02.決心
彼はある意味で恵まれなかったのだ。
だがそれはよくある事でもある。それが彼に起こっただけであってな。
小さい頃は両親に恵まれていると思っていた。父親は仕事であまり家に戻っては来なかったが、母親は俺によく菓子を買い与え、その時流行の玩具もすぐに買い与えてくれたからだ。だがよくよく思い起こしてみれば、それは俺への愛情と言うよりかはただ面倒を起こさないよう大人しくさせていたのだろうと思う。そうでなければ普段からスマートフォンではなく俺を見てくれていた筈だから。
そんな事を思いながらまるでずっしりと重しをぶら下げたかのように重い手で家の玄関のドアノブを捻り開けると、そこにはいつもの風景が広がっていた。足元に広がる玄関と、目の前に見える二階へと続く階段。
だが妙に静かだ。いつもであれば賑やか程では無いものの、テレビの音などの生活音が聞こえるはずなのに。だが俺から見て向かって右側の扉の向こう側から光が漏れているのを見るに、両親は起きては居るんだろう。しかしどうしてだか玄関は真っ暗になっており俺の影すらも床に伸びない。
まぁ、それでも帰りが遅いと母親にヒステリックに怒られるよりかはマシだ。そう思ってしまう俺は相当キてるんだろう。
どこか不気味で薄気味悪い廊下を足音立てないようにと静かに歩いて、光の漏れている扉を開けようと手を伸ばした、そんな時だ。ヒソヒソと確かに声が聞こえたのだった。
「だからって私に押し付けるの?」
「君の方があの子と長く接してきただろ。きっとそっちの方が良いはずだ」
「冗談じゃないわ。私だって仕事があるのよ?」
「俺だって仕事があるんだぞ。それに男手ひとつで子供を育てていけると思うか?」
「もう少ししたらあの子も高校を卒業するわ。そうしたら世間体関係なく一人暮らしを出来るから...」
「だからそれまでどうするんだって言ってるんだ!」
少し怒鳴るような父親の声に、神経質そうな母親の声。そんな二人がヒソヒソと話している話の内容に、子供である俺でも何となく分かってしまった。きっとあの二人は近いうちに離婚をして、その際に俺をどちらが連れていくのか悩んでいるんだろう。確かに子供を養うのは金が掛かるし、気力もいる。
話の内容的に部屋に入るにも入れず、俺はただただ床をジッと見つめた。
あんな親ではあったが、それでも親に見捨てられる悲しさと親から離れられる嬉しさに、頭がすぅっと冷える感覚がする。それなのに心はまるで色紙にインクを零したかのように何かで染まっていくような気がした。
このままあの二人の元にいて良いんだろうか。どの道近いうちにどちらかの方へついて行くのだろうが、それで果たして俺は良いのか。
そう考えた時に、それは無理だと真っ先に思ってしまった。今俺は高校二年生で、親元にいるのが卒業するまでだとしてもまだ一年ある。その一年をこの親と一緒にいると考えたら頭が可笑しくなりそうだったのだ。
そもそもなんで俺がこんな思いをしなければいけないのか。俺を産んだのはそっちだというのに。
込み上げる激情に拳をキツく握り締めて、ギリギリと奥歯を噛み締める音がする。一気に頭に熱が上がった俺はその場で通学鞄からスマートフォンと財布を取り出すと、鞄を放って静かに二階へ上がり自室へと入った。
とりあえず数日分の食料があれば暫くの間は問題ないだろうか。夜の勉強のお供にと夜食用に保管してあった菓子や栄養調整食品のチョコレートバーを普段使いのリュックをクローゼットから引っ張り出すと詰めていく。それから必要なものとしては懐中電灯と、夜冷えるといけないので防寒着があればいいか。だがよくよく考えると懐中電灯なんて部屋にはなかった。仕方ないので明かりはスマートフォンで代用するとし、上着を食料と同様にリュックに詰め込んで持ち物はこれでいいだろう。一応学生服だと警察に補導されるといけないので、普段着に着替えたら準備は整った。
緊張の為か少し震える手でリュックを手に取り背負う。思ったより軽いリュックにバクバクと煩い心臓は深く深呼吸をして無理矢理沈めると、俺は一世一代の決心をして部屋を出た。
さて、階段を降りるとリビングはまだ明るい。そして相変わらずリビングからはヒソヒソと話し合う声が聞こえていた。という事は俺が帰ってきた事にも気がついていないのだろう。それは好都合だとそのままそろりそろりと廊下を歩くと、玄関を開けてついに家を出てやった。
「くそったれ。家出してやる」
今の俺は強気に出て失敗したような情けない顔をしているだろう。少しも後ろ髪引かれる所が無いのかと言えば嘘になるが、それでも俺は決めたのだ。家出をしてあの人達とも縁を切ると。
あんなに家に帰るまでの重かった足が嘘のように軽い俺は意気揚々と、とりあえず今夜寝る為の公園へと向かった。
あの公園であれば家からもそう近くなく、寝やすそうようなベンチがいくつもある。
そう思っていた俺が馬鹿だったのだ。
目的通り公園についた俺は夜故に人気がない遊具や砂場を見渡して、比較的綺麗なベンチに座り込む。
今夜はここで寝るとしよう。
リュックから上着を取り出すとそれを枕代わりにベンチへ畳み置いて、俺は初めての野宿でドキドキしつつも横になった。そう、横になったはずだったのだ。
それだと言うのに俺はまた夢を見ているのか。
そこはいつも夢で見る駅で、相変わらず俺はベンチに座っていた。
こうなると自分の意思では動く事が出来ないので俺はどうしたものかとふと伏せていた顔を上げて向かいのホームを見た。だがそれがいけなかったのか奇妙な人影を見つけてしまった。肩口からいくつもの腕が伸びた人影を。
そうだった、前の夢でアレを見つけてそこで終わったんだった。
まだその場面が続いていたのかとその事実に顔が引き攣り、ヒヤリとしたものを感じる。これは不味い。どうにかして逃げなければ。
そう思いはするのに、相変わらず動けと思っても体は動かなくてじわりと汗が背中に広がった。そのくせ人影は俺に近付いてくるのだ。
向かいのホームを降りてこちらへ近寄る姿に呼吸と動悸が荒くなる。
不味い不味い不味い不味い!!どうにかしてここから逃げなければ!
何か逃げるための策は無いのかと頭を振って右を見るも、そちらには何も無い。左はどうなのかと俺は視線を移した。
「あ」
それが仇になったのだろう。
ひやりとした感覚が右腕に広がって、俺の顔に黒い影がかかる。
何故か。恐る恐る視線を右手にやると、そこにはしっかりと肌色をした手が俺の手首を掴んでいた。
誰が掴んでいるのか。恐怖で泣き出しそうなところを我慢しながら更に視線を上にやると、そこには黄金色の瞳が2つあった。それはまるで捕食者のように爛々と輝く。
あぁ、捕まった。
さて、何者だろうな。
何であれ、捕まってしまった彼が可愛そうではあるが。