第4章 間違える勇気
文化祭まで、あと一週間。
教室の空気が軽くざらついていた。
笑い声の間に、焦りの匂いが混ざる。
「間に合う」「間に合わない」その言葉の往復が、毎年この季節の定番だった。
理央のノートはびっしりと書き込みで埋まっていた。
ページの端には「要練習」「再確認」「修正案」——赤い文字が多すぎる。
几帳面な文字が、努力というより恐怖に近い密度で並んでいる。
「理央、ちょっと休んだら?」
湊の声は、紙の上を滑っただけで止まる。
彼女は笑って首を横に振った。
「大丈夫。もうちょっとで“ちゃんと”できるから」
その言葉の“ちゃんと”に、湊は小さく息を吐いた。
“ちゃんと”が呪いだと分かっていても、使わずにはいられない。
それを捨てた瞬間、今までの努力が崩れる気がするのだろう。
リハーサル当日。
照明が少し暗い体育館の舞台。
理央はセリフの途中で止まった。
言葉を探して口を開けたまま、何も出てこない。
観客席にいた生徒たちの間から、ざわめきが漏れる。
ほんの二秒。
けれどその沈黙は、彼女にとって永遠に近かった。
湊は、台本を持ったまま彼女を見ていた。
“助けてあげなきゃ”と思わなかった。
“見ている”ことが、今の彼にできる唯一の支えだったからだ。
沈黙のまま、理央が顔を上げた。
視線が合う。
その瞬間、彼女は笑った。
完璧ではない笑顔。
けれどそれは、確かに自分の意思で作った笑顔だった。
終わったあと、舞台袖で理央が小さく言った。
「止まっちゃった。……でも、なんか、ちょっと気持ちよかった」
「気持ちよかった?」
「うん。間違えても、生きてる感じした」
湊は、彼女の手に残る微かな震えを見た。
それは、恐怖の残滓ではなく、勇気の余韻だった。




