季節めぐりて
春は咲き乱れる花に目を奪われ、夏は他のムジナの子ども達に心を癒された。秋にはありったけの栄養を体に蓄え、冬になれば地の底で眠りにつく。そしてまた春へ、と季節はめぐる。
私が冬眠を開始したあの冬から実に一年の月日が流れていた。
ここは異世界である。ドラゴンがいるのだ。他に未知の怪物がいるかもれないことは容易に想像できた。しかし、私が住処としているこの山一帯はドラゴンの縄張りだ。身を隠す術を持たない者は容赦なく捕食されてしまう。そこそこの時間を過ごしたが、どうやらこの山には私より体が大きい生き物は、ドラゴンしかいないようだった。ある意味、ドラゴンにさえ気を付ければ、安全であると言えた。
そのような理由で、リスクをおかさず何らかの事態の好転が無いかと待ちの姿勢で構えていた。そして特に変わったこともなく一年経ってしまった。
ムジナの寿命は何年くらいなのだろう。このままではあっという間に年老いて無為な獣生を過ごすことになるかもしれない。
私は現状を打破するために、ついに重い腰を上げることになる。この生まれ故郷の山を出ていくことを決めた。
さて、私は獣の身である。旅支度といっても荷物を持つ道具も器用な手も無い。心細いが、生まれたそのままの姿での旅立ちとなる。
出立の前日、私は久しぶりに馬頭の女神像の所へ行き、お供え物を捧げた。色とりどりの鮮やかな花とわずかな木の実。そして、薄くこびりついていた土埃を拭う。御利益があるのかはわからないが、安全祈願をした。
次はいつここに戻ってこれるのだろうな、とぼんやりと考えた。
次の日。いよいよ山から離れる時がきた。いつものように、夜になってから地上へ顔を出す。
どこへ向かうか迷ったが、とりあえず遠くに見える険しく高い山々とは真逆の方へ行ってみることにした。
ドラゴンの縄張りがどの程度の広さかわからないので、夜明けを迎える前にできるだけ距離を稼がなければならない。私は全力とはいかずとも、できるだけ速く走った。私はこの一年で随分逞しくなり、疲れ知らずの底なしの体力を得ていた。足も随分と速くなった。そう思うと、一年のインターバルを置いたのは正しかったのかもしれない。
ムジナの巣穴が張りめぐらされた範囲はとうに抜け、まったく馴染みのない場所へと突入していく。山を一つ越え、二つ越えた頃には随分と時間が経っていた。夜明けまでの猶予はあとどれくらいだろうか。心なしか空の色が変わってきている気がする。
私はラストスパートのため、全力疾走をした。
流れていく景色は段々と明るくなっていき、空は藍色から茜色へと変わっていく。とうとう小鳥がさえずり始めたが、私はスピードを落とすことなくずっと走り続けた。
気付けば、斜面はいつの間にか平地になっていた。ぐあぐあ、という聞いたことのない生き物の鳴き声が耳に入る。空を見上げれば、二対の翼を持つ巨大な鳥が悠然と羽ばたいていた。私より体の大きなドラゴンではない生き物がいる。そこから導き出される答え。
ドラゴンの縄張りから抜け出せたのだ。
私は足を止め、その場に座り込む。底なしの体力と言えど、さすがに飲まず食わずで走り続けるのは堪えた。しばしそのまま休憩し息を整える。日はすっかり昇りきり、昼過ぎになっていた。日の光を浴びることができない生活をしていたので、なんだか新鮮だった。とりあえず水場と何か食べられそうなものを探さなければ。
突然、そう遠くない場所で耳障なけたたましい悲鳴が上がる。驚きに飛び上がる。じっと身を動かさずそちらの様子を伺う。しばらくすると、漂う風とともに、もはや嗅ぎなれた血のにおい、そして微かに金属のにおいを感じた。
金属加工した道具を使う生き物――――それは即ち人間なのではないだろうか。
人間がすぐそこにいるかもしれない。そう思った瞬間、私は自分の身に危険があるかもしれないという考えが頭から吹っ飛んだ。一目でもいいから見たい。できれば声を聞いてみたい。
私は人間がいるであろう方へ向かった。なけなしの理性が働いていたのか、獲物に近寄る時のように静かに忍び寄った。
だんだんとにおいが強くなっていく。駆け出したい気持ちを必死に抑える。少しずつ歩み寄り、ついに茂みの隙間からその姿をとらえた。
こちらに背中を向けて、何かの生き物の死骸に刃物を入れている。美しく煌めく白銀の髪を持つ、この世界で初めて見る生きた人間だった。
激しい興奮と動揺に、体が強張る。前足で枝を踏み折り、ぺきりという音が響く。人間は素早くこちらに振り向いた。冷ややかなサファイアブルーの瞳にどきりとした。握られたその手は何故だか淡く発光しており、よく分からないが、直感的にすごくやばい、と思った。
逃げようと身をひるがえしたと同時に、突如起きた爆発に体が吹き飛ばされ、ごちんと頭に衝撃が走り、ぷつりと意識が途切れた。




