触れる吐息に戸惑って
夢心地からずるずると引きずられるように、ホープはゆっくりとまぶたを開けた。寝ぼけ眼で辺りを見回せば、すぐ近くにのぞき込む顔がある。漆黒の前髪は重力に従って垂れ下がっており、吸い込まれそうなほど深い色の瞳は真っ直ぐにこちらを見つめている。相変わらず、そこに秘められた感情は読めない。
「……スレイエ?」
ぼんやりとしたまま彼女の名を呼ぶ。彼女は表情を消していたが、やがて微笑みを浮かべた。
「起きちゃったか」
楽しげに弾んでいるようで、どこかあきらめを含んだ声色でそう言う。ホープはそのことを不思議に思いつつ、そっと彼女を観察した。
と、鋭い光が目に飛び込んできた。薄暗い部屋の中でもなお輝くそれを見て、ホープは一気に覚醒した。間違いない。その銀色の鋭い光は凶器。小さいながらも人を傷つけることができる刃。それが、スレイエの手から覗いている。覚醒した脳はすぐさまその異様な状況を理解した。咄嗟に手をついて起き上がろうとする。が、意思とは裏腹にホープは再びベッドの中に倒れ込んだ。
力が、入らない。腕はまるで自分のものでないかのようにいうことをきいてくれなかった。いや、腕ばかりではない。全身に力が入らないのだ。そんな彼を見て、スレイエはクスクスと笑う。
「ふふ、しびれ薬を仕込んでおいて正解だったみたいね」
見上げれば、不敵な笑みを浮かべた彼女と目が合う。瞳は何も見えない闇色で、かえって恐怖を募らせる。
「なんで、こんな真似を……」
そう問いかけても、彼女は笑みを貼り付けたまま黙り込んでいるだけで答える気配はない。動けぬ体を恐怖が刻々と占めていく。目の前の人物は、謎だ。人柄も考えていることも全くわからない。時を共有するごとに、ますます“彼女”がわからなくなっていく。一番の原因は、こうしてすぐ黙ってしまうことだ。と、たっぷり二呼吸ほどの間を開けて、彼女はいたずらっぽく笑いかけた。
「ねえ、どうして有能な魔法使いが世の中に少ないんだと思う?」
唐突な質問に、ホープは面食らった。何故そんなことを、と思ってしまう。だがおそらくそこに何かしらの答えがあるのだろうと信じて逡巡した。
「魔力や魔法を操る才能が必要だから、とか?」
「才能の問題、か。まあ、それも理由の一つではあるかな」
彼女の声色はホープの答えを馬鹿にせず無く、純粋に受け止めたという感じだった。ほんの少し困ったように微笑んだ後、意味ありげな視線を向ける。
「けど一番の理由は、魔法を使うために十分な魔力を集めるのに苦労するからだよ」
ホープは目を瞬いた。そもそも魔法の使えない彼にとって、魔法を使う苦労は理解しがたい。どのようにして不可思議な現象を引き起こす力を得ているのか、考えたこともなかった。おそらくその反応を予想していたのだろう。彼の態度を気にした風もなくスレイエは言葉を紡ぐ。
「精神統一すれば大気から集められなくもないんだけどね、それだとやっぱり時間かかっちゃうからさ」
ため息交じりにそう言って、彼女は一度言葉を切った。そして身を乗り出し、ホープの体を押さえつける。
「だから私は、人の血から魔力を得てた、ってわけ」
彼女は楽しげに笑った。その言葉の意味するところを察知し、ぞくりと体が震える。
「俺の血を、奪おうってのか」
精一杯の虚勢を張って、ホープは彼女を睨んだ。だが、震える声がその心境を忠実に物語ってしまっている。
「こっちだって死活問題なんだから、ちょっとくらい協力してよ」
声は笑っていたが、彼女の眼光は刃物のように鋭い。獲物を捕らえて歓喜する獣のようにも見えた。
「い、いいわけねえだろっ……!」
彼女は冗談でやっているわけではない。彼女は平然と人を斬り殺すことのできる人物だ。大人しく従う訳にはいかない。そう思って暴れようとするも、薬でしびれた身体は押さえつける手をはねのけることはできなかった。ぐっ、と彼女の体重がかかる。
「じゃ、せめて選ばせてあげる。痛むけど早く終わる方と、痛くないけど時間がかかる方と、どっちがいい?」
またも突然の問いに、ホープは困惑していた。どういう意味で言ったのか知りたくとも、うつぶせに押さえつけられているせいで、いたずらっぽい声で尋ねてくる彼女の顔はよく見えない。仕方なく、ホープは口を開いた。
「い、痛くない方で……」
弱々しい声を聞くと、スレイエはそっか、と軽く返しただけだった。視界の端に彼女が手にする刃が映る。そして、どういうわけか耳に手が触れた。何かを探るように撫でられて、ますます困惑してしまう。
と、耳たぶに冷たい物が当たった。触れたところからじわりと血がにじむ感覚がある。状況を理解しきるより前に、呼気に耳をくすぐられる。心地よいような悪いような刺激が全身を駆け巡る。体を震わせると、傷口に唇が触れた。ゆっくり食むようにして血を舐め取られる。ぞわりとした感覚が背中を伝っていく。それが快感なのか悪寒なのか、ホープにはわからなかった。ただ熱く湿っぽい吐息が自分の口から漏れていくだけである。
彼女の息づかいがいやにはっきり聞こえる。耳たぶを甘噛みされ、舌が傷口をなぞる度にぞくぞくとした感覚に襲われる。ホープは困惑して、恥ずかしくて、力が上手く入らない指で布団を掴んでいた。こんなことなら、いっそ切り裂かれた方がマシだったかもしれない。この状態が続けば、どうかなってしまいそうだ。ホープは早く終わって欲しいと願いながら、じっと耐えるしかなかった。
ふと、体温が離れた。彼女の唾液で濡れたところが外気に当たっていつもより冷たい。願っていたはずなのに、その感覚に寂しさを覚えた。視線だけをスレイエに向ける。と、視界の端に光が映り込んだ。つ、とまた冷たい刃が押し当てられる。再び近づいてきた温度に、ホープはうろたえた。
「なっ……まだなのか…?」
「だめ、まだ、これだけじゃ足りない」
流れ出た血をなめとりながら、スレイエは答える。耳元でささやかれると、余計にくすぐったい。ぐいっと押さえつける力が強くなる。振り払えないことが何とももどかしい。そう思っている間にも唇の柔らかさが耳たぶに吸い付き、いとおしげに舌でなぞられていく。ほんの少し早くなった鼻息がかかって、ぞわぞわする。何も考えられなくなりそうだと思いながら、ホープは恥辱に耐えていた。
傷がふさがっては傷口を作られ、血を舐め取られていく。それを何度も繰り返される。スレイエが完全に離れたときには、ホープはぼうっとして何も考えられなくなっていた。しびれ薬は切れているようだが、動く気になれない。触れた体温がまだ肌に残っている気がする。冷めていく熱に寂しさを覚えつつ、ホープはそっと目を閉じた。
書きかけの作品を発掘したので短編として載せてみる。
内容は覚えてなかったのですが、ここから読み取れる設定だけでも、考えていた当時の私は病気だなとか思いました、はい。