1.危難に陥った王国
今は昔、いまだ竜や妖精が、人々の隣にあった時代の物語。
はるか北の地に、ちいさな王国がありました。
国を治める王は、おだやかで賢い方でした。一年の半分を雪と氷に閉ざされる北の地にありながら、老いてなお賢い王の導きにより、人々は飢えることなく平和に暮らしておりました。
王にはふたりの子供がありました。
世継ぎの君である王子は賢くやさしい方でした。この方が継ぐのであれば、王国は栄え続けるだろう。みなそのように思っていました。
末の姫君は、物静かではにかみがちな少女でした。月の光を集めたような淡い金の髪と、冬の晴れた空のような青い瞳を持つこの姫は、亡くなったお妃さまとよく似ていました。
姫君の名はヒルデガードといいました。白い肌と淡く輝く髪の色にちなみ、人々は姫君を《白き月》のヒルデガードと呼びました。ただし親しい人々は、短く縮めてヒルダと呼んでおりました。
早くに母君を失ったヒルダ姫を、父君と兄君は不憫に思い、とても大切にしておりました。
ところがある年のこと、この国に災厄がおそい掛かります。
野蛮でおそろしい《海の民》が大軍を率いて押し寄せ、王国を荒らしてまわったのです。
《海の民》は、王国よりもさらに北の、実りの少ない土地に住む民です。彼らは古き神々をあがめ、ちいさくて速い船をまるで馬を乗り回すように自在に扱い、海を越えて攻めきたり、人々を殺して富をうばい去る、そんな荒々しくもおそろしい民です。
王国の民からみれば、それは野蛮な生き方でした。ですが《海の民》にとっては、それは自然なあり方でした。彼らは先祖代々、そのように暮らしてきましたし、第一、彼らの住まう土地は貧しく、よそから富を持ち帰らなければ、とても生きていけるものではなかったのです。
これまでも幾度となく、王国は《海の民》に悩まされてきました。
ですが《海の民》がこれほど大きな軍勢を集めて襲いかかってきたのは、今までにないことでした。
王国はきびしい戦いを強いられました。
《海の民》を食い止めようと戦に出た世継ぎの君は、最初の戦いで武運つたなく命を落としました。その死を知った王は、息子を失った嘆きを振り払い、老いた体に鎧をまとい、自ら陣頭に立ちました。
しかし意気上がる《海の民》の勢いはとどまるところを知らず、王の兵をやすやすと打ち破りました。望みなき戦いの中、老いたる王は命はかなく、息子のあとを追いました。
王の腹心たる将軍は敗れた軍をなんとかまとめ、城へと引き上げていきました。海の見える高台に建つ王の城は《海の民》に囲まれて、落城の時を待つばかりでした。
そのとき、《海の民》の長が使いを寄こし、このように告げたのです。
「我らは汝らの滅びを望むにはあらず。
王国の友となり、豊かなる富の分け前にあずかること。それこそが我らの望み。
蜂蜜色の琥珀に命つなぐ塩、まろやかなる葡萄酒にあたたかき毛織物、そして硬く鋭き鋼の武器。
我らが長の子、《猛き》アースムンドを、王国を継ぐ姫の婿として迎え入れよ。
さすれば我らは同胞、ともに歩むものとならん」
《海の民》の望みは、王国の民には受け入れがたいものでした。
姫君の婿として《海の民》の長の息子を迎え入れる。それは王国を治めるものが海の民に変わるということではないのか。人々はそのようにささやき合いました。
ですが、《海の民》の望みを受け入れなくてはならないことは、みなわかっておりました。
形だけでも王国の名前が残ることはせめてもの幸い。訪れる日々があまり厳しいものにならぬよう祈るとしよう。敗れたものは勝ったものに従わざるを得ないのがこの世の道理なのだから。
ただ、姫君にはお気の毒なことだ。おとなしく内気で物語を好むヒルデガード姫、まだ十四歳になったばかりの小柄な少女だというのに、あのような戦しか知らぬ丈高き蛮族を夫として迎え入れなければならないとは……
うなだれて《海の民》の要求を伝える大臣に、ヒルダ姫は黙ってただうなずき返しました。
ヒルダ姫は年に似合わず、聡い少女でした。あの賢い父君と兄君が掌中の珠として育てたお方です。王国の民のため、自らの身を捧げることを厭ってはならないと、心の底から信じておりました。だからヒルダ姫は《海の民》の望みをいれ、その上でなお王国の民がなるべくやすらかに暮らせる道を探そう、そのようにかたく心に誓っておりました。
ですが、姫君の心の奥底には、別な思いもあったのです。
――大切な父と兄を奪い去り、そのうえ王国の平和と富をも奪い去ろうとする者など、どうして愛することができようか。
《海の民》はヒルダ姫にとって、おそろしく、そして厭わしいものでした。蛮族を夫と呼ばねばならない運命から逃れることはできないものか、そう願う心も確かにヒルダ姫の中には隠されていたのです。
姫君と《海の民》の長の子の婚礼は、冬至の日に執り行うと定められました。
ヒルダ姫はただ黙って、戦の後始末と婚礼の準備をすすめていました。
姫君を幼いころから知る人たち、王の片腕であった大臣や姫君の乳母は、日々、ヒルダ姫の顔色が青ざめていくことに気づいていました。
ですが、いたわりの声をかける者たちに、ヒルダ姫は静かにほほえみ、気を遣わせてすまないと、謝りの言葉をかえすのでした。ヒルダ姫のかなしみと絶望は、それを見てとれる者の目には明らかでしたが、姫君をなぐさめるすべを見つけ出すことは誰にもできませんでした。
その吟遊詩人が王城に訪れたのは、冬至の三日前のことでした。
城下で評判のその吟遊詩人を城に招き入れたのは、幼い日からヒルダ姫を知る大臣でした。
ヒルダ姫は物語が好きでした。幼いころは母君の語るおとぎ話に耳を傾け、少し育ってからは書物の中に喜びを見出すようになっていました。
婚礼の宴に華を添えるために吟遊詩人が必要だったのは確かです。
ですが、ヒルダ姫ご自身のためにこそ、大臣は吟遊詩人を呼んだのでした。詩人の語る物語によって、いささかなりとも姫君の心をやすらわせることができはしないか。それが大臣の願いでした。
《銀の星》のケレブリルと呼ばれるその吟遊詩人は若い男で、名前のとおりの麗しい姿をしていました。雪白に近い白銀の髪は冬空の星のごとくさやかに輝き、蒼みがかった透明な瞳の色は、氷河の深みを思わせました。
晩餐の席に呼び出された吟遊詩人――《銀の星》のケレブリルは、居並ぶ貴人に問いかけました。
「どのような歌をお望みでしょうか。輝かしい勲の歌、胸うつ愛の物語。お心のままになんなりとお申しつけください」
《海の民》の長の子、《猛き》アースムンドが口を開こうとするのを制するかのように、大臣が言葉を発します。
「ヒルデガード様、我らが《白き月》の姫君。この城のあるじはあなたです。あなたがお望みの歌こそが、まず第一に歌われるべきかと」
大臣の言葉にうなずき返し、ヒルダ姫――《白き月》のヒルデガードは言いました。
「心やすらぐやさしい歌を。もしくは不思議で美しい存在の、夢のような物語を」
吟遊詩人はそっと一礼し、しばし考えを巡らせた後、ヒルダ姫に応えて言いました。
「では、その双方を満たす物語を歌いましょう。
『しろがねの竜の歌』、強き力持つ竜と、ちいさな人間の少女の間に結ばれた、世にも稀なる友情の物語を」
吟遊詩人の歌は長いものでした。また、当時の人々にとってはなじみのあるものの、今この物語に触れている方々にとっては聞きなれない言い回しも多いのではないかと思います。
ですから、その歌を一言一句あまさず写すのではなく、すこしばかり簡単な言葉で語り直すこととしましょう。