のよう
強く 美しく そして輝かしい
だからわたしは あなたをこう呼ぶ
あなたの名前は……」
そう言って、少女は竜に新しい名前をささやきました。
少女の言葉に竜はおおきくうなずきました。そして新しく与えられた名にふさわしい形で、喜びを表しました。
星の輝きにも似たその声で、竜は誇らかに歌ったのです。
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少女がささやいた名前は何だったのか、物語は伝えていません。
そして、物語をいくらたどりなおしても、ヒルダ姫はこれ以上の言葉を見つけ出すことはできなかったのでした。
夜も更けみなが寝静まる頃、ヒルダ姫は見張りの塔に登り、星降る空を見上げていました。
その手には母君の形見のお守りがありました。
竜の名前は見つからないままでした。ですが、ヒルダ姫には思い当たるものがありました。
自信はありません。それでも、たとえ姫君の思う名前が間違ったものであったとしても、今より悪くなるはずもないのです。
姫君はお守りを両手で掲げました。そして、かるく口づけしてささやきます。
「わたしを助けてください、しろがねの竜――《星の歌》よ」
何も起こりません。
見上げる空には先ほどまでと同じように、静かに星が瞬くばかり。
ですがそのとき、星がひとつ、ひときわ大きく瞬いたような気がしました。
そして次の瞬間、激しい風が巻き起こり、ヒルダ姫に向かって吹きつけました。
あまりの風の激しさに、思わず姫君は目をつぶり、顔を背けてしのぎます。
風がやみました。おずおずと目を開いたヒルダ姫の前には、白く輝くおおきな竜がおりました。
「誓いを果たしにきた。エルフリーダの血を継ぐ者よ」
「しろがねの竜、本当にあなたなのですか」
「そうだ。娘よ、教えてほしい。あなたは私に何を望む」
ヒルダ姫は竜に話しました。
《海の民》との戦いで父君と兄君が亡くなられたこと。王国を守るため、《海の民》の長の子を夫に迎えねばならないこと。
「竜よ、わたくしはこの国を守りたい。
《海の民》を退け、この国を守り抜く。これがわたくしの第一の願い。そのうえで、もしかなうならば《海の民》を我が夫と呼ばなくてもすむ方法を見出したい」
「あなたの願いがただ自由になることならば、叶えるのはたやすいことだ。あなたを連れて、どこか遠くへ運び去ろう。花咲き乱れる南の国でも、知識と富を誇る東の国でも、あなたの望むままに、いずこへなりとも飛んでゆこう。
あるいは、あなたの願いが父と兄の仇をとることならば、それもまたたやすいことだ。この国に留まる《海の民》など、我が尾のひと薙ぎ、我が吐息のひと吹きで消し飛ばしてみせよう。
だが、あなたの望みはそうではない」
「ええ、竜よ。わたくしは仇討ちを求めはしません」
ヒルダ姫は言いました。
《海の民》が憎くないとは言わない。だが、彼らには彼らなりの道理があった。それにこの国に残るわずかばかりの《海の民》を討ち果たしたところで、どれほどの意味があるのか。かえって恨みを重ね、さらなる《海の民》の軍勢を呼び込むだけなのではないか。
十四歳の少女とは思えない利発さで、姫君は淀みなく語ります。ですが最後に、ちいさな声でこうつけ加えました。
「仇討ちを求めない。そう口では言いつつも、やはりわたくしの中には《海の民》を憎む心があるのです。
恨みを抱えつつも《海の民》の妻として生きるくらいならば、いっそすべてを打ち捨てて、どこか遠くへ行ってしまいたい。竜よ、遠い国へと運び去ろうというあなたの申し出は、わたくしを惹きつけてやみません。
ですが本当にそうしたら、後ろめたさを抱えて、わたしは悔やみ続けることでしょう」
「すまない、姫よ」
「なぜあなたが謝るのです」
いぶかしげに問いかけるヒルダ姫に、竜は言います。
守ると誓った者たちを見つめ続けることを怠った、それこそが自分の罪なのだと。
兄君もまたフリーダの子孫でした。なのに竜は守ることができませんでした。それに、せめて王の亡くなられるよりも前に気づくことができていれば、事態は今とは違うものになっていたはずなのに。
「でも、あなたは来てくださいました」
「今さら何ができようか。冬至の日までわずか一日。どうすればあなたをこの苦境から解き放つことができるのか」
「竜よ、わたくしには思うところがあります。ですがその方法は、あなたを縛り、利用するものに他ならない。やさしく美しいあなたを損なってしまうのではないか。わたくしはそれがおそろしい」
「いや、私はやさしくも美しくもない。私は妬み深く、醜い」
竜は言いました。
最初に姫君が竜を呼ぼうとしたとき、その声はかすかながらも竜に届いておりました。
ですが、呼びかけには竜の名前がありませんでした。なので、どこの誰に呼ばれたのか、竜にはわからなかったのです。
呼び声を追い求めて竜は王都を訪れました。そしてヒルダ姫のことを知りました。
「姫こそがフリーダの子孫だと、私はほとんど確信していた。
だが、すすんで名乗りをあげようとはしなかった。竜の姿で姫の前に立つことをためらったのだ」
「竜よ、あなたは正しかった。
今、わたくしは力を必要としています。
もし力ある存在が助け手として目の前に現れたならば、たとえ正当な権利を持っていなくとも――そう、わたくしがフリーダの子孫でなかったとしても――利用しようとしたでしょう」
「その懸念を抱いたのは確かだ。だが私の中には暗い思いがあった。それもまた確かなことなのだ。
姫よ、あなたにはフリーダの面影がある。だがアセルスタンにもよく似ているのだ」
苦悩に満ちた声で話す竜をいたわるように、ヒルダ姫は言いました。
「それでもあなたは来てくださったのですね」
「名を呼ばれたからには、来るより他に道はない」
「でもわたくしが名前を呼ぶように仕向けたのも、あなた自身なのではありませんか?
わたくしはあなたの名前を知りませんでした。ですが思い出させてくれた者がありました。吟遊詩人ケレブリル、彼は人間の姿をとったあなたなのではないのですか」
「……そうだ」
「やはりあなたはやさしくて美しい。わたくしはあなたのためらいを責めません。むしろよくぞ見捨てなかったと感謝するばかりです」
「姫よ、あなたこそがやさしくて美しい。
先ほど私はあなたがアセルスタンに似ていると言った。
自らを捧げても他者を守ろうとする心、身に負わされた責任をまっとうしようとする態度は、あの騎士から受け継がれたに違いない。それに加えて、あなたにはフリーダのしなやかさとやさしさも備わっている。
フリーダがアセルスタンを選んだのは正しかった。今なら私はそう言い切ることができる。
ふたりの結びつきから、あなたという存在が生まれてきたのだから」
そこで竜は言葉を切り、静かにヒルダ姫を見つめました。
しばしの沈黙の後、思い出したように竜は再び話しはじめました。
「姫よ、あなたは考えるところがあるといった。あなたは何を望んでいる。私は何をすればいいのだ」
ヒルダ姫は表情を硬くして、ためらう様子を見せました。しかしついには口を開き、きっぱりとした調子で話し始めました。
「そばにいてください。そしてわたくしを守ってください。
わたくしを、いえ、この国を守る武器として、わたくしの隣に立ち、この国を侵そうとするものに、その姿を見せつけてください。
殺戮などは望みません。ただ、この国には鋭い剣があることを、堅い盾があることを示す。それだけでかまわないのです。
あなたはご自分を醜いとおっしゃいましたが、わたくしこそが醜い。歯向かうものを力で脅す。フリーダ――ひいおばあさまなら、このような申し出はなさらなかったことでしょう」
「姫よ、あなたは賢明だ。おそらくはそれこそが最良の道だろう。
だが私はおそれている。ふさわしい力が自分にはないのではないかと。
この国に留まっている《海の民》を打ち払うくらいは造作もない。だが、彼らは次から次へと押し寄せる。そのすべてからあなたを守ることができるだろうか」
「脅すだけで充分なのです。本当に戦ってくれなどとは望みません」
「《海の民》は勇猛だ。こけおどしには惑わされないかもしれない」
「ではどうすれば……」
「私に新たな名前を。そうすれば、私は今以上の力を得るだろう。
かつてフリーダがしてくれたように、《白き月》のヒルデガード、今度はあなたが私に名前を贈るのだ」
ヒルダ姫は目の前の竜を見つめて考え込みました。
しろがねの竜はその内側から光を放っているかのように、夜更けの闇の中で白く輝いています。
その輝きは刺すような冬の冷気の中にあって、やさしく、あたたかいものに思われました。
姫君はひとことひとこと探るように、言葉を紡ぎ始めます。
「やさしい声と 輝ける鱗持つしろがねの竜
あなたは闇夜を照らす灯火
闇を知り なおも闇には染まらぬ光
暁の闇は深く 朝はまだ遠い
だが 明けぬ夜はない
手をたずさえて ともに夜を越えよう
我が護り手にして友なる竜よ
だからわたくしは あなたをこう呼ぶ
《暁の光》と 我が友よ」
「よい名だ。姫よ、感謝する」
「本当にそう思ってくれますか」
「無論だ、姫よ。もっと武器たるにふさわしい猛々しい名を選ぶこともできたはずだ。だがあなたは美しく、それでいて力強いものを選んでくれた。
竜は言葉に縛られる。
フリーダのくれた名前が私に吟遊詩人たりえる歌を与えてくれたように、あなたのくれた名前は困難にあっても希望を抱き続ける力を与えてくれるだろう。護り手たらんとする者にふさわしい名だ」