人生? 獣生? 山あり谷あり
「そ、そんな……」
さらっと言ってくれたが、庶民ならば日常ではおよそ関わることのない巨額である。
普通に働いて、その生涯の賃金を全て捧げてもなお届かないかもしれない。
指先は震え、じとりと嫌な汗をかいているのに、体中のどこもかしこもが冷たくなってしまったような気がした。
「何故お前に杖の分だけ弁償の請求をするのか、詳しく説明するぞ」
シンは私の様子を気にかけた風でもなく、先ほどと同じような調子で喋り続けた。
「これは、俺の所有物だ。フォルティエの現当主から授かった。神官の杖ってことになるが、俺は神官は本業じゃない。祭事の時くらいにしか使わないから、普段は離れの宝物殿に飾ってある美術品だ。いや、その辺の事情はどうでも良かったな」
そこで切ると、シンは杖の砕けた部分を拾い上げて私に見せるように掲げた。
「問題点はここだ。杖の先端部には竜の角が使用されている」
「竜の角……?」
竜と聞いて思い出すのは、ウル・グエラ山脈に棲みついている邪竜だ。
まさか、あんな恐ろしい生き物の角が杖の素材となっていたとは。
「竜の角は、竜の魔素を操る力の源だと言われている。竜の唯一の弱点であり、貴重な素材部位だ」
地上のヒエラルキーの頂点に君臨して、どうやっても倒せ無さそうな竜にも弱点は存在していたのか。
「ただ、こいつは相当に固い。ちょっとやそっとの物理的衝撃じゃかすり傷すらつくはずがないんだ。特殊な加工器具でも使わん限りな」
「えっ……?」
素手で殴ったら普通に砕けたんですがそれは一体。
シンの言う話と、私の体験に大きな矛盾が生じ、私は混乱した。
「つまり、普通に杖と拳がかち合った所で、割れるのは拳の方になる。杖は絶対に砕けるわけが無い……はずなんだがな」
「一体どういうことなんでしょうか?」
「それは俺が知りたいくらいだ」
「す、すみません」
大してこの世界の知識が無い私にわかるはずもない。
理由もわからず、ありえない事象が起こったことが少し不気味だった。
「ま、そんなわけで間違いなくこの杖が砕けた原因はお前にある。だから、お前に3000万エルの弁償を請求する」
「ちょ、ちょっと待ってください。そもそも、杖で殴りかかった誘拐犯が悪いんじゃないでしょうか。私に全額求めるのは不条理だと思います」
私のせいで割れたにしても、大本の原因はやっぱり誘拐犯である。誘拐犯が杖で殴りかかってこなければ、私の拳と杖先がかち合うことなど無かったのだ。
が、シンはやれやれといった風にため息をついた。
「人攫いに手を染めるような間抜けに、そんな請求しても戻ってくるわけないだろう」
「そ、そんな理由で私が全額負担する羽目になるんですか!?」
シンの出した意味不明の理論に納得がいかず、私は食って掛かった。
誘拐犯に経済力が無さそうだから、こんなちんちくりんに3000万エルを請求するのもどうかと思うのだが。
シンは片眉を上げて、つらつらと私の罪状を述べた。
「屋敷に勝手に侵入、庭荒らし、建物の破壊、美術品の破壊……。お前を今すぐ騎士に突出してもいい所なんだが」
「うっ」
後ろめたく思っていた所をぐさりと突かれる。
「いやあ、霊命種登録証に犯罪者の烙印が押されることになっちまうよなあ。犯罪者を雇ってくれる奴なんているかな? ご家族もさぞ悲しむだろうな」
「うぐっ」
家族と言われて、私の家族ではないがローサとグレゴリーの顔が思い浮かんだ。
現在お世話になっている彼らにも、影響が無いとは言えないかもしれない。
今、彼らは私が大人しくしていると言ったからこそ、信じて遠征に出て行ったのだ。
それなのに、帰ってきたら犯罪を犯していた。
怒るだろうか、失望するだろうか、それとも悲しむだろうか。
シンは追撃の言葉を放った。
「杖の弁償を負担するなら、今日あったことは黙っておいてやる。借金についても、俺とお前だけの内々の話だ。公にはしない」
俯き、膝の上に置いた手を握りしめる。
「なあに、全部現金で返せとは言わない。たまに俺からの頼みごとを聞いてくれれば、大幅に減額してやるよ」
己の価値観で、話を受けるか受けないか、メリットとデメリットを天秤にかけてみる。
天秤は、片側にわずかに傾いた。
「……わかりました」
「お? 返事は決まったか?」
「やります」
「そうかそうか! いやあ、断られなくて良かった。期限は設けないし利子も無しだから気楽に返済していってくれ!」
「はあ」
これで私は借金まみれ確定である。
あまり賢い選択ではなかったかもしれない。
でも、ここでごねて世間的に犯罪者の烙印を押されるよりは、内々に高額の借金を返していく方がましだと思ったのだ。
それに、この国有数の有力一族に逆らうのも、あまり得策ではないかもしれない。
それにしても、3000万エル分の損失を受けたのは事実だろうに、シンの態度は一貫してなんだか軽い。
本物のお金持ちにとっての3000万エルと庶民にとっての3000万エルの重みは違うのだろうか。
何となく妙な感じがしたが、そこで応接間の扉をこんこんと叩く音がしたので、そちらに気をとられる。
シンは短く返事をした。
「入れ」
「失礼いたします。お茶をお持ちしました」
メイが盆の上に、非常に高価そうな茶器を乗せて入室して来た。
シンが杖の残骸を包みなおしてを机の脇に寄せてスペースを作ると、「ここに置いといてくれ」と言った。
メイは手早く、しかし危なげなく配膳を済ませた。
良い香りのするお茶に茶菓子もついており、緊張続きでくたびれていた私には輝いて見えた。
配膳が終わったメイに、シンは声をかけた。
「ご苦労。後は下がっていていいぞ」
メイは命令を受けると、やはりお辞儀をして退室して行った。
話はまとまったが、この後具体的にどうすればいいのかよく分からないので、私はおずおずと尋ねた。
「あのー、この後は何をするんですか?」
「茶でも飲んでゆっくりしてろ」
「はあ」
すすめられたので、とりあえずお茶に口をつけてみる。
暖かくて芳醇な香りの液体が喉を通り、ほっと一息つく。
何だかんだでこの世界のお茶を口にする機会が無かったので、ちょっと新鮮だ。
シンはお茶もそこそこに、ソファから立ち上がった。
「内々の話とは言え、一応契約書を作っておかないとな」
シンは応接室の脇にある棚をごそごそと漁ると、紙とペンを取り出した。
そして、机に戻ってきてさらさらと紙に文章を書きこんだ。
その間、私は茶菓子をぽりぽりと貪っていた。
甘くて美味しい。お茶とよく合う味付けだ。
シンは「おい」と文章を書きながら私に呼びかけた。
「霊命種登録証は今持ってるか? 持ってたらちょっと貸してくれ」
「ありますよ。はい、どうぞ」
と、今日貰ったばかりの霊命種登録証を手渡す。
それを受け取ったシンは、さっと目を通して確認すると、すぐに私に返した。
「よし、内々なんだしこんなもんでいいだろ。ここにお前の名前を書け」
シンは書き終えたらしい紙とペンを私に手渡した。
私は一応、契約書の類ならば隅々まで目を通さなければいけないな、と文章をじっくり読んだ。
内容としては、以下のようなことが書いてあった。
私がシングラル・フォルティエに3000万エルの支払をするということ、期限は無し、利息も無し。
内々の取引で、できるだけ公にしないこと。
特例として、シングラルの裁量によって減額することがあるということ。ここは、さきほどちらっと言っていた、【たまに俺からの頼みごとを聞いてくれれば、大幅に減額してやる】という部分のことだろうか。
この部分が気になり、サインをする前に質問してみることにした。
「ここに書いてある、裁量によって減額することがあるって、さっき言ってた頼みごとを聞いたら減額して貰えるって話のことですか?」
「それで合ってる。そこまで無理難題は言うつもりは無い」
「なるほど」
「一応言っておくが、俺に幼女趣味は無いから如何わしいことを頼むつもりも無い」
「そこ、わざわざ言う所なんですか……」
あえて口に出すのが、逆に怪しい気がしてくるのでやめて欲しい。
いやまあ、シンの社会的地位と顔の良さだと、あまり女の人に困ることも無さそうだが。あえて私に手を出す動機はあまり無いだろう。
そもそも別種族だし。霊命種同士でも、種族が違えば婚姻関係を結ぶことは無いんだとか。
「世の中にはとんでもない性癖を持った奴がいるしな」
「あんまり想像したくないですね……」
結論としては、体で支払え。性的な意味ではなく。ということだろうか。
シンの言うには無理難題を頼むつもりは無いとのことだし、今のボディは背の小ささはともかく、体力と筋力には自信がある。
肉体労働系なら大体は大丈夫かな、と結論付けた。
「じゃあ名前を書きますね」
「おう」
と、私はがりがりとこの世界の文字で【ムジナ】と書いた。
よく考えたらこの体で文字を書くのは初めてだったので、そこに書かれた文字は非常に歪だった。ペンが折れたり紙が破れなかっただけましかもしれない。
まるで幼稚園児が書いたかのような汚い文字に、見せるのが恥ずかしかったが、返さないわけにもいかないので無言で紙とペンをつき返した。
シンは「どれどれ」と紙を見た瞬間、「ブフッ」と噴き出した。失礼な男だ。
「よし、間違いないな。契約成立だ」
「はあ、よろしくお願いします……」
今この瞬間から、正式に私の借金生活がスタートした。




