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捕食者

 奇妙な夢を見たあの日から、暇を見つけては例の馬頭の女神像の所へ足を運ぶようになった。初めて来たときと同じように、ささやかなお供え物を置いて、少しの間だけ拝む。

 何回か繰り返してみたものの、あの女神様は夢の中に現れなかった。お供え物は次に訪れた時には大抵無くなっていたが、おそらく他の生き物達が食べてしまっただけだろう。

 いまいちすっきりしないが、きっと本当にただの夢だったのだ。あれが現実だと認めたくないと心の奥底で思っていたのかもしれない。

 自身の日々の糧を十分に得るのはそう簡単なことでは無い。まだ地下トンネルの探索も終わっていない。自然と女神像の元へ行く頻度は減っていった。




 私が初めて地上に足を踏み入れたのは初夏の頃。だんだんと気温は高くなっていき、夏真っ盛りを経て今度は涼しさを見せはじめる。木々は色づき、枝からぶら下がっている実は日に日に熟していく。季節は秋になろうとしていた。


 私は早々に単独であちこちへと駆け回るようになったが、兄弟達は大体は母親にくっついて行動をしていた。ムジナ界では、私のような存在は素行不良にあたるのかもしれない。

 ただ、常に独りというわけでもなく、ちゃんと一緒に食べ物を探すこともあったし、寝る時は同じ寝床であった。

 しかし、秋の色が深まってきたこの頃、母親の態度がどことなくよそよそしくなってきたことに気付く。以前ほど私達の体を舐めなくなったし、後ろをついてくるのを待つことも無くなった。私達は立派に成長し、今は母親と比べても遜色ない体の大きさになっている。

 いよいよ独り立ちする時が来たのだ。

 名残惜しく思いつつも、母親と兄弟達の顔を一舐めし、別れを告げる。願わくば、皆日々を無事に過ごせますように。


 私はとりあえず、新居を見つくろうことにした。地下トンネルの探索は大雑把ながら端から端まで終わっており、頭の中に地図を描いてみる。水場、餌場の観点から見て候補はいくつかあったものの、結局あの馬頭の女神像がある建物のそばに居つくことにした。

 トンネルの圏内の中で、最も人間の痕跡が残っている場所だったからだ。夜しか出歩いていないこともあるのかもしれないが、人間の生活が営まれていた跡はあちこちにあるというのに、生きている人間は一回も見ていない。

 人間のような、健康で文化的な生活を営みたいなあと思いながら、私はトンネルを増設するために穴を掘りはじめた。そのうち、人間を探すために山を出てみようか。




 秋は、食欲の秋でもある。私も例外に漏れず、食べても食べても沸いてくる食欲を持て余していた。果物や花やキノコだけではどうも物足りない。もっとカロリーのありそうな物を食べたい。

 だがどうしても生々しいものを口にする気にはならず、とにかく量を食べるしかなかった。もうちょっとだけ食べ物を探そう、と地上の滞在時間は少しずつ延びていった。


 その日、果樹が密集している場所を見つけ、あちこちに落ちている熟した木の実を夢中でがっついていた。

 脇目も振らず木の実を貪っている間に、ムジナ達がいつも避けていた朝が来ようとしていた。

 空が藍色から暁の色に変わり、明るくなっていく。ガアガアと鳴くカラス達の存在により、私はやっと朝になっていたことに気付いた。

 生まれて初めて見る朝空の色合いに心が躍ったが、同時に落ち着かない気分になってくる。いつの間にか、周りで一緒に木の実を食べていた生き物達はいなくなっていた。もう巣穴へと帰らなければいけない。

 まだ食べ足りなかったが、ぐっと我慢をして、木の実を一つだけ咥え身をひるがえした。

 いかに巣穴があちこちあると言えど、いつでもすぐそばに出入り口があるわけではない。今私がいる場所は、丁度巣穴と巣穴の間の場所で、最寄の穴に行くには少し距離があった。


 斜面を登り降り、木の根を越え、安全な場所を目指す私の耳に、不穏な音が飛び込んできた。

 空の彼方から、何かの鳴き声が聞こえる。カラスではない。もっと低く長く、空気が震えるような。山々にぶつかり、反射し、あたりに轟く恐ろしい音。

 それは気のせいだと思いたかったのだが、確実に私のいる方へ向かってきていた。

 胸の鼓動は暴れまわり、けれど手足の先は冷えていく。息をするのに邪魔だ、と木の実は捨て去る。

 焦る私の気持ちに応えるかのように、手足は今世の中で最も良く動いていた。目の端に映る木々はとんでもない速さで流れていく。巣穴までもうすぐそこまで来ていた。


 突然、視界が暗くなる。反射的に振り向くと、目が合った。黄金色の眼光と。


 私は何も考える間も無いまま、横に飛びのいた。急な方向転換により、体はごろごろと転がった。私がいた場所には、黒い怪物が飛び込んできた。衝撃で地は揺れ、えぐり取られた土がはじけ飛ぶ。

 獲物が掴めなかったことが想定外だったのか、怪物は己の前足を見つめて不思議そうにしていた。

 捕食者が呑気に呆けているチャンスを逃す手はなく、私は鈍く痛む体に鞭を打って駆け出す。少しして、怪物は動き出した。巨体に任せ、周囲に生える木をものともせず追ってくる。

 ばきばきと木々が折れる音が背後からだんだんと近づいてくる。まずい、あちらの方が速い。すぐ後ろから腹の底まで響くような唸り声が聞こえる。


 間に合え、間に合え!


 必死の祈りが通じたのか、間一髪で巣穴に飛び込む。怪物の前足は私の尻尾の毛を数本だけ持っていき、空を切る。

 もっと奥まで逃げなければ。がりがりと穴を掘り返す音がする。

 疲労により、もはや痺れすら感じる四肢をさらに動かしていると、急に地上の方が静かになる。諦めたか、と思った次の瞬間、尻の方から猛烈に熱い空気が流れ込んで来て、飛び上がる。だが、それ以上怪物が何かしてくることはなかった。ようやく本当に諦めたようだ。

 ようやく訪れた安心に、体中の力が抜けその場にへたりこむ。


 私の手足は疲労のせいだけではなく、ふるふると震えていた。

 生まれて初めて出会った捕食者は、真っ黒な怪物だった。コウモリのような翼を背中に生やした、ぎらぎらとした金色の瞳を持つ、あいつは――――ドラゴンだ。


 どうやらここは、女神様の言う通り地球ではなかったらしい。

 私は途方に暮れた。




 地球上には存在しない頂点捕食者。漆黒のドラゴンに遭遇し、私はようやく認めざるを得なくなった。ここが地球などではなく、異世界であるのだと。


 異世界リムリール。人間だった時には聞いたことも無い珍妙な名前だ。

 何一つ知らぬ、馴染みのないこの場所で生きなければならぬのか、とため息をついた。

 薄々とこの世界に違和感を感じていたからか、段々とムジナとしての生活に慣れて受け入れつつあったのか。案外気は沈まなかった。

 目先の目標は、とにかく腹を満たすことである。腹が減っては戦ができぬのだ。

 女神様はいつでも見守っていると仰っていた。さて、強く生きようか。



 あの黒いドラゴンは、ふらりとやってきたわけではなく、元々この山一帯を縄張りとして棲みついていた個体だろう。己の縄張りを主張するかのような巨大な爪痕や、木々が倒れて焼け焦げた光景。今思えば、あれらはドラゴンが残したものだったのだ。

 そして、奴は恐らく昼行性。夜行性であるムジナとは、本来顔を合わせることはほとんど無いはず。

 記憶を掘り返しても、今までにあの恐ろしい鳴き声を聞いたり姿を見た覚えはまったく無い。

 日の出ている間しか徘徊していないのだろう。恐ろしい風貌に似合わず、かなり規則正しい生活をしているようだ。

 ならば、今まで通り日が落ちてから地上に出て、日が出る前に地下に潜る生活をすればよいだけのこと。


 ただ、私には季節が一巡りするほどの獣生経験はまだ無い。私が朝になるまで地上に出ていたのと同じように、何らかの不確定要素によってドラゴンの生活サイクルが変化するかもしれないことは、心に留めておきたい所である。

 とりあえず、昼と夜の生き物が入れ替わる時間帯、つまり夜の始まりと終わりには特に警戒することにする。


 しかし、方針が定まった一方、別の問題が発生してしまうこととなる。

 そもそも、私が朝まで地上を出歩いていたのは、秋になって増しに増した食欲のせいである。

 今までと同じように、果物や花やキノコを食べているだけでは、留まる所を知らない食欲には太刀打ちできなくなってきてしまった。まだまだ年若い私では、効率的に食べられる物を探すこともできない。朝になるまで地上にいることもできなくなってしまった。

 そうすると、自ずと手段は限られてくる。いよいよ覚悟を決める時が来たのかもしれない。




 黒いドラゴンに襲われた翌日。

 極度の疲労と緊張から解放されて気が抜けたのか、巣穴に帰るや否やすぐさま眠りにつき、十分な睡眠をとった私の頭はすっきりしていた。

 目が覚めた時にはまだ日が出ていたため、夜になるまでは色々なことを考えて時間を潰していた。

 完全に日が落ち切ってから、警戒を怠らずに地上へと這い出る。昨日の今日だというのに、不思議なくらい私の体は軽かった。深く息を吸い込むと、秋の夜のひんやりとした空気で肺が満たされる。何だかとても心地が良かったが、のんびりはしていられない。明けない夜は無い。やがて朝がやってきてしまう。

 すこぶる調子が良い体とは正反対に、これからやろうとしていることを思うと、気分はどうしても沈みがちになった。


 私が人間だった頃は、肉なんてスーパーなどの食品を売っている店で簡単に手に入った。お金さえ払えば、生き物が肉になるまでの工程を自分で行う必要などなかった。誰かがそれらの工程をやっていてくれたからこそ、大半の人は経験することなく日々を生きていた。逆に言えば、肉を食べるには、どうしても命を奪うという行為が必要となってくる。

 まあ、つまり、私はやろうとしてることとは……そういうことである。

 屍肉という手もあるが、蛆が沸いている肉など食べられたものではない。私はどうしても新鮮な肉を手に入れたかった。




 私はやるぞ、と己を鼓舞し小さな生き物を探しまわる。優秀な鼻は、すぐに獲物の存在を感知した。風向きを確認し、風下の方へ周りこむ。

 興奮のせいなのか何なのか、やけに調子の良い体は物音をほとんどたてることなく進んでいく。

 そろりそろりと相手の方へと近づいていく。草葉の間から、二本の長い耳が突き出ているのが見える。ウサギだ。

 私の体ではやや手ごわいサイズかもしれない。だが、正真正銘の初めての狩りなのだ。ここで勢いに乗ってしまいたい。当たって砕けろの精神でやってみることにした。


 じわじわと少しずつ距離を詰めていく。気付かれるか、気付かれないかの境界。

 運良くウサギは草葉を食むことに夢中だったらしく、不意を突けばもう爪の先に引っ掛けることができそうな所まで来れた。

 あとは飛び掛かるだけだ。足に意識を集中させる。一度身を低く伏せ、そして――――跳躍した。



 がさりと草の揺れた音に、ウサギはこちらを振り向いた。だがもう遅い。私は鋭い鉤爪を振り上げる。ウサギの黒々とした瞳に私が移り込んでいるのがちらりと見えた。そこにはけだものがいた。


 あたり一帯に甲高い悲鳴が響き渡った。


 ウサギが私の下でもがいている。ウサギを捕えることに成功したものの、同時に命を絶つという行動には失敗してしまった。血濡れの哀れなウサギがこちらを見つめている。死への恐怖か、怪我の痛みか、目が血走っている。必死に逃げようともがき、私の体を後ろ足で弱弱しく蹴りつける。

 私は呻いた。しばらくの間そのままの格好で固まっていた。

 だが、もう後には引けない。この獲物を解放したとて、そう長くは生き延びられないだろう。

 ならば、一思いにと、口を開きその柔らかな首へと歯を立てる。

 ウサギは動かなくなった。




 この体の味覚が大層鈍くて良かったなあ、と心底思った日だった。

 境界を越えるのは案外あっけなかった。

 私はまた少しだけ、人間から獣に近づいてしまった気がした。




 紅く鮮やかに木を飾っていた葉は、やがて色褪せ地面へと落ちていく。虫達はどこかへと姿を消し、よりいっそう冷たくなった空気は、鼻の先をひりひりとさせた。

 この山にもいよいよ冬がやってくるのだ。

 あれから、もりもりと栄養を蓄えた体は丸々と肥えていた。人間だった頃ならば、痩せなければと思っていたかもしれないが、今は獣の体。来たる冬に備えた結果であるので、これが自然な体型なのだと言える。

 さて、寒さがますます厳しさを増してきた今日この頃、私は食欲に代わり、今度は睡眠欲を覚えることとなった。自然と、冬は眠って過ごすんだろうなあと考えた。

 どうやらムジナは冬眠するらしい。

 もう少しだけ地上の季節の移ろいを堪能していたかったが、そろそろ限界のようだった。

 私はその日、冬眠を決行することにした。一応ドラゴンを警戒して、かなり地下深い所を冬眠の場所として選んだ。

 枯草を敷き詰められた柔らかな寝床に体を横たえる。体の下側に大きな光る石がある場所を選んだので、ホットカーペットのようにあたたかく、寝心地は最高だった。

 そのまま静かに目を閉じる。ゆっくりといつもより深い眠りに落ちていく。

 春になるまでおやすみなさい、と半分眠っている頭の中で呟いた。




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