2.しろがねの竜の歌
ご存じのとおり、竜は偉大な生き物です。竜は人間よりもはるかに長い時を生き、生まれながらにして魔力と知恵を具えています。
竜が善きものであるのか悪しきものであるのか、人間には測ることができません。
邪なるものとして人間の英雄に討たれた竜もいれば、幸いをもたらすものとしてあがめられた竜もいます。ただ言えるのは、彼らは力ある生き物であり、人間と親しく交わるべきものではないということです。
ですが、どこにでも例外があります。今から語られるのはそんな例外の物語。
『しろがねの竜の歌』、それはひとりの少女を愛し、彼女と友情を交わした竜の物語なのです。
昔、そう、《白き月》と呼ばれるヒルデガード姫のおわした時代よりも百年ほど前のこと、北の果てに一頭の竜がおりました。
竜は雪と氷を友とし、その力を操ることができました。その性にふさわしく、鱗は白銀に輝き、瞳は氷のごとく澄んだ蒼色をしていました。しかしその心はやわらかであたたかく、その力の象徴たる雪と氷のように冷たいものではありませんでした。
この竜はこの世に現れ出て、百年あまり過ごしたばかり、竜としてはまだほんの若造でした。
齢を重ねるほどに竜は魔力を高め、同時にかたくなな心を持つようになります。若い竜はさほど強い力は持たないものの、心やわらかく、好奇心も強いのです。
だからこそ、このようなことも起きたのでしょう。
ある冬の夕刻、竜はおのれの棲み処とする山に、ひとりの人間が登ってくるのに気づきました。荒れ狂う吹雪の中、ただひとり山中にわけ入ったのは、娘と呼ぶにはまだ幼い少女でした。
竜は不思議に思いました。
この山に竜が住んでいることを、ふもとの村に住む人間たちは知っています。
竜は人間とは関わらずに暮らしてきました。人間を脅かすこともなければ、人間に親切にすることもまたありませんでした。ですが人々は竜をおそれ、山にはなるべく近づくまいとしていました。
日暮れも近い刻限に、雪と氷の吹きすさぶ中、竜の棲む山に、子供がひとりではいり込む。それは、二重にも三重にもおかしなことだったのです。
好奇心に誘われるまま、竜は少女の前に姿を現し、問いかけました。
「なぜこの山に入った」
少女は身を震わせました。
竜は年古りたもみの木のように丈高くて、村で一番大きな納屋よりも大きいのです。そんな巨大な生き物が目の前に突然あらわれ、深く響き渡る声で呼びかけてくる。どれほど恐ろしかったことでしょう。
それでも少女は取り乱すことなく、中空に浮かぶ白銀の竜を見上げて言いました。
「薬草を探しにきたのです。はやり病にかかった父さまと母さまを助けたいのです」
竜はなんとも言いがたい気持ちになりました。
竜には両親の記憶はありません。竜はただひとりこの世に姿を現し、誰かに養われることもなくただひとり成長するからです。
また、竜には同胞と呼べるものもおりません。歳月とともに竜は数を減らしておりました。ただひとり生まれ出た竜が、ほかの竜に出会う機会など、太古の昔ならばいざ知らず、この頃にはもう本当に少なくなっていたのです。
ですから、竜にはわかりませんでした。
この人間はなぜ自分の命を危うくしてまで、ほかの者を救いたいと思うのだろう。
少女は見るからにひ弱な生き物でした。爪も牙も鱗もなければ魔力もない。冷たい吹雪にも、夜の闇に潜む獣にも、抗うことなどできないでしょう。
それなのにこうして、竜の棲むといわれる山にただひとりで踏み込んでくるとは。
「薬草だと。そのようなものがここにあるなど、私は訊いたこともない」
「この山にあるかどうかは知りません。ただ、寒い土地の、険しい山の中に生えるものだと、前に旅の薬売りの人が言っていたのです」
少女の語る薬草の特徴を自分の記憶と照らし合わせ、竜は似たような植物が頂上にほど近い岩陰に生えていたことを思い出しました。しかしそれを見かけたのはもっと暖かな、雪のない季節のこと。それにあの場所にたどり着くには、少女の足では一晩かけても無理でしょう。
竜は少女のそばに舞い降りると、身構える少女に言いました。
「我が背に乗るがよい。その薬草かどうかはわからぬ。だが似たものが生えていた場所なら心当たりがある。ともかくそこまで連れていこう」
竜の背に乗せられて、少女は山の頂ちかくまで運ばれて行きました。吹き荒れる風雪はどれほど厳しく少女を打ちすえたことでしょう。ですが少女は弱音を吐くこともなく、ひたすら竜の背にしがみついていました。
頂上にほど近い岩場で、少女と竜は、雪をかき分けかき分け、薬草を探してまわりました。層をなす固い雪を、竜はその鋭い爪で掘り崩し、少女に力を貸しました。ようやくそれらしき小さな芽を見つけ出した頃には、暁も近い刻限となっていました。
「ありがとうございます。なんとお礼を言えばいいのか」
「ただの気まぐれ、暇つぶしだ。礼などいりはせぬ。第一、それが本当に薬草かどうかもわからぬではないか」
「いいえ、それでも」
少女は首を振り、言いました。
「あなたに助けてもらわなければ見つけられませんでした。たとえこれが薬草でなかったとしても、とてもありがたいことです」
いつしか吹雪は止んでいました。冷たく澄みきった空気の中、数多の星が天を満たし、まばゆく瞬いておりました。降り注ぐばかりの星空の下、少女は再び竜の背に乗せられ、山のふもとへと向かいました。
村人を脅かしてはいけないと、村からいくぶん離れた場所で、竜は少女を背から降ろしました。
少女は何度も頭を下げて竜に礼を述べると、やがて歩み去って行きました。
遠ざかる少女の後ろ姿を竜は見守り続けました。そしてその姿がすっかり見えなくなったのを見届けると、山の中腹にあるねぐらを目指して、竜は空へと飛び立ちました。
その日から竜は少女のことが気にかかってなりませんでした。だからでしょう。次に少女が山の裾野に近づいた時、竜はいち早くそのことに気づいたのです。
目の前に舞い降りた竜の姿に、少女は驚いて身を固くしました。そして竜もまた、少女の姿に――いや、正確にはそのまとっている服の色を目に留めて、強く撃たれたような心持ちになりました。
少女は黒い衣装を身につけていました。明るい金色の髪に縁取られた顔は青ざめ、先日出会ったときのような生気はまるで感じられません。
人間とあまり関わることなく生きてきた竜でしたが、その服が何を意味しているかは知っていました。
黒は死をいたむ色。少女はおそらく身近な誰かを喪ったのです。
「助からなかったのか? あれは薬草ではなかったのか?」
思わず尋ねた竜に、少女は首を振り、応えました。
「いいえ、あれは薬草でした。おかげで父さまは助かりました。でも母さまは……間に合わなかったんです」
少女の言葉に、竜はまたもや強く心を動かされました。
なんと簡単に、人間は死んでしまうのだろう。
竜にとって死は遠く、身近なものではありませんでした。人間が、いえ、竜以外の生き物がいかにか弱く寿命も短いかは、竜も知っていたはずでした。ですが今まで、それはただ「知っている」だけのことでした。今初めて、それがどのようなことなのかが竜にも「わかった」のでした。
「何か望むことはないか?」
どうしてそんな言葉をかけてしまったのか、竜にはその理由がわかりませんでした。ただ、そう問わずにはおられなかったのです。
少し考え込んでから、少女はおずおずと口を開きました。
「……もう一度、私を背中に乗せて空を飛んでもらえないでしょうか?」
なぜなのだ。竜の問いかけるようなまなざしに、少女は応えて言いました。恥ずかしそうな、そして少し後ろめたそうな響きがその声にはありました。
「この前の帰り道、星の中を飛んだ時、空はとてもきれいだと、そう思ったんです。父さまと母さまのことを忘れてしまうかと思うほど。だから……」
「たやすいことだ」
そう応えると、竜は少女に背を向けて身をかがめ、乗るようにと促しました。
夕闇迫る冬空の中を、竜と少女は飛びました。
竜は山の頂を目指しました。ひときわ見晴らしのよい岩の上で少女を背から下ろすと、竜は静かに少女の横に並びました。
眼下には雪に閉ざされた森が見渡す限り広がっていました。
太陽が沈もうとしていました。
冬の落日は金色がかったごく淡い茜色をしていました。そのうす明るい茜色が次第に色あせ、ほの暗い藍色の影が広がりはじめます。地平線にうっすらと紅の筋を残しつつ、空は茜から白、白から藍へと、天頂に近づくにしたがって色を変えていきます。
身を震わせるような何かが、竜の中に芽生えました。突き動かされるようにわれ知らず、竜はおのれの中に生まれたものを声に出して歌いあげていました。
その歌には詞はありませんでした。ですがそれは唸り声などはなく、確かに歌であったのです。
ゆったりとしたリズムを刻みながら、高く低く連なるその旋律はどこか物悲しく、それでいて力強い喜びもまた感じられるものでした。
竜の歌は冬の冷たい空気を震わせて、暮れゆく天と地の間に玲瓏と響きわたりました。
ふと見れば、少女が驚いたような表情を浮かべて、竜を見つめておりました。ですがむしろ竜のほうが、少女よりも驚いていたかもしれません。
これまで竜は歌ったことなどありませんでした。歌いたいと思ったこともありませんでした。
――思うに『歌』というものは、誰かに聴かせたいと思うからこそ生まれてくるものなのかもしれません。
竜はひとりで生きてきました。語らい合う相手も、思いを伝えたい相手もおりませんでした。ですから、歌う必要もまた、なかったのかもしれません。
ですがその歌は、たしかに竜の中からあふれ出たものでした。そして一度あふれ出た歌は、二度と竜から離れることはなかったのです。
やがて日は沈み、藍色の空には星が瞬き始めました。竜もまた歌うのをやめて、静かにたたずんで星を眺めていました。
「もう帰らなくちゃ」
少女がつぶやくように言いました。
竜は首をまわし、少女に視線を落としました。竜の顔を見上げ、少女はちいさな声で言い足しました。
「ここに来てよかった」
そのひとことは、竜の心に強く深く刻み込まれました。
「ありがとう。何かおかえしができればいいのだけれど」
礼などいらぬ。そう言おうとしたそのとき、あるひらめきが訪れました。
「我が友とならぬか。いや、なってはくれまいか」
驚いたように目を見張る少女に、竜はさらに言いました。
「私はひとりでここに住んできた。特に不自由だとも、さびしいとも思っていなかった。だが、そうではなかったのだ。私はそのことに今気づいた」
「友達、ですか」
不思議そうな顔で問いかける少女にうなずきかえし、竜は言葉を続けました。
「多くは望まぬ。たまに会い、言葉を交わして、ともに空を眺める。その程度のことでいいのだ」
「あたしなんかでかまわないんですか?」
「かまわぬ。いや……」
お前だからこそ望んだのだ。本当はそう続けるつもりでした。ですが、そのようにはっきりと言ってしまうことはなぜかためらわれ、竜は途中で口をつぐみました。
代わりに竜は問いました。
「迷惑ではないか?」
「いいえ」
ためらいも屈託もなく応える少女に、竜はさらに尋ねました。
「おそろしくはないのか?」
「こわくないと言ったら嘘になります。でもそれ以上にうれしいのです」
「お前の名は?」
「エルフリーダ。フリーダと呼ばれることのほうが多いです。あなたは?」
少女から名前を問われて、竜は考え込みました。
竜にとって名前は力の源です。
この世に現れ出たときに授かった名前、それこそが竜のまことの名前です。まことの名前は竜の本質そのもの、命そのものです。ですから竜は多くの呼び名を持ち、まことの名前を隠そうとします。
また、さまざまな呼び名を得るにしたがって、竜は力を増していきます。
竜は言葉と切り離すことのできない生き物です。呼び名が美しいものであれば竜もまた美しくなり、おそろしいものであればおそろしいものへと変じていきます。
このように、まことの名前であっても呼び名であっても、名前というものはすべて、竜にとってとても大切なものなのです。
この若い竜は、生まれたときに授かったまことの名前と、ふもとの村の人々が呼びならわす『しろがねの竜』という呼び名のほかには、まだ名前を持っておりませんでした。
「私には名乗るべき名がない。だからお前が私に名を贈ってはくれまいか。友情のあかしとして」
竜にとっての名前の重みを、はたして少女は知っていたでしょうか。この竜の申し出にどれほどの意味が含まれているのか、理解していたでしょうか。ともかく少女は竜の申し出を真剣にとらえ、懸命に名前を考えました。
少女が新たな名前を告げると、竜は大きくうなずきました。
そして天を仰ぎ見て、妙なる声でたからかに歌いました。
少女が――いや、ここからは彼女をフリーダと呼ぶことにします――フリーダが竜に贈った名前は伝わっていません。その名前はふたりだけの秘密であり、ほかの誰にも知られることがなかったのです。
続く日々は、竜にとってとてもしあわせなものでした。
語り合う友を得るということがどれほどありがたいことなのか、竜はしみじみと感じました。
本当のところ、フリーダと竜が会う機会は、それほど多くはありませんでした。
フリーダには村での暮らしがありました。北の果ての村はけっして豊かではなく、ちいさな少女であっても働き手であることが求められていたのです。
フリーダが竜のもとに訪れてゆっくり言葉を交わす機会は、ひとつの季節に二、三度ほどといったところでした。
幾度か季節がめぐりました。
フリーダは美しい娘となりました。肌は雪のように白く、瞳は夏空のように青く、豊かな髪は太陽の光を思わせる明るい金色をしていました。しかし何よりも竜にとって輝かしかったのは、多少のことでは物おじしないその強さであり、ささやかなことにも喜びを見出し笑顔を絶やさないその明るさでした。
竜は人間についてあまり詳しくはなかったのですが、フリーダのような人間は多くはないと感じていました。そしてその友となりえたことを、ひそかに誇らしく思っていました。
こうして五年の歳月が流れます。フリーダは十七歳になっていました。
その決意をフリーダから明かされたとき、まっさきに竜をとらえたのは強いかなしみでした。
「それでは、お前はこの村を去るというのだな」
夏至の前夜のことでした。
久々に竜の背に乗り、山の頂上を訪れたフリーダが告げたのは、竜への別れの言葉でした。
「ええ。私はアセルスタンさまと都へ行きます。あの方とともに生きていくと約束したのです」
アセルスタンは二年前、王の住む都からやってきた騎士です。盗賊や《海の民》の襲撃から辺境を守るために、王に遣わされてこの村に来たのです。
アセルスタンは公明正大で勇敢な男でした。村人を守ることに心を砕き、我が身の危難を省みず力を尽くす。そのような彼は、竜から見ても気持ちのよい人間でした。ですから竜は、彼とフリーダが親しいのはよいことであり、当然であるとすら思っていました。
ですが、彼とフリーダの繋がりの行き着く先が、自分とフリーダの別れに結びつくかもしれないとは、思ってもみませんでした。
フリーダが行ってしまう。いや、フリーダが自分ひとりのものではなくなってしまう。それは竜にとって思いもかけない大きな痛手だったのです。
竜は別にこの山に縛りつけられているわけではありません。その気になれば、フリーダとともに都へ行くことだってできるはずです。ですが、それはしてはならないことなのだと、何となく竜は気づいていました。
フリーダはともに生きる伴侶を見つけました。フリーダにとって一番大切な相手はもはや竜ではなく、その夫であるはずです。
アセルスタンはすぐれた人間です。そのような相手とフリーダが出会い、夫婦の契りを交わそうとしていることは、祝うべきことであるはずです。
なぜ自分は素直にフリーダのしあわせを祝えないのだろう。竜は苦しみ、悩みました。
ですが最後には、フリーダのしあわせを願い、その門出を祝おうと、そう決意したのです。
「これを持っていくがいい」
旅立ちの前日、挨拶をしに竜のもとを訪れたフリーダに、竜はおのれの鱗を一枚差し出しました。
「助けを必要とすることがあれば、その鱗に口づけして、私の名を呼んでほしい。
いかなるとき、いかなる場所にあっても、きっとお前のもとに駆けつけ、お前を助けよう。
竜の命は長い。だからお前だけではなく、お前の娘にもそのまた娘にも、同じことを約束しよう。その血を受け継ぐ者のあるかぎり、私はお前とその裔の護り手となろう」
竜の寿ぎの言葉と守護の誓いをフリーダは受け取りました。そして竜の鱗を携えて、アセルスタンとともに、遠く都へと旅立っていったのです。
ここで『しろがねの竜の歌』は終わっています。
その後の彼らがどのように暮らしたかは、皆様のご想像にお任せします。
ただ、これだけはお約束します。
その後のフリーダの生涯はしあわせなものであったことでしょう。
そして竜は、今でもあの誓いを覚えており、フリーダとアセルスタンの血に連なる者たちのしあわせを祈っていることでしょう。