桃太郎とシンデレラ
なろうが平坦であると言うのは間違ってる。これがなろう理解が進まないもので、なろうの中にいる人も自分がなにを楽しんでるのか?客観的に説明できないのがなろうが外で理解されない一番の原因だと思う。そこで今回出すのは桃太郎とシンデレラになる。以前から古典的なカタルシスを軸にした物語は女性の方が楽しむのが上手いと書いてきた。
それがすでに原初である桃太郎とシンデレラに現れている。山場を作るために安直な手法として、下げて谷を造れば良いって手法が王道になっている。これになれた人間は谷があってこそ山を認識できる。平地から山に上がっていくのを山場だともう認識できなくなってしまっている。これがなろうの誤解の元だと思う。
どうしても説明する人は、2つで説明してしまう。クライマックスを迎える本当は違うけど、ネットで広がっているカタルシスを得るとして使われる。それを私はカタルシス型、クライマックス型と呼ぶ。そしてこれに対して、山なし、意味無し、落ち無しといわれる、所謂やおいを、やおい型とする。今ではこっちはBLの意味になってしまってるが、今回は2次創作の特徴として使わせてもらう。
だから2次創作的であるなろうはやおい型だと思われがちになる。だが以前も書いたが桃太郎を面白いと認識できないから、面白さがあると思ってない。この原因が、桃太郎は谷が無い。ここに原因がある。なろうファンタジーは桃太郎型になりがちになる。シンデレラのように落として始まるって谷を必ずしも作らない。
実際は盾の勇者のような典型的な谷型主人公も居る。盾の勇者むしろくどいぐらいそれを強調してて、盾の勇者サゲが過度であるとさえ言える。ただ盾の勇者は異色だとは思う。根本的に違うリゼロは置いておく。魔法科はこれとは違う。作品世界の常識がおかしいって話しになる。盾の勇者も似てるが、魔法科はこの点徹底してない。この辺り魔法科はラノベの公募に応募したせいだなと思わせる部分。最初から多分1巻持てば良いタイトル詐欺程度にしか捕らえて無いと思う。本当の意味の劣等性のなりあがりではない。
これはどう捕らえれば良いのか?で成長が早すぎるダン街。リアルな視点でこれは早すぎるよってベイビーステップって作品があるが、あれは、展開のテンポを良くするための漫画的嘘として面白いと思う。ダン街はそんなレベルじゃない…。初期の頃に一気に成長してとんでもないレベルにどんどんなっていく。これをもうそれ低レベルスタートが存在する意味ねーってぐらいやったのがデスマーチになる。
なろう作品はきちんと山がある。だが谷がイマイチ足りない。だから平坦に見える。多分これ桃太郎型とシンデレラ型として綺麗に分けて考える事が可能だと思う。以前から女性は悲劇の主人公に男性より共感して楽しみになりやすいと書いた。これがあるため、男性がどんどん排除した谷を大切に守り続けられる。
私が以前からなろうは新しいのではなくて、近代小説とは違う英雄伝説などの古典回帰だとずっと書いてきた。近代小説はどちらかと言えばシンデレラに近い。それゆえ桃太郎が常識外れに見えて新しく見えてしまってるだけだろう。
谷が無いけど山は有る。これを理解し無いとなろう作品を特別視しておかしなものだと思考から排除してしまうことになる。実際は違う。ごくごくシンプルなありふれたもので、多くの物語の中できちんと同一視して比較できるものになる。なろうの新しさは散々書いてきた。だがなろうは同時に1000年ぐらい遡って古臭くなった部分がある。物語に対してマニアックな人達が排除してきたシンプルな古典王道を復活させていると見ている。
だが深夜アニメは癒しを求めているから、理解されやすいのではないか?これはかなり難しい問題になる。なろうの中で文句批判を言ってる人は、大体このマニアックな物語マニアで片付く。だがなろうの外の深夜アニメの視聴者はどうなのか?それはサイレントマジョリティの問題も大きいと見ている。
ネットに溢れる投稿する視聴者は実は少数でその人たちが評価を歪めてるのじゃないか?って部分。まずネットで批判が多くてもマシな作品をあげていくと、けものフレンズ、今期のゆるキャンなどがもつ癒しとなる。根本はきらら的なキャラ萌え世界になる。ここにラブライブも含めて、ただだべってる女の子を眺めるけいおん型はもう古いとなった。
けいおんは音楽でしょ?違う。けいおんの音楽効果は高い。だが、それでもけいおんは、ガチバンドじゃなくて、ゆるバンドけいおん部、これが受けたから実際は今と真逆の流れになる。多くの人はゆるキャンもけいおんなどのダベリプラスアルファだと捕らえてるが、けいおんを料理した京アニのコンセプトが根本的に違う。
あれはそういった過去のガチバンド物語へのアンチテーゼ的な作品になる。けいおんよりはラブライブはガチアイドルの部分がある。けいおんが軽視した部分が今重視されつつある。それでもベースは同じキャラ萌え作品だという事。なろうにはこれがない。それゆえ癒されない。
異世界ファンタジーをどうやって料理すれば良いか?分からないが、きらら系の形にすればまだ受ける可能性(文字でやるのは不可能だと思うけど…)がある。古典的なエロゲスタイルのリゼロは古臭いがレムのキャラでキャラ萌え作品として成立している。だがあれはキララ系じゃない、その点あれは別系統のキャラ萌えになる。
じゃ前のエッセイで書いたキャラへの好意とは何か?オバロはアインズ様を楽しむ作品であって、異性キャラに対するキャラ萌えとは全く違う。古臭い例ならルパン三世などがこういったタイプの作品になるだろう。このすばもキャラが命だが、キャラ萌えはめぐみんを除いてかなり弱い。キャラって意味でカズマも多分含まれる。もっと広いファンのワンピースなど同性からのキャラ人気と同質の物だと見ている。
深夜アニメ視聴者は決して谷を求めてるわけじゃないが、軸と成る面白さがずれるため、なろうを正しく理解できて無いとなる。面白くないんだからそんな事どうでも良いだろ?。それが違うんだ。面白いと感じてるサイレントマジョリティも、こういった言及に影響を受けてしまう。何故なら自分でも言語化できないからだと見ている。
谷が無いから山を認識できなくて平坦に見える。これが真実のなろうの大半の作品の姿になる。なろうファンタジーは平坦な2次創作的なやおい型ではない。もの言わないサイレントマジョリティの傾向だけを捕らえて、ネットに溢れる言葉は基本多数派の総意だと思わないほうが良い。
なろうのレビューの少なさを知れば分かる。例え批判的評価文をありにしてもその点は変わらない。書いて発表する好意はつねに少数派のやる事なんだと知ったほうが良い。ただ視聴、読み続けてる、それだけが真実の答えだと思う。