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猫は千尋の谷に身を投げる

作者: 高島津諦

 あなたは、「自分はどんな人間ですか」と聞かれてすぐに答えられるだろうか?

 私は、ちょっと明るい、ちょっと成績が悪い、ちょっと細身、とどの形容にも「ちょっと」がつく、何もかも偏差値48から53程度の普通系女子高生だが、一つだけ、他の人が持ち合わせてなさそうな特徴を備えていた。学校でも私一人だろうし、この田舎町でもきっと私一人だし、日本や世界で私一人の可能性もある。

 ほとんど他人に明かしたことはないのだが、これを言わないと話が進まないので教えてあげよう。

 なんと、私、木野原優奈(このはらゆうな)十六歳高校二年生は、ネコに変身できるのである。

 あ、ネコと言ってもネコとかタチとかではない。そういう意味でネコに変身って普段は何なんだよ。片仮名だから駄目なのか。

 猫。動物界脊索動物門哺乳綱食肉目猫科。にゃーにゃー鳴くあれ。あれに、私は変身できるのだ。



 私がこの能力を手に入れてから、十年ほどが経つ。

 始まりは、小学一年生の夏休みだった。

 留守番をしながら猫を特集するテレビを見ていた私は、猫になって気ままに暮らしたいなあ、と思いつつ昼寝をした。

 眠りから目覚めると、やけに部屋が広く感じられた。寝ぼけているのかと目を擦ろうとしたら、やたら腕が動かしづらく、手にも顔にもフワっとした感触があった。

 幼い私はギョッとして身体に目をやる。かぶっていたタオルケットの膨らんだ範囲が極端に狭く、というか私の身体はほとんどが着ていたTシャツの中に収まっているようで、襟元からわずかに胸や腕には、薄茶色の短くツヤツヤした毛がびっしりと生えていた。

 恐怖に思い切り叫んだ。

 キャーッ、と叫んだはずが、シャーッに近い音がした。

 飛び起きた私は立ち上がろうとしてスッ転び、妙に安定感のある四つん這いでTシャツからもがき出て、改めて全身を見た。

 私の身体には微妙に色彩を変えていく短毛が隙間なく生え、腰の後ろからはニョロリとくねる器官が生え、ああ、いちいち詳細な描写は控えよう、とにかく私は、四足動物になっている自分を発見し、もう一度叫んだ。

 変身していると理解するのが比較的早かったのは、幼かったせいか生来の洞察力か。ともあれ私は姿見鏡の前まで走っていき、自分が猫になっていることを発見した。

 どうして、と最初に思った。猫になりたいと考えたからだ、とすぐに答えが浮かんだ。

 どうしよう、と次に思った。どうしたらいいのか分からなかった。

 やだ、やだ、やだ、と叫ぼうとして、にゃご、にゃご、にゃご、と鳴いた。

 そのままだったら、私の心は壊れたかもしれない。だが次の瞬間、背伸びに似た感覚を味わった。ぐっと背を伸ばし、骨の隙間が広がり、それでもまだ伸び続ける。痛みも不快感もないが、突然の感覚に猫の目を閉じた。

 異常は数秒で収まった。

 恐る恐る瞼を開く。

 目の前の鏡には、雌豹のポーズをとった全裸の幼女という犯罪的なものが映っていた。私は、あっけなく人間に戻っていたのである。

 大人ならば、白昼夢と考えるか、二度と体験したくないトラウマとして残るだろう。しかし、子供の好奇心と適応力は大胆なもので、色々と試すことを躊躇わなかった。

 戻れるなら大丈夫、と確信し、即座にもう一度猫になってみようと念じたのは大胆を通り越して迂闊な気もするが、私は今に至るまで迂闊なままである。果たして、私はその場で再び猫になった。そしてまた人に戻った。

 その後も何日かかけて様々な実験をした。それにより分かったのは、完全に自分の意思で変身できるし戻るのも自由なこと、服は残ること、三毛猫なこと、猫年齢的には子猫ではなく若猫であること、身体が普通の猫より一回り大きいこと、身体能力は猫相応なこと、などなど。

 もう少し年を経てから理解したのは、本物の猫と人では色の見え方などが大きく違うはずだが、私には人の時と同じ色彩で見えるということだ。ただし視力そのものや聴力嗅覚などは鋭敏になってもいて、つまるところ感覚器については人と猫のいいとこどりだった。

 わけもわからず身についたこの能力について、私は親にも、誰にも言わなかった。言うべきじゃない、本当に特別なことだと感じていた。

 当時私は、自分があまりにも普通の子だという認識を持っていた。ありふれた子。六歳の私は、六歳でしかない無力さを知っていて、六歳でいることの可能性を知らなかった。世の中はできない事だらけで、私には何もなく、自分らしさなど全くない。そう思っていた。

 そこに降って湧いたのが、変身能力である。異常な経験だった。しかし、何も持たなかった女の子は、それを自分にしかないものだと縋りつく。

 この力は自分だけのものだから、誰にも言っちゃいけないと思った。一人でこっそり猫に変身しては、私は何にもない子じゃないんだ、と確かめた。

 それから十年以上が経つ。私はこの能力を、まだ大事に抱きしめている。

 おかげで、基本的に普通系女子高生の癖に、多くの思春期少年少女が患う「ぼくは私は実は平凡でつまらない奴なんじゃないか」病にかからないですんでいる。そんなのこちとら六歳の頃にやってんだよ、ってなもんである。

 むしろ私のような場合は逆に、自分が異常だという恐怖に襲われがちかもしれない。だが私はそうならなかった。

 自分に特別性がないことをひどく辛く思っていた私は、裏を返せば特別性を渇望しているわけで、この程度の異常さを歓迎こそすれ拒絶はしなかった。

 意思によらず変身するなら悩んだろうけれど、自分の思い通りになっていたのだし。私はそうやって、凄い能力を持った普通の女の子として生きてきた。

 ところが、この一年半ほどで、少し変わったことがある。私一人で抱きしめていたこの秘密に触れる他人が現れたのである。



 山辺千尋やまべちひろと出会ったのは、小学三年生のクラス替えだった。初HRでの全員自己紹介で、彼女は私より後ろの席だったのでよく見えた。小柄だったが、肩を少し越えるくらいの髪も、背筋も、まっすぐ伸びていた。瞳が、名前通りに、どこまでも穏やかに深かった。

 私は当時、相当活発な女子だった。変身能力で自信を得てからは、口も身体も思い切り動かすようになった。

 一方千尋は真面目でおとなしい女の子だった。私は暴れられる場所で遊んでいたが、彼女は休み時間は校内で何かしていた。そんな二人だったから、学年が始まってからも接点はまるでなかった。ごく稀に事務的な言葉を一言二言交わし、その度に私は彼女の瞳の深さを不思議に思う、それだけの関係だった。

 だがこの関係は変化する。

 きっかけは、雨のため私が校庭に出られず、湿気で床が鳴く体育館にも行く気になれず教室にいた時だった。千尋の席の周りで二人の女子が彼女に話しかけていた。

 二人組は千尋に向かって、雑巾の絞り汁のような口調で何か言っていた。気取ってるんじゃないの、とか、何考えてんのか分かんない、とか、そんなようなことを。

 いじめというほど切迫した雰囲気ではなかった。絡まれてる、といった表現が適当だろうか。

 千尋は家が裕福な方らしくいつも上品な格好と雰囲気をしていたし、口数も少ないので、悪意的に見れば彼女たちの評は正しかったかもしれない。千尋は整った顔を辛そうに歪めていた。このままだと泣いてしまうかも、と感じた。

 私は気付けば三人の所に行き、「そんなことないよ。この子結構いいとこあるんだから。優しいし」と言っていた。実際は千尋のいい所なんか全然知らなかった。話し方はおっとりしているが本当に優しいかも分からず、ただああいう目をしている子は優しそうだなと思っていただけだった。その程度の薄っぺらい言葉だったが、私はそれなりにクラスで発言力があったせいで、二人の女子は「そ、そう?」などともごもごと呟いて、自分たちの席へと戻っていった。

 私と千尋が残された。私は、勝手なことを言ってよかったかなあという気持ちで千尋の方を見られず、しかしすぐ立ち去るのも逃げるようで嫌で、視線をさまよわせていた。

 一分ほどして、千尋が「あの」と声を出したのでやっと彼女に目をやった。千尋は、咲く寸前の蕾のような笑みを浮かべ、「どうも、ありがとう」とだけ言った。

 私は笑顔を向けられれば喜ぶ単純な人間なので、その時も調子に乗って「いいんだよ! いきなりごめんね! 千尋ちゃんさあ――」と使いなれた口を回し始めた。千尋は言葉少なに、けれど笑いながら私の話に付き合ってくれた。

 それから、私はしばしば千尋に話しかけるようになったし、千尋からも時々声を掛けてくれた。千尋はやや浮いた子だったので、その子と急に話すようになった私も友達から若干距離を置かれたが、やがて元に戻った。千尋が変な絡まれ方をすることもほとんどなくなった。勝手な想像通り、千尋が優しい子だと知った。私と千尋は、とりあえず、ただのクラスメイトから友達になったのだった。

 私は、精々人並みの正義感しか持っていない。もしあの時遭遇したのが、千尋がシリアスにいじめられている状況だったら、まず間違いなく見て見ぬふりをした。事実、彼女と会うまでにも学年にいじめられていた子はいた。けれど、親しい友達がいじめられっ子たちを馬鹿にしたことを言っていても、可哀想と思いつつ止めるどころか一緒に笑顔を浮かべていたんだから、加害者側だったとすら言える。

 そんな私があの時声をかけたのはなぜか、よく分からない。多分、本当に軽い気持ちだった。道の脇に花の芽が生えていて、他の子がそれを踏みそうになっていたから、「そこ花あるよ」と一言言うような、その程度だったと思う。一体その芽をどうしたかったのだろう。



 私たちは段々仲良くなり、家を行き来したり、風邪のお見舞いに行ったりしたが、とりわけ特別なことはなかった。

 小学校を卒業し、千尋は私立中学に行くのかと思ったが私と同じ公立に入学した。私は、相変らず一人で猫に変身しては遊んでいた。とてもいい気晴らしだった。

 中学に入って三ヶ月ほどして、私には彼氏ができた。告白してきたのは向こうから。私は同じクラスだった彼に多少好感を持っていたし、恋愛に興味もあったので快諾した。

 初めのころ、交際はとても楽しかった。彼は私の明るさを好んでくれたし、私は彼の大人びた所が好きだった。何せ告白の言葉が、「木野原さん、突然ごめん。俺、君のことが好きなんだ。俺は他の奴らみたいに、あんまり笑わせたり盛り上げたりとか得意じゃないけど、絶対大切にするから、付き合ってくれないかな」だった。大切にする、なんてプロポーズじみたフレーズがポイントである。

 小学校出たての男子女子らしい健全な付き合いが続き、そして私は振られた。約半年後の中一の冬のことだった。

 振られた理由は、私の明るさと、彼の大人びた所にある。

 告白の言葉と共に公開して彼にはすいませんって感じだが、振り際の言葉の概要を述べると、「優奈、明るいけど。それって、他の人を馬鹿にしてるから明るいんだよね。そういうの、何だか透けて見える。そう思えたら、ごめん、もう一緒にいられないんだ」だった。

 別れを告げられた私は、その場では気丈に頷き家に帰って、恥ずかしい話だが大泣きした。悲しかったし、傷ついたし、恥ずかしかった。私は、確かに彼のことが好きだったから。けれど私は、確かに彼のことを、他人のことを、馬鹿にしていた部分があったから。私は明るさの底に傲慢さを持っていて、大人びた彼はそれを看破した。

 だって、と思った。だって、私は猫に変身できるんだ。普通の子たちとは違うんだ。でも、そう思うのは、悪いことだったの? 今更、何も特別なもののない女の子には戻れない。じゃあ、一生、誰とも一緒にいられないの?

 別れたことは早々に友達にばれた。「何で別れたのよー」と聞く彼女たちに、「お互い疲れちゃってさ」みたいな適当なことを答えていた。そう答えている時にも、「どうせ話したって分からないでしょ」という気持ちがあった。

 猫になって身を切る寒さの外を走り回っても、彼の言葉が私の心臓の裏、決して自分では手が届かない所に貼りついているようだった。猫になることでまた自分を凄いと思いたがってるだけだろ、と言われている気がした。

 破局は千尋にも伝わったはずだった。中学生になった千尋は、昔に比べて少し社交的になって、相変らず優しく可愛かった。言動がゆっくりしているので多少からかわれることはあったが、悪意にはさらされていないようだった。

 千尋はしばらくの間私が別れたことに触れてこなかった。なかったことにしてくれるのかな、と思っていたら、千尋の家で遊んでいたある日、不意に話題を向けられた。

「優奈ちゃん、本宮君と別れた時、何かあったの?」

 彼は本宮博一といった。名前紹介も忘れていてすまん本宮君。

「え、何で?」

 私はなぜ今になって、と少々驚きながら聞き返した。

「だって、最近何だか優奈ちゃん……ゆらゆらしてるような感じがするんだもん」

 千尋は、鬱陶しくならないよう気遣った気遣い、といった表情を浮かべて抽象的なことを言った。

 千尋っぽい言い方だなと思いつつ、私は他の友達にしたように適当に誤魔化そうとした。千尋がお金持ちで可愛くてもただの人なんだし、大体千尋は男子と付き合ったことがないし、と考えながら「いやー」と言った所で、言葉に詰まった。そんな自分を不思議に思いつつ言いなおそうとして、千尋の目を見た。あの果てしなく深い瞳が私を見つめていた。私にはこんな目は絶対にできないと思った。千尋が絶対に猫になれないように、私は絶対にこんな目になれない。

「わ、私、は」

 心臓ごと吸い込まれる、裏側まで見られる、そう感じた。ただ単に鬱屈の丁度いい吐き出し場所を探していただけだったとしても、その時は真剣にそう思った。

「っ、わた、し、もとみっ、くんっが」

 涙はまだこぼれていなかったが、呼吸だけは泣いているのと同じ状態だった。せめてそこでこらえようとしたが、千尋にそっと手を握られ、完全に泣いた。

 ぐじゅぐじゅとみっともなく体液を垂れ流しながら、つっかえつっかえ本宮君の最後の言葉を伝えた。

「それ、で、それ、ほんとだから、わたし、もう、ずっと、ひとりでっ……」

 猫になってもいないのに嗚咽で人語をしゃべれなくなった私をしばらく見つめ、千尋はゆっくり口を開いた。

「本宮君は、恥ずかしくなっただけだよ。優奈ちゃんといることがじゃなく、優奈ちゃんみたいに元気になれない自分のことが。だから、そんなこと言っちゃったんだと思う」

 優しい言葉だったが、それで安心するには私は自分の傲慢さに自覚的すぎた。

 ちゃんと話さないと伝わらないと思ったから、まともな言葉が発せるようになるまで涙と嗚咽を抑えた。千尋は手をさすりながら待っていてくれた。

「でも、でもね。私にそういう所があるのは、本当なんだ。私はそういう奴なんだ。千尋みたいに頭もよくないし、可愛くないし、お金もないのに、見下すだけは見下すんだ。止められないんだ。……千尋の、ことまで」

 あまりに醜い告白に、嫌われてしまうに違いないと俯いていた。けれど言わずにはいられなかった。

 千尋は、意外なことに、すぐに返した。

「そう……そうなんだ。じゃあ、私が教える」

「え?」

 言っている意味が分からなかった。涙で滲んだ目で彼女を見た。千尋は、白い顔にとても真剣な表情を浮かべていた。よく分からないけれど、聖職者が神に誓う時はこんな顔をするんじゃないかと思った。

「私だって、本当は、プライド高いんだから。いっつもみんなに笑われてるけど、馬鹿にされるのに敏感なんだから。だから、優奈ちゃんが私を馬鹿にしてるって思ったら、やめてって言うよ。そしたら、その内優奈ちゃんは、人を馬鹿にしてるように見せない方法、わかるでしょ? それまで、私ずっと付き合う。同じことでも、何回だって言う。だから……」

 元気出して、とも安心して、とも言わずに声は消えた。そもそも途切れ途切れで、真摯な表情の割に彼女の声はまるで自信なさげだった。けれど私には、凄く力強く聞こえたのだ。

 その後、千尋は約束を果たしてくれた。私は既に千尋を内心でもほとんど馬鹿にできなくなっていたため、千尋が自分へ軽蔑が向けられていると指摘してくることは少なかった。ただ相変らず他の子を舐めていたので、それが態度に表れていると見てとると、控えめに教えてくれた。私は少しずつ皆と歩調を合わせることを覚えていった。

 こうして千尋は私の特別な友達になった。



 前置きが長くなったが、いよいよ千尋がどうして私の能力を知ったのかに入ろうと思う。

 中学を卒業し、千尋は当然のように県内一の進学校に入った。田舎なので公立であるが、それが普通の経済状態である家庭の私には幸いした。私は必死に勉強し、彼女と同じ高校に滑り込んだ。中三後期の私の成績の伸びには誰もが驚いたことであろう。

 昔から知っていたが、千尋は猫が大好きだ。外を歩いていて猫を発見すると、必ず近寄っていく。大体はあっさり逃げられ、悲しそうな顔をする。私は千尋の悲しい顔が嫌いだったが、この時の表情に限ってはおかしかった。

 それくらい猫が好きな千尋だが、家では飼っていなかった。母親が猫嫌いらしい。それでも志望高校に入学したらお祝いに買ってもらうという話だった。ところが、実際に飼われることはなかった。母親は「千尋が頑張ったからいいよ」と言ったらしいが、やはり猫を歓迎しているようには見えなかったそうだ。歓迎しない人がいる家に飼われては猫が可哀想だと、千尋は猫を諦めた。仕方ないよ、と千尋はうっすら微笑んで、私は、彼女にお節介を焼いた最初の時から、千尋のそういう悲しい顔は見たくないのだった。

「ちょっとこれから信じられないようなことを言うんだけど、冷静に聞いてほしい。できれば信じてほしい」

 高校の入学式が終わってから初めて遊んだ日、千尋の部屋で私はそう切り出した。私の珍しく真面目な表情を見た千尋は、緊張した面持ちで頷いた。

「わかった。信じる」

 十年間たった一人で抱えてきた秘密、しかも常識外にもほどがある内容を打ち明けるのは、たとえ相手が千尋でも不安だった。呼吸を整え、千尋が私にしてくれたことを考えた。いける、と信じた。信じることは力になった。

「実は私、猫に変身できるんだ」

 吐き出した言葉が、小奇麗な部屋に広がっていった。大きなベッドにも、重そうな机にも、小物一つ一つにも、千尋にも、馬鹿げた言葉が染み透っていった。

「……うん」

 千尋は表情を崩さずそれだけ言った。

「えっ?」

 驚きの声を出すのが私の方になるとは思わなかった。

「え、だって、え? 変身だよ? ありえなくない?」

 慌てすらした私に、彼女は迷ったように唇に指を当てた。

「うん……ありえない、とは思うんだけど。優奈ちゃん、本気っぽかったし。だから、何か喩え話みたいなことかなって。もし、そのまんまの意味でも……とりあえず、もう少し説明してもらおうと思う」

 千尋のこういう面を何と呼べばいいか私は知らない。

 私は、ない頭を絞って考えた説明を口にする。

「まず、喩え話じゃないの。まんまの意味。変身できます。何でか分かんないけど、念じると猫になれる。本当。で、何でこんなこと教えるかって言うと……私でよければ、猫になって千尋と遊ぼうかって、いう、ことなんだけど……」

 千尋の目が揺れていた。色々な可能性がその頭の中を回っているはずだ。冗談という疑いも本当はまだあるだろうし、私の頭がおかしくなったという可能性だって浮かんでいるはずだ。もし私が他人からこんな話を聞かされたら、その二つだけで頭が占められる。だが、千尋は考えた末、

「ちょっと……流石に、信じにくいんだけど……」

とだけ呟いた。それを見て私は、よし、と思った。

「だよね。だから、今から証拠を見せるから。千尋の目の前で、変身する」

 その言葉は少し予想外のようだった。

「……本気、なの?」

「うん。……えっと、でも、変身してる最中って多分ちょっと不気味だから、目を閉じてた方がいいかも」

 ドロンと変身できればいいのだが、私は骨格から何から変形していくのが見えてしまう。だが、千尋は首を振った。

「大丈夫、だと思う」

「分かった。見てて」

 もう言葉はいらなかった。一人で変身する時はまず裸になるが、それは恥ずかしかったので服を着たまま、床にうつぶせに寝る。実際に変身を見てくれれば、間違いなく信じてもらえるだろう。信じられた上で、化物だと拒絶される未来を考えなかったと言えば嘘になる。でも、彼女がそんな風に私を扱うところは、うまく想像できなかった。千尋は、自分を見下している相手にすら誠実に接してくれる人だから。何より私は、千尋に秘密を知ってほしかった。

「……いくよ」

 瞼を閉じ、息を止め、猫になる、と強く思う。他人に見られる所で変身したことはなかったため、変身できないのではという不安が少しあった。しかし、全身にいつもの感覚が訪れる。一度大きく心臓が脈打ち、全ての血管の場所が分かる。ザワリともゾワリとも言い難いものが身体を走り、各部に溜まる。そこからは一瞬だ。身体が即座に縮み、発毛し、耳が尻尾が口が関節が全てが変化する。決して不快ではなく、むしろ高揚すら覚える。より効率的な動きができる身体になる確信。変身の度に私はこれを味わう。

 横に広がった口から細く息を吐いた時、私は女の子の服にくるまれた一匹の少し大きな三毛猫になっていた。一言で言い表せない様々な感情と共に、千尋を見た。千尋は座っていたが、私から見上げる体格差だった。

 千尋は目も口も丸くして、よく出来た人形のようだった。

「にゃあ」

 一声鳴いて、服から抜け出した。怯えているかもしれないと思うと千尋に近寄れなかった。座って、意思があるよ、という証拠に右前足を持ち上げて振ってみせた。

 千尋は、何かを言おうと息を吸っては何も言えず吐き出す、ということを繰り返した。そして、恐る恐る私ににじり寄って、震える手を私の頭に伸ばしてきた。頭を擦りつければよかったかもしれないが、それはまだ恥ずかしかった。右前足をもう少し上げて、ちょいちょい、と手をつついてやる。千尋はびくりと手を引っ込め、胸の前で抱いた。

「……優奈ちゃん?」

「なぁお」

 呼びかけに、視線を合わせて答えた。私だって内心はビクビクしていた。でもそんな所は見せられなかった。もし私が人間だったら表情から読み取られていたかもしれないが、千尋でも猫の顔からは分からなかったはずだ。

 千尋は更に数回深呼吸をして、抑えた声で叫んだ。

「凄い!」

 拒絶の色は微塵もなかった。そこに籠められていた感情は……自分の姿を見た相手の反応をこう表現するのは面映ゆいが、感動していたのだと思う。本当にそうだったとしたら凄く嬉しい。私も感動していたから。

「凄い、凄いよ優奈ちゃん! 何で!?」

 何度も凄いと繰り返しながら、千尋は今度は躊躇わず私の頭に手を伸ばし、撫でてきた。頭より大きな手だったが、全然怖くなかった。撫でる場所は頭から背中、腰、と移っていった。私はくすぐったさと恥ずかしさを我慢してなすがままになっていたが、適当な所で一声鳴いて身体を離し、無断で悪かったが千尋のベッドに飛び乗った。布団の中に潜り込む。鋭敏になった嗅覚に、千尋がとても強く香った。

 全身を隠したところで、意識を集中する。人間に戻りたい、と強く念じる。広がるイメージ。再び心臓が震え、限界を超えて背伸びする感覚がやってくる。身体が重く、不安定になる。五秒とかからず、私は人の姿に戻った。布団から頭だけを出し、千尋に目をやった。興奮のために紅潮した頬と、あの瞳が向けられていた。

「……信じた?」

「もちろん!」

 何度も頷かれ、長い髪が躍った。私はヘヘ、と笑って、

「とりあえず服取ってちょうだい。これ毎回マッパになるんだ」

と告げた。親友の布団の中で服を着るのは変な感覚だった。

 こうして、私が猫になれることを知っている人間は二人になった。



 それから一年以上が経つ。千尋とは何度も猫の姿で遊んだ。場所は大体は千尋の部屋だった。

 最初の頃は遠慮がちに撫でられるくらいだったが、その内様々なおもちゃで遊ぶようになった。千尋は猫用おもちゃを使うことが私の自尊心を傷つけないか心配したが、私は全く気にしなかった。

 スキンシップも次第に進展した。千尋の膝の上に乗せられて丸くなったり、胸に抱き締められたりもした。慣れない間はどうにも恥ずかしかったが、嬉しいという気持ちも確かにあった。いや、私は変身できることを千尋に明かすと決めた時から、そういう接触を期待すらしていた。

 千尋に触れられることを覚えると、私から身体をこすりつけたり抱きついたり、最初は控えめに、やがて堂々と甘えるようになった。そうすると千尋はとても嬉しそうに私を甘やかした。私は千尋の柔らかさに、匂いに、大きさに、包まれた。言葉にできない安心感と充足感があった。幸せな気持ちになった。もっともっと、幸せになりたかった。

 ベッドで並んで昼寝もした。ふざけて仰向けにもされた。猫の姿で全裸でいることには慣れていたが、仰向けでお腹を撫でられるのは流石に恥ずかしかった。だって、お腹には、その、あるではないか。人間の姿だったら、星マークでもつけなければ健全誌に載せられない器官が。まあ四足歩行でお尻の穴まで晒しておいて今更って話ではあるのかもしれないが、直接そこを触られるのはまた別なのだった。

 猫になると当然人の言葉は使えないが、それはむしろいいことだった。どんな意味を込めて声を発しようとも、千尋には気付かれないのだから。

 途中まではベッドを借りて人の姿に戻っていたが、やがて私は猫のまま千尋の家を去るようになった。服は事前に準備した紐で身体にくくりつけてもらった。大柄なことが役に立った。服を運ぶ猫を他人に見られたら驚かれたろうが、猫の身体と人の知恵があれば人目を避けるのは簡単だった。なぜそんな面倒なことをしたかと言うと、恥ずかしかったからだ。やってみれば分かるが(やれないだろうが)、人と猫として散々身体を触り合ったりはしゃいだりした後に人の姿に戻ると、お互いに物凄く恥ずかしいのだ。

 私たちはそんな風に、どんどん人と猫としての遊び方を学んでいった。猫として千尋と遊ぶのは、想像していたよりずっと楽しかった。千尋も猫としての私と思う存分遊べるのを本当に楽しんでいるようで、それが凄く嬉しかった。

 人として遊んでいる最中に猫になることを提案するのは、最初は千尋の方が多かったが、次第に私からの頻度が増えた。

 千尋と一緒にいると、千尋に触れ、触れられたくなる。千尋のはしゃいだ顔を見たくなる。その為には、猫にならなければいけない。私は猫として千尋と遊ぶことが病みつきになっていた。とは言え、人の姿で一緒に外に出かけたり、千尋の家に行っても最後まで変身しないこともあった。私たちはちゃんと、人間の友達でもあり続けようとした。

 私は一人の時もしばしば猫になって外で遊んでいた。猫の身体能力は人と比較にならない。野外を駆け回ると、躍動という言葉はまさにこれだと思う。敏感になった感覚器で鮮やかに世界を感じられるのもいいし、解放感も凄い。

 また、私が猫の姿になるのを好むのには、身体の傷が見えなくなるからという理由もあった。小さい頃の私は、手足に傷をよく作った。年頃となった今ではその痕が若干気になったりもする。そんな脛に傷持つ私の一番目立つ傷痕は、一番格好悪い経緯の傷痕である。

 小学六年生の夏休みの話だ。公園で遊んでいた私と千尋に向かって、強い風が吹いた。

「きゃっ」

 声と共に千尋のお洒落な帽子が宙に舞い、近くにあった木の枝に引っかかった。大人を呼んでも届かなそうな高さのそれを見て、私は自分が登り取ってくることを提案した。

「危ないよ! その内また風が吹いて落ちてくるから……」

「大丈夫大丈夫、千尋が見てくれてれば平気だよ。いっつも木登りしてるんだから」

 格好つけたかった私は、いつも登る木より少しだけ高く、少しだけ細いことには気付かない振りをして登り始めた。

 それなりに手がかり足がかりがあり、するすると登っていける。帽子がかかっている枝の根元まで辿りついて、下を見た。千尋が、祈るように手を組み固唾をのんで見詰めていた。心配性だなあ、と私は笑って手を振ってやった。千尋が観客だと思うと、普段より少し遠い地面にも恐怖なんて全然感じなかった。

 思い切りよく枝に身体を移し、その先へずりずりと進み、帽子に指先をかけて、引き寄せた。帽子を掲げて、どうだ、と言えただろうか。

 ベキッと音がして枝が折れ、私は落下した。ゾッとする浮遊感が下腹部を襲い、悲鳴を上げることもできずに地面が急接近し、そこに激突した。

 千尋が真っ青な顔をして駆けよってきた。私は、肩を掴む彼女にニヤリと笑い、軽く抱いていた帽子をかぶせてやって「皺ができなくて良かった」と言った……ら少しは格好がついたろうが、実際はワンワン泣いていたし、帽子は身体の下敷きになって潰れていた。枝で切った腕と脚からは割と血が出ていて、それが怖くて更に泣いた。

 千尋は私をなだめ、珍しく持ってきていた携帯電話で彼女の母に助けを求め、諸々あって私は速やかに病院に運ばれて事なきを得た。それでも私は親にこっぴどく叱られ、千尋の母には申し訳ないくらい謝られ、千尋からも泣いて謝られ、多分千尋も彼女の親に叱られて、肝心の帽子は潰れてしまって、私の身体には傷が残って、格好つけたかったのに何一つ格好いい所のないエピソードである。

 なのに千尋は、時折その傷痕に触れてくる。そこが何か繊細な器官であるかのように、そっと指でなぞる。引き攣れた夏の痕跡を、彼女は何度も撫ぜる。くすぐったいし、恥ずかしい記憶を刺激されるので、落ち着かない。

 照れ隠しに「何で触るのさー」と聞くと、「触りたいんだもん……嫌?」と眉を下げて聞き返され、私は「嫌じゃないけど……」とモゴモゴと答えて触られ続けるのであった。その恥ずかしい傷も、猫になれば見せずに済む。

 自分にどうしてこんな力が芽生えたのか考えることもあったが、答えは思いつかなかった。理由が何であれ、私はこの能力を全肯定していた。

 そんな風に私は猫に変わるのが大好きだったが、少しは困ることもあった。その一つが、時期が時期になるとオス猫にちょっかいをかけられることである。

 冗談ではなかった。オス猫のそこはトゲがついているそうではないか。私は猫になってもその時期の影響を受けないらしく、興味を持たずにすんだ。猫としての私は体格に恵まれていたので、適当にオス猫は追っ払った。けれどそれはやっぱり面倒で、男だったらよかったなあ、と思うのだった。私は大雑把な性格だし、男の方が向いていた気がする。珍しいオスの三毛猫にもなれたし。傷跡も気にならないし。他にも色々。本当、男だったらよかったのだ。

 それから、もう一つ困ることがあった。いや、本当に困っているかどうかは微妙なのだけれど。こっちは最近になってからの問題である。

 今、猫の姿でも発情期の影響は受けないと言ったが、どうもここの所、猫に変わった日は身体が火照るのだ。露骨に言えば、欲情する。以前はこんなことはなかったのに、高校に入って少ししてからこの傾向が出始めたので、これが思春期なのかもしれない。欲情してどうするかというと、解消するしかないわけで、一人で耽るのである。大胆告白だが、どうせここまで話したのだ、もう少し詳しく言おう。

 私は全部空想でするタイプだ。それから、比べたことはないけど、多分ゆっくり気持ちを盛り上げるタイプでもある。最初はキスから始める。思い浮かべるのはテレビのイケメンアイドル。指を唇にあて、彼の唇にされているところをイメージする。そしてギターを弾く彼の指が、私の胸を探るところを想像して自分で触る。そっから、色々盛り上げていって、声を漏らさないようにしつつ若干出ちゃったりもして、私は途切れ途切れの吐息と共に真っ白に燃え尽きるというかトロトロに溶け切るというか。そんで、終わった後の優しいキスも想像して余韻に浸る……ただ、その頃には、アイドルは頭の中から消えている。途中から彼のことは考えていない。途中って言うのは、大体、私の、その、少女の部分、って遠回しに言おうとして余計恥ずかしくなってるけど、とにかくそこに指を潜らせる辺りから、触れる指はアイドルのものではなく、白くて華奢な、よく知った優しい指に変わっている。私の嗅覚には甘い匂いが蘇る。肌を撫でる滑らかな掌が蘇る。事後の唇も、その指や匂いや掌の持ち主の淡い桜色のもので、私はいつの間にかそんな風になっている自分のことをなんかおかしいのかなとも思うけれど、あまり考えないようにしているのだった。

 このように、私はそれなりに、いや、かなり楽しく人生を送っていた。だが、変化は徐々に始まる。



 およそ十秒。それが最初に気付いた頃の時間だ。

 何の時間か。それは、猫から人に戻るのにかかる時間である。以前は五秒とかからなかった。それが、ふと気付いたら、十秒近くかかっていた。だが気付いても、初めはこだわらなかった。バイオリズムか何かかな、とだけ思った。私はこの能力が完全に制御下にあると信頼しきっていた。

 しかし、変化は進行する。解除時間の長さに気付いてから何となく意識していたが、元に戻る様子はなかった。むしろ、僅かずつ長くなっていくようだった。段々不安を覚えてきた。まだ戻るのに三十秒もかかっていない。でも、どこまで延びていくんだ? その果てに何があるんだ?

 三十秒を超えた頃から、一人の楽しみのために変身することを控えた。大事な気晴らしがなくなるのは残念だったが、仕方ないと諦められた。だが、千尋の前で変身することは止められなかった。戻るための時間が延びてきた、と相談さえしなかった。猫になって千尋と遊ぶ時間は、私にとって本当に、本当に大切なものになっていた。千尋に心配され、変身を止められるリスクを冒したくなかったのだ。

 私は特別さを強く求める人間だ。変身能力に自分らしさを頼ってきた私には、他に何もなかった。そして特別への執着は、千尋との関係にも向けられた。私と彼女だけが知っている、変身の秘密。私と彼女だけができる、人と猫の遊び。私と千尋の関係の特別性の根拠。それを捨てることがどうしてもできなかった。捨ててしまえば、私と彼女はただの友達になってしまうと思った。どうしてか、それが凄く怖かった。解除時間が延びていくことより怖かった。私たちは普通の友達としても仲良くできていたはずなのに。

 私は千尋の前で変身を続けた。千尋からねだられればもちろんだったし、不信感を与えないために私から水を向けることすらあった。猫の姿のまま別れる習慣ができていたことが、誤魔化しを容易にした。

 解除時間は延びていく。しかし時間がかかるだけで、戻る時に違和感はないことが状況認識を甘くした。延長があくまでゆっくりだったことも甘えを許した。茹でガエルのメタファー。状況の悪化がゆるやかである場合、人間は回避行動を取らない。私は、きっと大したことない、と思い込む努力をしながら猫になり続けた。その甲斐あって、千尋が異常に気付いた様子はなかった。

 リミットシグナルは突然点った。

 解除時間はかなり延びていたが、それでも三十分掛かるか掛からないかだった。だが、ある日。千尋の家から自宅に戻り、人に戻ることを念じる。長くても三十分強で戻れると信じていた。しかし、三十五分経っても戻らない時点で恐怖し、四十分を過ぎた所でパニックになった。一生このまま、という言葉が脳内で暴れ狂った。一生というのは、途方もなさすぎてどこまでも恐ろしい言葉だった。ほとんど祈ったことのない神に祈った。家族も私のことを私と気付かない。千尋だけは分かってくれるが、人間に戻れなくなったと理解してくれるか不明だし、理解されたとしてもこの猫が木野原優奈だったなんて説明は他人は信じない。千尋に話しかけることもできない。何もできない。何も!

 私は何かしたのですか、悪い事をしましたか、何年も平気だったじゃないですか、誰も説明してくれなかったじゃないですか、人を馬鹿にしたのが悪かったのですか? 教えて! 助けて! 一人は嫌だ! 話がしたい! 手を握りたい! 物を持ちたい、温かい食事がしたい、家族が欲しい、千尋と遊びたい! 助けて、助けて、でも私にあるのはメス猫としての一生、獣としての一生、獣、獣、獣!!

 半狂乱で粘液質の時間が経ち、少なくとも一時間以上はしてから、私は人に戻り始めた。戻る感覚すらそれまでとは違っていた。馴染んでいたものを無理やり剥がすような不快感と痛み。だがそれすら私には嬉しくてたまらなかった。苦痛に荒くなった呼吸で、裸のままで、安堵の涙を流した。

 この経験で、もう無理なのだ、という恐怖が心に焼き付いた。私は決して猫にならないことにした。

 千尋にも、もう変身しないことを告げた。ただし、なれない、ではなく、ならない、というニュアンスにした。理由も正直に伝えず、「最近猫になると疲れちゃってさー。大人になってくると変身できなくなるのかも。だから、ごめんね、猫になるのは止めさせて」と説明した。私の追い込まれた状況を言ったなら、故意でなくともその状況に加担した千尋を苦しませると思ったからだ。

 私の言葉に千尋は残念さを隠しきれなかったが、しかし駄々をこねることなく納得してくれた。

 そうして私は、特別だった自分を失った。

 それでも表面上は、大して変化なく暮らせていたと思う。千尋以外にとっては元々私は普通の小娘だったし、内面を隠す術も、傲慢さの隠し方を学ぶ中でそれなりに身に着けていた。千尋には私の変化が多少は伝わったろうが、猫に変化するのを止めたため、というとりあえずの理由があったから、不審には思われなかったはずだ。私が私である基盤をなくしたことは、誰にも見通せなかった。

 二人の関係も、概ね変化なかった。相変らずよく遊んだ。ただ、千尋の部屋で遊んでいる時に、一瞬だけ千尋が寂しそうな素振りを見せてしまうこともあった。私も、千尋に触れてほしくて仕方なくなった。腕と脚の傷跡にだけじゃない、もっと体中に触ってもらって、抱かれて、包まれたかった。しかし、人間であることを剥奪される恐怖は、それらの誘惑に勝った。私たちは、二人だけに許されたコミュニケーションなんて持たない、普通のいい友達だった。



 高校二年生の日曜日。私と千尋で遊びに行った帰り道だった。夏の太陽は午後でも高いけれど、少しだけ色づいてきたかな、という時間。川沿いの土手道を歩いていると、にわかに雲が湧きだした。みるみるうちに空を埋め尽くし、ぼつり、と大粒の水滴が落ちてきた。雨の勢いはあっという間に激しくなっていく。

「うわー降ってきた!」

「優奈ちゃんどうしよう?」

「走る、にはぐっしょりになっちゃう距離と雨だなあ」

「雨宿り、とか……」

 雨宿り、雨宿り、と呟いて私は周囲を見回す。と、土手を下りた川岸に、一軒の小屋が建っているのを見つけた。

「あそこ借りよう!」

 即決して小屋を指差すと、千尋は少し躊躇った。

「勝手にいいのかな?」

「大丈夫大丈夫! とりあえず行ってみようよ」

 千尋を雨に濡らしたくなくて、足早に小屋へと向かった。古びていながらしっかりした作りの小屋だった。

 開くといいけど、と思いながらドアを引く。ギィ、という音と共にドアが開いた。鍵はかかっていなかったらしい。

「よかったー。ほら千尋入って」

 千尋を先に入れ、私も後に続き、バタンとドアを閉じた。

 小屋の中は埃っぽく、天井近くに小さな採光用の窓があるだけで薄暗かった。草刈り機などがしまってあった。

「まいったまいった」

 おっさん臭く言いつつ、私は小屋の床に腰を下ろした。

 猫のワンポイントがついたハンカチで髪や顔を拭き始める千尋を見て、私もそれに倣った。濡れた服に千尋の下着が所々透けていて目を逸らした。

 千尋が、私の隣に自分のハンカチを敷いて座った。

「凄い勢いだね」

 雨の音が強烈に響く天井を見上げて千尋が呟く。

「夕立だからすぐ止むと思うけど。ゲリラ豪雨ってやつ?」

「ゲリラって言葉を気軽に使えるの、平和な感じだよね」

 だが雨は五分経っても弱まる気配がなかった。

「そうだ、テレビでも見る? ワンセグついてるから」

 携帯電話を取り出した私に、千尋は頷いた。

「私また携帯置いてきちゃった……。この時間って何やってるんだろう?」

「んーっと……」

 数年前にヒットしたドラマの二話連続再放送が行われているのを見つけた。私も千尋もリアルタイムで見ていたが、話しながら見るにはちょうどいいだろう。

「うっわ懐かしー。この女優下手だったよねー」

 やいのやいの言いながらドラマを見ていると、あっという間に時間が過ぎた。ドラマは二話とも終わって、夕方の地方情報番組が始まった。

「……止まないね」

 困ったなあ、と千尋が再び天井に目をやった時、携帯の電池が切れた。

「あ」

 ワンセグは電池の消耗が激しい。暇潰しの手段がなくなってしまった。この狭く暗い小屋で賑やかだったものがなくなるとちょっと寂しくなる。

「夕立ってレベルじゃないね、これ」

「そうだね。でももうちょっと待ってみようか」

「うん……」

 さっきのドラマの続きの話とか、学校のこととか、次の休みはどこに行こうかとか、いくらでも話すことはあった。それでもまだ、雨は弱まらなかった。いつまで続くのだろう。携帯で天気情報を見ておかなかったことが悔やまれた。

「優奈ちゃん、もう諦めて走って帰っちゃおうよ。すぐにお風呂に入れば風邪引かないよ」

「しゃーないね、そうしよっか」

 ふう、と溜息を吐き、私は立ち上がった。入り口に向かい、軽くドアを押す。ガチャリ、と手応えがした。ドアは開かなかった。

「え?」

 ガチャリ、ガチャリ、何度ドアを押しても、押す力を強めても、開かない。

「ちょ、ちょっと何これ!」

「どうしたの?」

「鍵かかっちゃってる!」

「ええ!?」

 ドアを揺すっても、蹴っても、開かなかった。やはり鍵がかかっているとしか思えなかった。多分、私がドアを閉めた衝撃で。

「ど、どうしよう!」

 家や自動車で経験のある人も多いと思うが、鍵が開かない、というのは人間の心を動揺させる。まして今は、他の家族にもJAFにも頼れなかった。

「優奈ちゃん、落ち着いて」

「わ、わかった……」

 背中に手を当てられ、私は深く呼吸する。そう、慌ててる場合ではない。大丈夫、冷静でいなきゃ。

「ここに優奈ちゃんと私がいるって、誰も知らないよね」

「うん。しばらく帰らなかったら警察とかには連絡されて探されるとは思うけど……私たちもう高校生だから、一日くらいは経たないと警察も本気にはならないと思う。なってもここが分かるか」

「一日程度なら食事はしなくても大丈夫だし、飲み物はペットボトル持ってるけど……うーん。この小屋の持ち主の人も、いつ来るか分からないよね」

「あんまり頻繁に使われてる感じは、しないね」

 私は必死に考える。まず、誰かにこの状況を教えられれば、問題はない。

「携帯、ちょっとでも電池が残ってれば……!」

 携帯のバッテリーを一度外し、振ったり、擦って暖めたり、どこかで聞いたバッテリーを使いきる方法を試してみてから、携帯にセットする。電源を入れる。起動はする。もう少し、もう少しだけ、願いながらアドレス帳を開き、そこで無情にも電源は落ちた。

「駄目だ……」

「ごめん、私もちゃんと携帯持ち歩いてれば……」

「千尋は悪くないよ! 私がこんな所入ろうって言わなきゃよかったんだ」

 そうだ。ここに入ったのは私のせいだ。鍵が掛かったのも私が強くドアを閉めすぎたせいだ。携帯の電池をワンセグなんかで浪費したのも私のせいだ。私が全部悪い。

 自己嫌悪に唇を噛みしめ拳を握った。千尋がいなかったら拳で壁や床を殴っていただろう。でも、そんなことをしたって、何にもならない……いや、腕力も、手か?

「……思い切り体当たりとかしたら、扉が壊れるかも」

「そうだね、やってみようよ!」

 千尋は元気よく頷いた。気丈な人だった。

「頭だけは打たないように、肩から」

「うん」

 私と千尋は肩を組み、扉から離れた。助走を付けて、全力でドアにぶつかった。爆発するような痛みが身体を走り、小屋が小さく揺れた。しかし、ドアは歪みもしなかった。

「一人ずつの方がいいかも」

 私だけが体当たりをして、千尋だけが体当たりをして、だがやはりドアは壊れそうになかった。肩がズキズキした。

「……無理、かな」

「うん……。じゃあ、他に抜け出れそうな所とかは」

 かなり暗くなってきていた小屋の中、私たちは目を凝らして隙間を探し回った。どこでもいい、どこか!

 一つだけ、小屋の隅に壁板が部分的に外れている場所が見つかった。だが、それは私たちが通るには余りに狭かった。小動物しか通れない。小動物。例えば、猫、とか。

「…………」

「…………」

 隙間を前に、二人とも黙った。解決策が提示されているのは明白だった。千尋はなぜ私がそれを言わないのかいぶかしんでいたろうし、私は千尋がそれを口にするのを恐れていた。しかし冷静な、でも私に騙されている千尋は、言葉を発する。

「ねえ、優奈ちゃん。もしよければ、猫になってくれれば、ここから……」

 うん、そう、そうだよ。そうすればこんな場所から出られるよ。そのはずだよ。でも。そうなったら、私はもう、全てを失うんだ。

「……ごめん、ちょっと、それは」

 顔を背けての私の言葉に、千尋は戸惑い、しかし私の拒否が本気だと分かったようだった。

「そっか。それじゃ、仕方ないね。他の方法、考えよっか」

 千尋は理由も聞かなかった。また、私のせいが一つ増えた。私が、変身を無駄遣いしていたせいだ。

 千尋の提案で、小屋の中に使える物がないか探した。草刈り機には期待したが、電源がなかった。他にめぼしい物は見当たらなかった。

 二人とも疲れ果てて、床に座り込んだ。もう、打つ手が見つからなかった。

「……うん、待ってればさ」

 千尋が精一杯の明るさで言う。

「いつかは見つけてくれるよ。ずっとこのままなんて、あるわけないって」

「…………」

 私は辛うじて頷いたが、とても恐ろしい懸念があった。それを口に出すことはできなくて、でもぼんやり天井を眺めることを止められなかった。私の視線の意味が、千尋にも伝わってしまった。

「雨、ずっと止まないのかな」

 千尋が呟いた。永遠に降り続けるわけはない。でも、十分に長く降り続いたら。

「……この小屋、結構川に近かったね」

 千尋が一つ一つ確かめるように言う。ああ、もう千尋には分かっているんでしょう。私たちがどれくらい切迫しているか。これから何が起こるかもしれないか。

 我慢できずにその予測を口にしたのは私の方だった。

「このまま増水したら、流されるかもしれない」

 千尋が息を飲んだ。

「今どれくらい危ないのか、分からないけど。本当はまだまだ大丈夫なのかもしれない。でも、もしかしたら……」

 一度口をついた不安は止まらなかった。並べ立てるように言葉を継いでしまう。増水した川に流されるということ。とても死に近いということ。私も千尋も死んでしまうということ。それが私のせいだということ。私は、体育座りの膝の間に頭を挟んだ。頭がガンガンした。

「…………」

 千尋が何を考えているかは当然予測できた。私に猫になることを期待している。猫になるのが疲れるとかそんな状況じゃないでしょ、と考えている。でも、私にとって、そうすることは。

「優奈ちゃん」

 優しく名前を呼ばれ、私はゆっくり顔を上げた。千尋は緊張と恐怖のせいかワンピースの裾を握りしめ、疲れの見える顔で、この命が脅かされている状況で、穏やかに微笑んでいた。

「本当は、もう猫になれなくなっちゃったのね? 私をがっかりさせたくなくて、疲れるから変身しないって言ったけれど」

 もちろんそうではない。そうではないのに。

「猫になれなくたって、優奈ちゃんは私の大切な友達なのに」

 私を責めるでもなく、苛立つでもなく、深く穏やかな瞳で、彼女は言った。

 責められれば、詰られれば、変身できないんだと答えて、救出される可能性に縋ることができたかもしれない。でも、こんなことを言う千尋にそんな仕打ちができるだろうか。こんなことを言ってくれる千尋を、私のせいで殺してしまうかもしれないなんて、認められるだろうか。いや、今何を言ったとしたって、千尋を、あの千尋を、私が見捨てるなんて、そんなこと、できるわけがない。私は、千尋のためなら、何だってできる。だって、そう、千尋は私の――。

 とにかく、私は、千尋を、助ける。

「……ううん」

「え?」

 否定は意図せず平坦な声になった。これではいけないと、気を落ち着けて普通に声を出すようにする。不自然じゃない程度に、軽く。

「いや、そんなことない。本当に疲れるだけで、まだ変身できるよ。でも、疲れるとか言ってる場合じゃないよね、ごめん。助けを呼んでくるから安心して」

「本当? 本当なの!?」

 千尋は顔を輝かせた。さっきまでの空元気ではない笑顔。ああ、私はこれが見たかった。私自身の特別さとおんなじくらい欲していたんだ。千尋の笑顔は、特別だったんだよ。

 私はテキパキと話を進める。多少不自然なことをしなければならないから、千尋に疑問を持たせる隙を与えてはいけない。私自身にも余計なことを考えさせてはいけない。

「本当。ちょっと待ってね、準備しなきゃ。猫のまんま走ってった方が早いから、メモ書いて持ってく」

 バッグから手帳を出し、助けを求めるメッセージを書く。

「それと、私の服とか荷物があったら変な事件だと思われるから、外に出しとかないと」

 まずはバッグを隙間から外に押し出す。ちょっと引っかかって、手間取る間に余計なことを考えてしまった。その思考が迂遠な経路を通って、口から出る。

「……千尋、猫になってる私のこと好き?」

「当たり前だよ。とっても綺麗だし、可愛いし……あのね、こんな時だけど、また猫の優奈ちゃんに触れるのが嬉しいの。あ、馬鹿なこと言ってるね、ごめんね」

 その言葉で、私は猫になる自分を肯定できる気がした。私は綺麗になるんだ、可愛くなるんだ、と口の中で呟いた。

「えっと……服、脱ぐから、後ろ向いてて欲しいんだけど」

「そ、そうだね。ごめん」

 千尋に背を向けてもらって、手早く服を脱ぐ。下着まで取って全裸になる。隙間から服を押し出す。できた。

 後はもう、変身するだけだ。意識を集中するだけだ。変身のための時間は変わっていない、すぐにすむ。すぐに。

 私は床に四つん這いになって、猫になろうと思って目を閉じて、そして――そこで、駄目だった。

 最後に変身した際の、人に戻るまでの恐怖が蘇った。私はこれから、獣として生きる。人間らしさを全て失う。この人の姿を見るのは、今の、何気なく背中を向ける寸前の千尋で最後だ。学校には行けなくなる。怪我や病気でも病院にも行けなくなる。誰かと手を繋ぐことはできなくなる。自分の心を伝えることはできなくなる。私に仲間はいなくなる。完全に一人、いや、一匹だ。一生。私が死ぬまで。私がこれから感じる全ては孤独に塗りつぶされている。この世界にこんな猫は自分しかいない。それが、特別性を求めていたはずの私をこんなに怯えさせる。千尋にももう会えない。私が彼女のために人間を捨てたなんて、彼女に負わせるには重すぎる。猫になった私は千尋の前に姿を現さない。千尋とは、もう、何もできない。何もしなかったまま、何もできずに終わる。何重もの恐怖が私の全身を満たし、変身することがどうしても、どうしても、できなかった。泣きそうだった。けれど泣くわけにはいかなかった。

 私は音を立てず立ち上がり、千尋に後ろから近寄って、そっと抱きついた。

「え、どうしたの優奈ちゃん?」

「お願い、ちょっとこうさせて。こっち見ないで」

「う……うん」

 彼女の柔かさが伝わる。戸惑った体温が伝わる。でも服越しだ。私はもう絶対に、千尋に直接触れることはない。どれだけその肌が滑らかなのか知ることはない。千尋が私に触れることもない。想像していた指の感触を知ることはない。千尋と私は違う生き物になる。

 ここにきてはっきり自覚した。私は、千尋と一緒の未来を夢見ていた。友達としてではなく、特別なパートナーとして。でも、それは叶うわけがない。私が人でい続けたって叶うわけがない。それなら、猫になったって構いやしないでしょう? そのはずなのに、辛くて、本当に辛くって。私は千尋の肩に顔をうずめて黙ってしまった。

「あの……そんなに、大変なら、」

 その千尋の言葉を遮った。

「顔だけ、こっち向いて」

「?」

 横を向けられたその頬に、私は軽く、本当に軽く、かする程度のキスをした。彼女の唇の味も、私は一生知らない。彼女は私の唇の感覚なんてほとんど分からなかっただろう。でも私は、かすかな、ほとんどあるかないかの頬の感触と、その温もりを、絶対に忘れない。

「!? い、今」

「ごめん、なんでもないの。待ってて、すぐ助けが来るから。……私がここにいたこと、猫になれること、誰にも言わないでね。千尋がおかしくなったと思われるだけだから」

「どうしたの!? 優奈ちゃん変だよ!!」

 手を離した私に振り返って千尋は叫ぶ。私はその声を頭から締め出して、意識を集中する。次の瞬間おぞましい感覚が全身を舐めつくした。今まで数え切れないほど変身してきたのに、今回は全然違った。身体が根本的に作りかえられる感触があるとすればこれだ。骨が、筋肉が、皮膚が、感覚が、本来の姿からかけ離れていく。いや、本来の姿が書き変わっていく。あるはずのものが消え、ないはずのものが現れる。白い紙が墨汁に染まっていく不可逆変化。存在が歪んでいく。

 恐ろしく長く感じたけれど、きっと五秒とかからなかったろう。気付けば私は床に立つ三毛猫になっていた。完全に、なっていた。木野原優奈との決別は、何の支障もなく完了した。

「優奈ちゃん……」

 不安げな千尋をなだめるために、いつもしていたように彼女の足に身体をこすりつけた。千尋は少し安心したように私を抱きあげ、胸元に抱いた。最後に抱かれてからそれほどの時間が経ったというわけでもないのに、懐かしさと恍惚を覚えた。永遠にこうしていたいと願った。だが、それはできない。私は千尋の匂いを、小さくなりすぎた胸に精一杯吸い込んで、離れた。

「にゃあ」

 一声鳴いた。この声を聞かせるのも最後だった。メモ用紙を口にくわえて、隙間から外に這い出た。

 千尋に、人間世界に、永遠の別れを告げたメス猫が、振り向かず雨の中を走っていった。


   ★


 ここで話を終わらせてもいいのだが、もう少し続けるのが責任というものかも知れない。ここから先は後日談だ。

 小屋を出た私は服とバッグをその辺りに置き、一番近い交番まで駆けて行って、警官に紙を見せた。警官が急いで色んなところに電話をし始めたのでこれで大丈夫だと思ったが、それでも心配だったので、小屋の近くに戻り、服やバッグを適当な所に隠して観察していた。小屋へ戻りたいという気持ちと戦うのは大変だった。

 少しすると大人たちがやってきて、扉をこじ開けて千尋を救出した。そこで私は本当に安心してその場を離れ、私だった人間の荷物を絶対見つからないだろう場所に隠した。

 それからは、聞かせて楽しい話はない。木野原優奈は行方不明になった。家族も友達も嘆き悲しんだようだ。千尋は……私がいなくなったと知ると、乱れた。優奈が自分を助けてくれた、とか話したらしい。あの場に優奈がいたこと、私が猫になったことは話しただろうか。いずれにせよ千尋の発言はおかしかったから、恐怖で一時的に錯乱していると判断されたらしかった。もっと千尋について知りたかったが、猫の身では詳しい情報は得られなかった。

 そして私は、今もまだ優奈のいた町にいる。本当は、千尋に見つからないよう、早く時間の流れに埋もれられるよう、離れた所で暮らすつもりだった。しかしできなかった。

 私は、千尋のためなら人を捨てられた。猫になることを覚悟できた。逆に言えば、千尋が無事でいると分からなければ、とても耐えられなかった。だから毎日、こっそり姿を確認していた。その為にこの町から離れられなかった。

 千尋は学校にも通い始めたようだった。表情は沈んでいたが、時間が解決すると私は信じた。やがて、町内の電柱に、大柄なメスの三毛猫を探す貼り紙が貼られた。だが、人間から姿を隠して行動することには慣れていた。

 野良猫としての私の生活についてはあまり話したくない。辛いことだらけだった。最初は食が一番の問題だった。ゴミ箱を漁った。何度も吐いた。今でも吐く。次は孤独が来た。探されている私は、人間に媚を売って遊んでもらうこともできなかった。慣れはする。だが、辛い。慣れと言うより、自我が摩耗していくように感じた。いつまで耐えられるかは、分からない。

 それでも、これだけは言える。私は千尋を助けたことを、後悔していなかった。木野原優奈に猫になる力が備わったのは、山辺千尋を助けるためだったのだろう。それを果たしたのだ。



 そんな風にしていた、ある晩のことだ。

 既に時刻は深夜だった。私は空腹を抱えて公園の植え込みの陰でまどろんでいた。すると、芝生を踏み分ける音が聞こえてきた。犬の足音だ。犬の散歩にしては、人の足音はない。野良犬?

 とろとろと考えていると、その足音は段々近づいてきた。たまたまうろついている先がこっちに向かっているにしては、余りに迫ってきているように感じられてきた。

 私は植え込みから首を出し、足音の方に目をやった。夜に適応する猫の瞳には、一匹のラブラドールレトリバーがはっきり見えた。まだ若い、体型の整ったいい犬だった。近くに飼い主らしき人間は見えない。やはり野良犬か。しかしあまり野良らしくない犬種だ。地面に鼻を当て、何かの匂いを追っているようだった。

 犬が、ふと私の方を見た。その瞬間、何かが張りつめたのを感じた。犬の方が私を見てあまりに衝撃を受けたようだったので、釣られて私も固まった。私と犬は数秒見つめあった。ところが、犬が

「わふ!」

と一声鳴いて私へと走ってきたので私は胆を潰した。リードに繋がれた犬に興味を持たれたことはあったが、放されている犬に本気で追われたことなどなかった。私は身を翻し、全力で走った。

「わふわ! わふ!」

 鳴きながら犬が追ってくる。やはり足が速い。しかし捕まる気はしなかった。適当な木に辿りついて、するすると登った。犬には絶対にここまで来れまい。

 枝の上から見下ろすと、犬はウロウロと木の周りを回っていた。全く諦める様子がない。私の何がそんなにあいつの気に障ったのだろう。だが、威嚇する唸り声などは上げていない。

 犬は、辺りの様子を窺ったようだった。そして、おもむろに伏せる。目を閉じる。

 次に起きたことを、私は信じられなかった。

 びくんと犬の身体が震え、クリーム色の毛が吸い込まれるように失われ、尻尾と耳が縮み、手足が伸びていった。僅かな時間で、そこにはうずくまった裸の人間が現れていた。もうこの時点で目の前の現象を信じられなかったので、次に見たもののことは私の小型な脳を焼き切った。

 肌の白いその人間は華奢な少女で、黒く真っ直ぐな髪をしていて、木の上の私を見上げた顔は、山辺千尋だった。

「優奈ちゃん!」

 彼女は、紛れもなく千尋の声で、その名を呼んだ。二度とその名が私に向けられることはないはずだった。二度とその声が私に向けられることはないはずだった。

 千尋は必死すぎて今にも泣き出しそうな、懇願の表情を浮かべて私に語りかけた。

「ねえ、お願い……逃げないで。そのままでいいから、私の話を聞いて。お願い、優奈ちゃん」

 何が起きているのか理解できなかった。これは本当に起きていることか? この少女は私の知る千尋なのか?

 千尋だとしたら、今すぐ木から飛び降りて、全力で走って逃げてしまうべきなんじゃないかと思った。だが、そんなこと、できるわけがなかった。砂漠に置き去りにされた者が唇に落とされた水滴を飲まずにはいられないように、私は私に語りかける千尋から逃げることなどできなかった。

「私ね、ずっと探してたんだよ、優奈ちゃんは絶対にいなくなってないと思って、それで探してて、どうしても会いたくて、会うためなら何でもするって思って、そしたら、私も変身できるようになって」

 まとまりのない彼女の言葉が私の脳の表面を滑っていく。表情を見、声を聞き、私は彼女が確かに千尋だと思い始めていた。そう認めると、気になってしかたのないことがあった。千尋は、こんな場所で裸じゃないか。

 私は木から飛び降りた。小走りで、けれど彼女がついてこれる速度で歩きだす。

「待って!」

 千尋が慌てて追ってくる。私はそのまま、公園の中で一番人目につきにくい植え込みの陰まで向かい、足を止めた。この時間にこの場所なら、まず人間の目は届かない。

 それほど早く歩いたつもりはなかったが、興奮のためだろう、追いついた千尋は息を乱していた。私は千尋に正面を向け座った。自分の身体が震えていた。目の前にいるのは千尋だと信じたが、千尋が目の前にいるとまだ信じられなかった。私は猫として生きるために、人間として期待できる全てを諦める努力をしてきたし、成功しつつあった。今更人間扱いされることを受け入れるのは難しい。だが、千尋はそんな私の混乱した内面など分かるはずもなかった。

「優奈ちゃん……!」

 千尋は土で汚れることも構わず膝をつくと、胸に私をかき抱いた。柔らかな双丘に押し付けられる。千尋の匂いがして、打ち捨てたはずの記憶が蘇ってしまった。

「会いたかった……会いたかったよ!」

 千尋は泣いていた。ぼろぼろと泣きながら私を抱きしめ続けた。私も、ついに、千尋の身体にしがみついてしまった。名前のないメス猫から、木野原優奈だった猫に戻ってしまった。千尋に悲しい顔をさせたくなかったはずがこんなに泣かせてしまって、心がとても痛かった。せめて、千尋、と言いたくって、けれどにゃあお、と鳴くしかなくって、それが辛かった。

 身体を震わせ泣き続けた千尋は、それでもゆっくりと涙をおさめた。だが私がどこかにいなくなってしまうのを恐れるように、離そうとはしなかった。私を膝の上に置き、背中に手を置く。

「ねえ、優奈ちゃん……もう……人に戻れなくなったの? それとも、前から家出しようと思ってたの?」

 ヒリヒリとした口調でそんな風に聞かれても私はどっちとか言う術がなくて、そうでなくても答えられそうになくて、うなだれていた。千尋は少し黙った後、ぐ、と私の小さな頭を持ち上げて彼女に視線を合わせさせた。

「……合ってたら頷いて。優奈ちゃん、ただ、家出したかっただけで、まだ戻れる?」

 先にそれを聞いたのは、そうであってと千尋が願っていたからかもしれない。しかし、彼女の望む答えを返すことはできない。彼女だってそれを半ば知っているんだろう。

 私は、嘘をつき頷くことはできず、しかしはっきりと否定することもできず、彼女の目を見つめていた。千尋の深い瞳の奥で激しく何かが揺れているのが、猫の目にはよく分かった。そのまましばらく二人とも何も言わなかったが、彼女の真摯な瞳に、私は、小さく、気付かれなければいいのにと思うくらい小さく、首を横に振った。彼女は、僅かに吐息を漏らし、けれどそれ以上の動揺は見せなかった。

「じゃあ。もう……戻れない、の?」

 発せられた疑問はまっすぐに飛んで、至近距離にあった私の心臓を貫通した。分かってたこと、覚悟してたこと。私の心を一杯にして、けれど少しだけ小さくなりつつあって、このまま飲み込んでいけると思っていた苦しみ。でも、誰かに、千尋に確認されると、それは再び爆発的に膨らんで、もう一杯なはずの心を内側から食い破りそうになった。

 息苦しくて口を開いたのは、彼女の私を掴む手の力が強まったせいだけではない。誰にも言わないようにしようと思っていたのに。彼女には、絶対に伝えちゃいけなかったのに。なのに私の身体は千尋に支えられていて、私の心はパンパンで、逃げることができなかった。私は、ほとんど風に揺れたみたいに、頷いた。

「…………っ」

 千尋は私の肩を掴んで身体を持ち上げた。唇を噛んですうっと顔を倒してきて、このまま倒れこんでしまうのかと思ったら、私の狭い額に滑らかな額をくっつけて止まった。彼女はいつの間にか目を閉じていて、感情が読めない。人間だった頃に、私が熱っぽいと言うとこんな風に額を当てられたことを思い出して、もっと苦しくなった。

「……馬鹿」

 小さく呟かれる。掠れていたが、猫の耳は聞き落とさなかった。

「馬鹿だよ……優奈ちゃん、馬鹿……馬鹿!」

 何度か言われたことのある冗談での言葉ではない。本気の罵倒だった。

「何で!? 何で優奈ちゃんはずっとそうなの!? 何で自分が辛い目にあうのに私の世話を焼いてくれるの!? いじめられてるのを助けてくれた時も! 帽子取ってくれた時も! 風邪引いた時も! 私が何にも気付かないで猫になってって言った時も! それで、最後はこうなっちゃって! 何でなの!?」

 数センチの距離から発せられる叫び声は私の鼓膜を揺らして、それ以上に胸の奥を揺らした。何で、なんて。以前の私なら、少し戸惑って、でも堂々と答えたろう。からかわれてた時に声をかけたのはほんの軽い気持ちだし、帽子を取りに木に登ったのは格好つけたかったからだし、風邪の時にお見舞いに行ったのは暇だったからだし、猫になることを繰り返したのは千尋とそうやって遊ぶのが楽しかったからだって。それだけのことだって、答えられたはずだ。

 でも、今の私は、それらの答えが嘘ではないにしろ一番深い理由ではないと知っている。しかし猫の私はもうそれを口にすることはできない。元々そんな資格もない。だから、私は何も言わずに、何かに耐えるようにぎゅっと目を閉じている彼女を見つめていた。

「……私ね、本当にひどい奴なんだよ。優奈ちゃんに助けてもらう価値なんてない位にひどいんだ」

 不意に向けられた静かな言葉にわけが分からなくなる。何を言ってるんだろう。そんなわけないのに。彼女はいつだって優しかった。私は、千尋の一言一言が本当に嬉しかったのだから。

「優奈ちゃんが他の子と話せなくなっても、私だけを見てくれてるみたいで嬉しかった。大怪我したのに、私のための傷って思えて嬉しかった。風邪移しちゃっても、少し嬉しかった。私、それくらいひどい奴なの。でも、でもさあ」

 千尋の閉じた目から、またじわりと透明な液体が滲んだ。

「こんなのは、ちっとも、嬉しくないよ……嬉しく、ないよ……だって、私は」

 ゆっくりと瞼が開けられた。揺れるきらめきが星の瞬きのようで、溢れる涙が流星のようで、それらの背後にある瞳が宇宙のようで、とても綺麗だと感じた私は何かがおかしいのかもしれない。どこまでも綺麗だったけれど、そんなもの、見たくなかった。だが私はハンカチを持つ手もなくしていて、ただこの毛に包まれた前足を持ちあげて、決して爪を立てないように、そっと彼女の涙をすくった。肉球の間に彼女が染み込んだ。

 頬に触れた私の感触にだろうか、彼女は少しだけ柔らかい表情になって、私の目を覗きこんだ。揺らめく黒に吸いこまれそうになる。

「だって私、私ね、優奈ちゃんのこと」

 私の思考は一瞬止まった。嫌な予感がする。千尋は何かを言おうとしている。嗚咽混じりのそれは言ってはいけない言葉、聞いてはいけない言葉、許されない言葉、そんな気がする。待って、千尋、落ち着いて。

「昔から、凄く、凄く、」

 やめて、その先は言わないで、そんなこと、お願い、そんなこと言われたら、ねえ、我慢してたのに、一生懸命我慢してたのに、私なりのベストだったって、仕方なかったって思ってたのに、格好つけていたのに、私はもう、本当に、本当に。

 ――ほんとうに、こうかいして、しまう。

「……優奈ちゃんのこと、好きなんだから」

 何も考えられなくなって真っ白になったけれどそれは逆に溢れてくる想いが多すぎてそうなったのかもしれなかった。私と千尋だけが世界の中心になって、心の中心になって、グルグルと回って、回って、幾つもの思い出が飛び出て、幾つもの感情が飛び出て、胸の内側にぶつかって、音を立てて割れて弾けた。痛い、そう、これは、痛いよ。だって、そうでしょう。千尋が私を好きだったなんて。千尋も私を好きだったなんて。そんなことは、ありえないよ。それなら、私たちは、誰よりもしあわせになれたかもしれないのに。どこよりも温かい、何よりも甘い、いつまでも満たされた未来が、あったかもしれないのに。考えないようにしていた未来が、諦めていた未来が、あったかもしれないのに。なのに今の私は、泣いている千尋に同じ言葉を返すことすら、できないんだ。永遠に。

 もう、未来は、失われた。

 あは、と笑ったつもりで、変化した声帯からは、あぁ、と鳴き声が漏れた。

 そして私は、散々に鳴いた。喚いた。すきだよ、すきだよ、と今まで言わなかった分、考えることも我慢してた分、何度だって言おうとして、一度も言葉にならなかった。それが私の選択の結果だった。猫になったということだった。千尋は必死に鳴く私を膝の上に置き、真剣な表情で見つめていたが、何一つ伝わったわけはなかった。以前は猫の身体になることで千尋と近付ける気がしていたが、今の私と千尋の間には、どうしようもない断絶があった。

 私は鳴き疲れて、全身の力を抜き千尋の膝の上に伏せた。

 千尋が、私の背をそっと撫でた。

「優奈ちゃん。話が終わるまで、逃げないでくれる?」

 穏やかに問われ、私は頷いた。今更嘘をつく気は微塵もなかった。

「ずっと隠れてたのは、どうして? 探してたの知ってるでしょう?」

 どうしてって、それは。言葉は出なかったし、もし話せても口ごもったろう。こうして目の前にいられると、二人で泣いた後だと、私の意図はとても身勝手なものに思えた。

「隠れてれば、私が優奈ちゃんのこと、忘れると思った?」

 あくまで穏やかに、けれど逃げを許さない口調で聞かれた。首を縦か横にしか触れない私は、嘘をつくことがどうしてもできず、猫の表情筋でも伝わったかもしれないくらい情けない表情で頷いた。

「やっぱり、馬鹿だよ、優奈ちゃん。そんなことあるわけないじゃない」

 そうなのだろうか。そうのかもしれない。でも私は、千尋にとっての私がただの仲のいい友達だと思っていたから。忘れはしなくても、痛まない記憶になると思っていたから。

「私、絶対優奈ちゃんは近くにいるって思って。どうしても会いたくって、でも優奈ちゃん隠れてたから全然見つからないし。私も動物になれたら、犬になれたら、匂いで優奈ちゃん探せるのにって思ってたの。そうしたら、ある朝突然犬になれるようになってたんだ。きっと神様のおかげだと思う。一緒に遊んだおもちゃの匂いを覚えて、こうやって探してたんだ」

 千尋が犬になりたいと思う気持ちは、小学一年生の私が猫になりたいと思った時より絶対に強かっただろう。だから犬になれたのだろうか? 思いの強さで何とかなるなら、他にも変身できる人がいくらでもいるだろうに。この力の正体は相変わらず分からない。ただ思うのは、千尋が犬から人に戻れなくならなくてよかった、ということだった。

「優奈ちゃん、これから一緒に暮らそう?」

 微笑んだ千尋のその提案は、予想外のものではなかった。正直に言おう、野良猫としての暮らしの辛さにボロボロになった私は、千尋の家に行って飼ってもらうということを何度も考えた。その度に、千尋の側に私がいることで罪悪感で苦しめ続けることはできない、と打ち消してきた。けれど、こうして再会して、話をされて、もうその打ち消し理由はぐずぐずに崩れていた。

「お母さんも、私を助けてくれた猫なら喜んで飼う……あ、ごめん、暮らすって言ってるし。ご飯もちゃんと、人間のに近い味のを食べてもらうし。優奈ちゃんっては呼べないから新しい名前になるけど……。ね、そうしようよ」

 疲弊と孤独でおかしくなりかけていた私にとって、拒むことは不可能だった。拒む理由ももはやほとんどないと思われた。なによりもう私は、二度と千尋から離れられなかった。

「にゃあ」

 私はこくり、と頷いた。

「よかった……」

 千尋は笑った。涙の名残があったが、それでも笑った。まるで、これから何かいいことがあるかのように笑った。

「元に戻れる方法も、絶対見つけるから」

 その言葉に、小さな、本当に小さな、でも確かに希望が、私の胸に落ちた。だって千尋も変身できるようになったのだ。世界には他にも変身例があり、解決策があるかもしれない。きっと裏切られて辛くなるだけの希望だけれど、希望だった。

 私は千尋の膝の上で身体を起こし、ありがとう、という意味で鳴いた。これも、伝わりやしないけれど。

「……優奈ちゃん」

 不意に、千尋が雰囲気を違えて囁いた。涙とは違う意味で、湿度を感じた。恥ずかしそうな、でも少し嬉しそうな様子だった。

「私さ。さっき、優奈ちゃんのこと好きって言ったよ。意味、分かってるよね。友達として、じゃないよ。もちろん、恩人として、でもない」

 その言葉に、私の心は、またグチャグチャになった。嬉しさはある。でも、その千尋の想いは、私の想いは、もう今更どうしようもないのだという絶望感が強かった。引き裂かれそうな私を前に、千尋は続けた。

「……それで、さ。優奈ちゃんも、同じ、気持ちでいてくれる、んだよね? さっき、あんなに真剣に言ってくれたもん。絶対、そうだよね?」

 千尋の声は、弾んでいるとすら言ってよかった。そして、私は。

 私は、何だかもう、もっともっと、際限なくグチャグチャになって、マーブリングみたいで、でもそのマーブリングを構成する絵具の色は、さっきまでと変わっていた。千尋は聞き取ってくれた。分かってくれた。猫の鳴き声でしかない私の言葉を。絶対伝えられないはずだった、私からの「すき」を。それが、その喜びが、胸の中を満たしていた。千尋は人間で私は猫で、その問題は厳然とあるのに、一時的にまるでそれを忘れていた。奇跡が起きたと、真剣に思った。

「にゃお!」

 私は思い切り頷いた。そして千尋の裸の胸元に身体を擦りつけた。千尋はくすぐったいよ、と笑って、私の全身を撫で回した。どうしようもなく気持ち良かった。心も身体もとろけていくようだった。

「……本当は、もっと前にしたかったけど。今だって、遅くないと思うの。だから」

 千尋が私の身体を再び持ち上げて、彼女の顔の前に連れてきた。自然と、私たちは見つめあった。体勢的にも、雰囲気的にも、それが自然だと思った。たとえ一般常識では物凄く異常でも、正気の沙汰じゃなくても、そんなの知ったこっちゃなかった。千尋は恐ろしく魅力的に微笑んでいて、私は猫なりに真剣に千尋を見ていた。

「えっと、その。……多分、前だったら私が目を閉じたのかな、って思うんだけど。今、こうだから。優奈ちゃん、目、閉じてくれる?」

「なぁお」

 小さく鳴いて、私は目を閉じた。今まで何を待っていた時間よりも、胸がバクバクしていた。薄目を開けていたい気持ちがちょっとあったけれど我慢した。

 ゆっくりと、大きな何かが動く気配がして、そして、この、昔とは全く違ってしまった口に当てられた感触は、私が一人で想像していたものより、あの小屋で代わりとして覚えたものより、ずっとずっと柔らかくて温かくて、怖いくらいに甘かった。

 我慢できなくなって私は目を開けて、そうしたら千尋と目が合って、千尋は、深い深い瞳を、私が女だろうと猫だろうと受け入れてくれる深さの瞳を、キュッと笑みの形に曲げて、触れ合っている場所を更にグッと強く押し当てて、私は身体が熱くなって、そして、離された。

「……しちゃったね」

 蜜じみた言葉と共に、宙ぶらりんになっていた私は再び膝の上に降ろされた。全身が熱かった。体毛がなければどこもかしこも真っ赤になっているのが分かったろう。その上、今まで必死に意識しないようにしていたけれど、横座りしている千尋の膝の上にいると、千尋の、その、淡い茂みが間近に見えて、それもあって、ますます熱くなって、燃えるようで……いや、熱すぎる。おかしい。本当に、全身が痛いくらい熱くて、こんなの興奮による身体の火照りってレベルじゃなさそうな、おかしい、おかしい!

 そして、本当に奇跡が起きる。

 心臓が大きく震える。体中の血管が意識される。背伸びの感覚、限界を超える感覚、広がる、広がる、これは、こうなるのは。千尋が声を上げる。世界のスケールが変わる。夜の寒さが襲ってくる。

 そう。私は、ちょっと細身で、髪が短くて、手足に傷が幾つかある身体に、木野原優奈として十六年生きてきた身体に、戻っていたのだった。


   ★


 こっから先は後日談の後日談になってしまうが、ここまで来たらもう少しお付き合い願いたい。

 あの後私たちは千尋の家にこっそり入り、一晩寝た後、今後を話し合い、定番の記憶喪失ネタでいくことにした。

 千尋が買ってきた服を着て、私は自分の家へ向かった。大騒ぎなんてもんじゃなかった。色々と波紋はあったけれど、人間の私はびっくりするくらい皆に歓迎されて、まあ内心歓迎しない人もいたろうが彼らもそれを表に出さない優しさを持っていた。そして私は大体元通りの生活に戻って、とりあえず学校の勉強の遅れに悲鳴を上げた。

 これで後日談の後日談も終わらせたいけれど、それこそ説明責任があるだろうか。いやいや、ノロケる権利?

 私と千尋の話をしよう。

 私と千尋は、お互いを特別な相手だと認め合った。ううん、はっきり言おう。恋人同士になった。ただ、そのことはまだ誰にも話せていない。

 両想いなら幸せな未来があるに違いないとあの時は思ったが、実際の所不安は大きい。社会からどんな目で見られるかすら知らないし、家族へどう言えばいいかも分からないし、婚姻関係や子供が欲しくなったらどうすればいいかも分からない。分からないことだらけだ。

 けれど、それで千尋を諦めようとは少しも思わない。私が千尋を本当に好きで、千尋も私を本当に好きだって証明されたと信じているから。私が千尋のために人間を辞めたとか、千尋が猫になった私でも恋愛対象として見てくれたとか、そういうのに加えて、もう一個。

 私の変身があのタイミングで解けたのは、どう考えたっておとぎ話よろしく愛しあう相手からのキスを与えられたからで、それが何より愛の証明だ。木野原優奈に猫になる力が芽生えたのは、山辺千尋を助けるためだったんじゃなく、結ばれるためだったってわけで。これってロマンチックにすぎる考え方だろうか? それも許してほしい、だって私たちは、熱愛真っ最中の十六歳女子なのだから。

 当然、私はあれ以来猫に変身していない。千尋も犬に変身していない。十六年拠り所にしてきた特別性を今度こそ捨て去って、私はそれでも私でいられた。私が他にどこにもいない、この世界に自分しかいない私だってことは、千尋が保証してくれる。それで十分だった。

 千尋はずっとおとなしい子で、だから私は千尋を悲しませないようにしようって、格好いい所見せなきゃって思っていたけれど、本当は千尋の方が私をリードしてくれていたのだ。あの白く細い手で、ゆっくりゆっくり、私を引っ張ってくれる。私が傲慢さを隠す方法を学ぶ時だってそうだったし、千尋と同じ高校に入る時の勉強だって随分面倒を見てもらったし、他にも色々。

 色々って言ったら色々だよ。まあ、その、魔法を解いた時のあれだって、体格差とかの問題があったとはいえ、千尋の方からだったわけだし。実は人に戻ってからの初めてのそれもそうだったし。私ってもしかしてヘタレなんだろうか。以前の千尋はここまで肉体的な意味では積極的じゃなかったと思うので、多分千尋にも何か思う所があったのだろう。私はそれが決して嫌じゃない。

 にゃあお、にゃあお、猫の鳴き声がする。それはどこか遠くから聞こえるようだけれど、もしかしたら私の内側から聞こえているのかもしれない。でも私のすぐ傍から、内側のもっと内側からも、千尋の声が聞こえる。あの無限に深い瞳が私に向けられていて、私の内部にも存在するのを感じる。どうやらそれが木野原優奈という人間で、その証明で、それに私は、とっても満足しているのだ。

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[良い点] しっかり人同士のハッピーエンドで終わってくれた所 [気になる点] 千尋が犬に慣れたのが優奈を見つけたいって面以外にも意味があったりするのかしないのか [一言] 読了後すごくスッキリした作品…
[良い点] 月並みな感想ですが、なろうを読んでいてここまで真剣味を持って読んでしまった作品は初めてです。(最初の)後日談からの「どうなってしまうんだろう?」「ハッピーエンドでいてくれ」などの心の葛藤を…
[良い点] 感動しました。 軽い気持ちで読み始めるとどんどんとこの物語に惹き込まれて行きました。 途中の主人公の心情を読んで泣きました。主人公の覚悟や気持ちが伝わってきて泣きました。 最後のシーンでは…
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