魔物の森
イヴシルと魔物の森の距離はそれほど遠くない。
そして、荷物は極わずかで体力も筋力も有り余っている。
私はそれほど時間をかけることなく、魔物の森の中へと足を踏み入れることができた。
城郭都市イヴシルの北側方面に設けられた門から、魔物の森へ真っ直ぐに伸びる街道がある。
魔物の森から城郭都市イヴシルへ向かった時は、街道沿いに歩いたのは森を出た後だ。だから知らなかったのだが、どうやらこの街道は森との境界で途切れることなく、随分と森の奥の方まで通っているようだった。
流石に森の中までは手入が行き届いていないのか、かろうじて街道だと分かるくらいのひどい有様だったが。
きっと、この道はウル・グエラ山脈まで続いていたのかもしれない。
私がアナグマの巣で生活していた頃に見かけた、朽ち果てた建物群。あれらは、三百年前に邪竜が飛来した時に放棄されたという、鉱山の街だったのだろう。
大昔は魔石の通り道だったこの道も、今はその役目を変え、冒険者の通り道に変化した。
私はこの異世界が刻んできた一つの歴史に思いを馳せ、そこに自分が立っていることが何だか不思議だった。
私は今回、宿泊道具を持って来ていない。
そもそも今日は腕試し目的だったため、最初から深入りせずに日帰りにしようと心に決めていた。
魔物の森は、街に近い場所ほど弱い魔物が、奥深くに入るほど強い魔物が生息してる。
大変わかりやすいので、とても助かる限りだ。
そういうわけで、今日の私は魔物の森のそう深くない所をうろうろする予定だ。
魔物は動物と違い、積極的に人間や霊命種に襲い掛かってくる習性がある。
こちらから探さずとも、堂々と森を歩いていれば向こうから寄ってくるだろう。
魔物の森は鬱蒼としていて、頭上にある木の枝が太陽光を遮るのでちょっぴり薄暗い。
周囲は木だらけで、歩いても歩いても似たりよったりの景色がずっと続いている。
が、このような場所を歩くのは慣れたものだ。
私は、アナグマ時代に鍛えられた方向感覚を頼りに今自分が森のどの程度奥にいるかは把握している。
ちなみに、この方向感覚は街においてはあまり発揮されない。何故だろう、解せぬ。
黙々と木々の合間を縫うように歩いていると、がさり、と近くの茂みが音を立てた。
私は慌てて片手剣を抜いて音のした方へ構えた。
茂みから這い出ていたのは、大きな鼠のような姿をした魔物だ。
しかし鼠だからと言って油断することなかれ。
鼠にしては大きな体に備わっている前歯は、突き刺されば人間の動脈まで達することもある。
当たり所が悪ければ致命傷となってしまうだろう。
大鼠は私の姿をその目で捕えると、体格差に物怖じもせずこちらへ突っ込んできた。
牽制も威嚇も何もなく、いきなりまっしぐらに突っ込んでくるとは思わず、一瞬虚を突かれる。
が、この体の優秀な動体視力は素早い大鼠の動きをも完全に捉えている。
私は走り寄る大鼠へ剣を突き出した。が、しかし。
「あれっ!?」
緊張に手元が狂ったのか、力加減を間違えたのか、私の手から剣はすっぽ抜けていった。
大鼠には掠りもしていない。
大鼠はまったく怯むことも無く私へと飛び掛かってきた。まずい。
もはやなりふり構っていられない、と防具の金属に覆われた脚部で大鼠を蹴りあげた。
「ギョベッ!」
渾身の蹴りをまともに喰らった大鼠は奇妙な悲鳴を上げて真上に吹っ飛んだ。
若干のタイムラグの後、私のやや前の地面にその体は打ちつけられ、無残な姿となった。
いくらアナグマ時代に狩りをして多少慣れているとはいえ、別にぐちゃぐちゃになった死体をすすんで見るような趣味は無い。
大鼠に触れた脚部には、べとりと血が着いてしまった。洗ったら取れるかなあ、と現実逃避をしてみたが、目の前の光景は変わるはずもない。
あまりにもスプラッターな様に私は引きつり笑いを浮かべるしかなかった。
ため息をついて、私は真正面の木の幹に深々と突き刺さっている剣を引き抜く。
剣身には相当な負荷がかかっただろうに、何とか折れなかったようだ。
安物の剣だったが、流石に一度も役目を果たすことなく折れてしまったらあまりにももったいない。
次は、仕留めた獲物を確認しなければならない。
ごくりと生唾を飲みこみ、私は剣を手に大鼠の死体に近づく。
しっかり息の根を止めたか確認するまでも無く、どう見てもそれは完全に死んでいた。
魔物の体内には魔石があるから、それを取り出さなければならない。
大鼠の毛皮は見た感じ素材として有用そうだから、できれば皮も剥ぎたい。
しかし、私には解体の経験は無い。
グレゴリーとローサが仕留めた魔物を解体している時は、何となくじっと見るのもはばかられて目を逸らしていた。
しっかりと見ておけば良かったと後悔するが今さらである。
恐る恐る片手剣を死体へと突き立ててみる。
柔らかな肉は問題無く切り裂けたが、剣身が長すぎてどうもやり辛い。
解体しなければならないことまで気が廻らず、解体ナイフを購入していなかったのも迂闊だった。
ぐいぐい、となんとなく皮を剥ぐように剣を滑らせる。
しかし、力任せでうまくいくはずもない。
無情にも剣はぐしゃぐしゃだった毛皮に穴を開け、更にその商品価値を下げてしまった。
これはもう仕方ない、と毛皮を剥ぐのは諦め、魔石を取り出すことだけに注力した。
概ねの魔物は、魔石は心臓のごく近くに生成されるらしい。
胸のあたりを切り開けば、小ぶりな石がころりと転がり出てきた。
その辺の草で血を拭ってみれば、ほんのりと光を放つ美しい姿を現した。
魔石を鞄から出した袋に突っ込むと、私の心は達成感で満たされた。
解体に使用したことで血濡れになった剣を、二度、三度振った後に残った汚れを拭うとさっさと鞘にしまう。
まったくの理想通りでは無かったが、初めての冒険者としての狩りは成功の結果を収めることができた。
少し慌てたりもしたが、大鼠相手にはまず遅れを取ることはなさそうだ。
しかし、折角購入してみた片手剣は私にとっては無用の長物だったかもしれない。
元日本人、現アナグマもどき、異世界で人間の姿で生活を始めたのはつい最近。
つまり、今まで一度も剣を握ったことがない私である。
力加減や振る方向を間違えて自身を傷つけるとも限らない。
今の私の力では冗談では済まされない事態になってしまう。
それなら付け焼刃の剣術なんかより、己の肉体を武器にして戦う方がよっぽどましだ。
幸い手足を武器とすることをまったく想定していなかったわけではない。
手足のみを覆う申し訳程度の防具は、実は防具としてではなく、何かを殴ったり蹴ったりすることを想定して購入した。
思い通りの動きができるし身軽だが、代わりに返り血がべっとりと着いてしまうので、できれば使いたくは無かったのだが。
と、大鼠の死体を前にのんびりとしていたら、がさがさと茂みを掻きわける音が再び耳に届く。
魔物だ。それも、一匹ではなく、複数の。
姿を現したのは、先ほどと同じ大鼠。
私は身を低く構えて、魔物の群れを迎え撃った。
今度は大して苦労することも無く、魔物の群れを殲滅することができた。
先ほどよりは損傷を気にして倒したので、素材としての商品価値も十分にあるだろう。
が、今回は解体に挑戦するのはやめた。
解体ナイフでもない片手剣では、全ての毛皮を駄目にするのが目に見えている。
そもそも、自分で解体をする必要は実は無い。
門の極近くに冒険者ギルド出張所があり、そこで魔物解体サービスを受けることができるのだ。
死体を街まで運ぶのが手間だったので自分で解体ができれば良かったが、無い物ねだりをしても仕方がないのである。
私は大鼠の尻尾をまとめて掴むと、街に帰るべく、踵を返した。
両手に大荷物をぶら下げて歩いていると、日本で両手にスーパー袋をぶら下げて歩いたことを思い出した。
今手に持っているのは、血も滴る新鮮な鼠の死体だが。
なんだか本当に遠いところまで来たんだなあ、と思い出と現実とのひどいギャップに一人苦笑いをした。




