晶と祐希の午後
『全編に渡って巧妙に仕掛けられた叙述トリック、君は見破ることが出来るか!!ベストセラー間違いなし、この夏イチオシの一冊』
「てゆーか、叙述トリックって言っちゃってるし」
狭苦しいワンルームマンションの中で、一際スペースを取る二人がけのソファに腰掛け、開いていた雑誌の広告を見て、晶は眉をひそめた。どうやら売る気は無いらしい。
晴れた日、休日の午後。朝から洗濯、掃除と動き回っていた晶は、この時間になってやっと落ち着いていた。一人暮らしも四年目を迎えるとすっかり慣れ、始めは心配事の多かった事など忘れたかのように、楽しんで暮らしていた。
弱めに設定してあるクーラーの風が心地よい。外は今日も強い日差しが降り注いでいた。洗濯物を干すときにベランダに出たが、尋常じゃない暑さとけたたましいセミの声に参ってしまった。
広告に興ざめして、晶は雑誌を閉じた。ソファの前においてある、丈の低い木製のテーブルにその雑誌を置いて、一つ小さく伸びをする。
改めて今からの時間、何をするべきか考えることにした。部屋を見回せば簡単に目に付く幾つかの物。やりかけのゲーム、書きかけの小説、読みかけの本。いろいろとできる事はある。しかし、どうにも食指が動かなかった。せっかくの休日だから、時間を気にせずにできること。でも、外に出るのは真っ平御免。
二十分ほど悩んだ末に、晶は愛用のエプロンをつけてキッチンに立っていた。小麦粉、卵に無塩バター、牛乳、砂糖、ベーキングパウダー。見るからに焼き菓子の材料だ。
「クッキーでも焼こ」
粉を篩に入れ、無塩バターは柔らかく。今日は暑いからすぐに柔らかくなるだろう。卵を混ぜて、牛乳少々、バニラエッセンスをちょびっと入れたら、粉と合わせる。生地を寝かせるのは面倒くさいので、今日はドロップクッキー。緩めに作った生地をスプーンですくって、キッチンペーパーを引いた天板の上に落としていく。落としていくからドロップクッキー。ちゃんと丸くなるけれど、やっぱり一つ一つ形が違うところがお気に入りだった。時間も大して掛からないし。
オーブントースターに入れて、アルミホイルをかけたら、とりあえず七分。焼き加減をチェックしてから再びアルミをかぶせ、天板の向きを変えて五分。ここらになると、キッチンはバニラの甘ったるい香りで一杯だ。
最後にアルミホイルを外して、焼き色をつけていく。ここからは自分の目が頼りだ。タイマーはとりあえず一分半。じいっと中を見つめながら、綺麗な焼き色のつくタイミングを計る。バニラの香りの向こう側から、香ばしい小麦粉の香り。クッキーの表面が狐色になり始めたところで、すかさずオーブントースターの火を止める。そのまま余熱に任せれば、クッキーの表面は鮮やかな狐色になる。天板を取り出して、クッキーを皿の上に並べながら、晶はひょいと一枚焼きたてを手にとって口に入れた。
「あちち」
熱いクッキーがほろりと口の中で崩れる。焼き立てだけの抜群の美味しさを味わえるのは、作った人だけの特権だ。
「はふっ、・・・うん、上出来」
舌を火傷しそうになりつつも、晶は満足げに微笑んだ。時計を見ると、丁度二時になろうとしていた。誰かを呼んで、午後のティータイムとしゃれ込もう。最近買い換えた白い携帯電話を手にとって、晶はいそいそと電話をかけ始めた。
「もしもし、ユウちゃん?クッキー焼いたんだけどさ」
「行く行く」
電話の向うで弾む声。
「んじゃ、三時頃で。よろしくー」
「了解」
快活な返事を残して、電話が切れた。楽しい午後になりそうだな、と晶は思った。
電話相手の祐希とは付き合い始めて三年になる。祐希も近所で一人暮らしをしているので、良くお互いの家を行き来する。明朗快活で話をしていて飽きないから、一緒にいて楽しい。そこに魅力を感じて晶のほうからお付き合いを申し込んだ。その結果、こうして付き合えているわけだから、あの時物怖じしないで本当に良かったと晶は常々思う。
時計に目をやると、三時までは少し時間がある。
こびりついたり固まったりすると後が大変だから、晶は先にキッチンの片づけを済ませることにした。生地を練ったボウルや、ゴムベラ、軽量カップなどを手早く洗って食器かごの中へ放り込んでいく。二十分とかからずに、シンクは綺麗になった。
それから、いよいよ準備だ。
まだ温かいクッキーを綺麗なお皿に並べ、テーブルの上に運んでおく。薬缶で沸かしたお湯をポットに入れ、それもテーブルの上に運んだ。甘いクッキーにはハイビスカスティーかな。ハーブ棚から小ビンを取り出し、食器棚からは透明な小さいティーポットを取り出して、それもテーブルの上へ。時計を見ると三時の少し手前だった。エプロンを外し、顔に粉が付いていないか洗面所でしっかりチェック。準備は万端だった。
それから十分ほどでチャイムが鳴った。
「はいはい」
玄関のドアを開けると、案の定立っていたのは祐希だった。白いシャツにジーンズと言うラフな格好で、片手にコンビニの袋を下げている。白い袋の中に見えるのは茶色い入れ物。
「ハーゲンダッツ?」
「イエス。良いクッキーには良いアイス。乗っけたら美味しいかと思って」
何かのコマーシャルみたいな、おどけた口調で祐希はそう言って笑って見せた。
「グッジョブ」
「サンキュー。んじゃ、お邪魔」
言いながらひょいと靴を脱いで室内に上がる。キッチンを通り抜けて部屋に入った祐希は、充満するクッキーの香りに一つ深呼吸して、いそいそとテーブルに近づき、そのままフローリングの床に腰をおろした。
「座布団使ってよ」
玄関の鍵をかけ、後から部屋に入ってきた晶は、直に座る祐希を見てそう言った。
「別に平気だけど」
言いながら、視線は既にクッキーのほうを向いたままだ。
ため息を一つついて晶も腰掛けた。
小瓶の中から茶さじで三杯のハイビスカスをティーポットに入れ、ポットからお湯を注ぐ。中に入っているハイビスカスティーの花が踊って、お湯が見る間に赤く色づいた。
「すっぱかったら蜂蜜あるから」
「クッキーが甘そうだから平気だと思うよ」
二人のカップに赤いお茶が注がれて、午後のティータイムの始まり、始まり。早速祐希はクッキーを一つ。
「うん、美味しい」
「それは何より」
晶も一口。さくっとした歯ざわりのクッキーは、焼きたてのときと違った味で、また美味しい。今日のは上出来だった。
「晶は男の子なのに、こういうの上手だよね」
「好きだからね。それよりユウちゃん、女の子は腰を冷やさないほうがいいよ。座布団使いなって」
「平気だもーん」
「相変わらずなんだから」
笑いあう二人。
ある晴れた日の休日の午後、とにかく平和だった。
了
叙述トリック。
そう呼ぶのもおこがましいかんじで。




