第2章 沈黙の練習
二回目の稽古は、体育館裏の風の通り道だった。
ボールの音、金網が震える小さな金属音、遠くの笑い声。
音の背景が豊かだと、沈黙はやさしくなる。
「今日は“話さない練習”をしたい」
理央は言った。
“したい”と願望形で来る時、断ってほしい可能性が少し含まれる。
彼女の声の端に、その1ミリのためらいが貼りついていた。
「五分。台本を開いたまま、目を合わせない。気まずくなったら深呼吸だけする」
「……分かった」
合図もなく、時間が落ちた。
最初の十秒は、十秒として認識できる。
次の十秒は、八秒にも十二秒にも感じられる。
沈黙は弾性体だ。押せば沈み、離せば戻る。戻らないときもある。
三十秒ほどで、彼女の紙をめくる音が一度だけ鳴った。
湊は、自分の指が余計な動きをしないように、意識して何もしない。
何もしないことを選ぶには、少しだけ力がいる。
一分を越えた頃、湊は気づく。
理央の呼吸は浅くない。沈黙に置いていかれていない。
「逃げるための沈黙」ではなく、「共有するための沈黙」を、彼女は初めから選んだのだ。
五分の終わりは、理央の小さな「ふー」で分かった。
湊も息を吐いた。吐く音は、たいてい同時になる。無意識の歩調合わせ。
「これ、いいね」
「……何が」
「話してないのに、“一緒にいる”ってわかる」
一緒にいる、という言葉は、位置の問題ではない。
知られても平気な領域を、相手のために空けておけるかどうか。
湊は頷く代わりに、台本の角を軽く整えた。返事にできる行動は、言葉より誤差が少ない。
彼女は続ける。
「私、緊張すると、空白を埋めたくなる。正解で埋めようとしちゃう。
でも今、空白が空白のままで悪くないって、ちょっと思えた」
“正解”。
湊の頭に、過去の先生や親や周囲の声が一瞬だけ通り過ぎる。
正解を並べると、人は安心する。並べた人も、見る人も。
ただ、そのとき端に弾かれているものの名前を、ほとんど誰も言わない。
「秋月くんは、怖くない?」
「何が」
「正解がないこと」
「……怖い。けど、怖いって言えるほうが、まだ楽」
理央は「うん」とだけ言った。
うん、は便利だ。理解でも同意でもない安全な返事。
それでも、今のうんは、理解に少し寄っていた。声の温度がそう言う。
帰り際、彼女がぽつりと言う。
「ありがとう。今日、空白のままにしてくれて」
“してくれて”。
行為に名前が付いた瞬間、湊は初めて、それを自分の行動だと受け取れた。




