夢うつつ ◆
ムジナは夜行性だ。
寝ては起き、穴から這い出て食べ物を探しまわる。朝日が山々の間から顔をのぞかせると、何かに怯えるかのようにそそくさと寝床へ戻り、夜になるまで惰眠をむさぼる。日が落ち切ってから、こそこそとまた地上に出て活動を開始する。大体そんな感じの、決まったサイクルで生活をしているみたいだ。
ムジナ達の巣穴は、大きな山の地中深くに、四方八方あちこちへ伸びている。トンネルの道中には柔らかく発光する石があちこちに点在しており、鉱脈のまっただ中に巣穴が通っているのかな、と思った。
近頃は乳離れも完全に済み、体つきも幾分かしっかりしてきた。
そこでトンネル探索に精を出していたら、坑道らしき場所にぶち当たっている場所を発見した。風化した木枠を見るに、放棄されて大分経つ廃坑らしい。せっかく人の痕跡を発見したのに、人の気配は全く無さそうなことにがっかりする。
呑気に坑道を観察していると、壁に残る巨大な爪痕を発見し、慌てて巣穴に飛び込む。巨大な熊か何かの住処だろうか。爪痕の大きさから生き物の大きさを想像し、鉢合わせていたらひとたまりも無かっただろうと確信する。
どうやらこの山にはとても大きくて恐ろしい生き物が棲んでいるらしい。
ムジナの巣穴の出入り口は、山全体を網羅するかのように、あちこちにある。一つ一つどこに繋がっているのか、顔を出して確認して覚えていった。大抵は木の根の間にあり、一見して分かり辛いような場所に作ってある。
しかし、中には地上の生き物が見つけて掘り返した、といった感じの歪な穴もあった。周囲の木々は倒れ、焼け焦げたような跡がある。火炎放射器とチェーンソーとスコップを持った人間でもうろついているか。木を切るのと穴を掘るのはわかるが、放火する意図がまったくわからない。山火事になったらどうしてくれる。恐ろしい。
人間がいたら遠くから観察をしようと決めていたが、それは危険かもしれないと少し思い直した。
ある穴から顔を出すと、そばに朽ちた小さな建物があった。これは大当たりかもれしない、と這い出て周囲を見渡すと、他にも建物がいくつかあるようだった。しかし長い間人の手が入ってなかったようで、ほとんどが倒壊しており、まともな建物は巣穴のそばにあったものぐらいしか無かった。
建物は石造りの神殿のような外観をしていた。もしかしてここは日本ではないのではかもしれない。私は落胆した。
しばらくは気分が落ち込み、建物の前に座り込んでぼうっとしていた。が、坑道にあった巨大な爪痕を思い出し、地上でのんびりはしてられない、と気を取り直す。さっさと探索を済ませて穴に戻ろう。
心の中でおじゃまします、と呟いて建物の中に足を踏み入れる。内部も風化がひどく、あちこちがボロボロであったが、なんとなく神聖な空気を感じた。奥の方には台座があり、その足元には何かの像が転がっていた。
馬頭の女の像だ。
像の目、頭にある短い角、それと首の装飾品の部分がきらきらと光っており、一瞬ぞっとしたが、それの正体にすぐさま思い当たる。
地下トンネルのあの光る石を使った像なのかもしれない。
像の素材には当たりをつけたが、肝心の像そのものについてはよくわからなかった。建物の雰囲気から、女神像だろうことは推測できた。しかし馬頭の女神の名前は一つも出てこなかった。私は神話や宗教に詳しいわけではなかった。一体どんな神様なんだろうか、とじろじろと観察をする。
山中の打ち捨てられた神殿で、台座から転げ落ちひっそりと横たわっている女神像。長い間人が立ち寄る事も無かったのだろう、表面には土埃がこびり付いている。なんだか哀れに思えてきた。
私は信心深いタイプではないが、気まぐれにこの女神像に何かしていってやろう、という気になった。
今の手足だと道具を使うこともできないので、汚れを取り去ってやることはできない。とりあえずお供え物でも置いてみるか、と私は食べ物を探しに一旦建物から出て行った。
思い立ったは良いものの、手足は地に着いているので、物を運ぶにも向かない。結局周辺にあった木の実と花を、わずかばかり咥えて運びこんだのだった。
馬頭の前に木の実と花を置いてみる。量も少ないし、像は転がってるしでいまいち締まらない。
像の目と、角と、首飾りの光っている部分を前足で触ってみる。しまった、土がついてしまった。前足を己の腹に擦りつけ、綺麗にしてからもう一回、二回、と拭い取る。像全体だとでかすぎて無理だが、光る部分だけぴかぴかになった。
最後に、像の前で目を瞑り、何とはなしに拝む。作法がよく分からなかったので、前足を合わせてみたり、お辞儀してみたり、思いつく限り色々なポーズをとってみた。
一通り試してみて、長居は無用とさっさと建物から飛び出て駆け出す。
久しぶりに人間らしいことをして、じわじわと嬉しさと興奮が沸きあがってきた。
うきうきと跳ねるように走り、巣穴に飛び込む。トンネルの中でも同じようにぴょんぴょんと走ろうとしたら頭をぶつけてしまった。
今日は良い夢が見れそうだ、と心の底から思った。
その日は気持ちよく眠りについた。
誰かの声が聞こえる。私は誰かに呼びかけられている。
応えなければいけないという使命感に駆られ、ぱちりと目を開く。
「―――――――」
目の前には馬の頭があった。いや、馬頭の女がいた。何か喋っているようだけども、何を言ってるのかまったく理解できない。何語だろう。馬頭の女が謎の言語を使い、何かを伝えようとしている。非常にシュールな光景である。
馬頭の女はハッと何かに気付いたような素振りをすると、私に手を伸ばしてきた。この女に害意は無いだろうと感じられたので、大人しく頭を撫でさすられる。頭に触れている手から、暖かな何かが伝わってくる。心も体もぽかぽかとして大層心地が良い。
馬頭の女は私の頭から手を離すと、また口を開いて喋りはじめた。
「ようこそ異界の子よ。我が名はパピリファル。豊穣を司る小獣神なり」
急に馬頭の女もとい、女神様の言葉が理解できるようになった。日本語に聞こえる、ではなく謎の言語がすっかり解るようになったのだ。女神様が目の前にいることと、急に知識が増えた謎に、訳が分からず目の前の女神様を凝視する。
「ああ、汝の魂の本質は人の子。なれば、この姿の方が馴染み深かろう」
そう言うと、女神様は光りだし、まぶしさに思わず目を瞑る。次に目を開いた時には、美しい女がそこにいた。
艶やかな黒髪からのぞく二本の短い角。耳は獣の頭の名残か、少し尖っている。深みのある茶色をした眼には、優しげな光を宿している。肌は不健康でない程度に白く、シミやそばかすとは無縁そうだった。
耳の後ろ側のあたりから左右一束ずつ、不思議な括り方をした髪が胸の脇へ。残った髪は背中の方へ流されている。
先ほどは馬頭のインパクトが凄すぎて意識が向かなかったが、胸元が空いた大胆な服装をしている。惜しげもなく晒されたそれを見て、豊穣とはそういった…と邪な思考が沸いてきて、振り払うように視線を下に向ける。
しかし、下半身のスカートには大胆なスリットが片側に入っており、太ももの付け根の方まで見えてしまっている。靴は履いておらず、爪の先まで美しい足がそのまま見えている。
随分色っぽい女神様だなあ。
体の後ろ側からは黒くてふさふさしたものが見え隠れしている。馬の尻尾だ。とんでもなく美しいけど、この女神様の本来の姿は馬なのだ。
じろじろと不躾に上から下までじっくり観察していた私を咎めることなく、一通り目を向けた私を見て、女神様はにこりと微笑んだ。
「此度は、獣の身でありながら、我が依り代を手厚く修繕せしこと、褒めてつかわす。ささやかながら我より加護を授けた」
神様のご加護。どんな内容かはわからないが、ありがたいことである。日頃の行いが良かったのかな。
段々と落ち着きを取り戻し、先ほどこの女神様はとても気になる事を言っていたことを思い出す。
確か、魂の本質が人の子だとか。女神様は何でも御見通しなのか。お願いすれば人間に戻れるのかもしれない、と考えた所で女神様がまた口を開く。
「されど、辺境の依り代に呼びかけありて、駆けつけてみれば愉快なこと。異界より呼び寄せられし魂が獣に入りたるのを見るのは我でさえはじめてなり」
異界とは一体何のことを言っているのか。そして女神様でさえはじめて見る事態であるらしい。
ええっと女神様、人間に戻して頂くのは無理なんでしょうか。そこを何とか。
私は必死に女神様のスカートの裾に前足をかける。ものすごく無礼者である。
女神様は困ったような表情を浮かべた。女神様は性格まで女神様らしい。女神様がいきなり般若のような顔になって「無礼者。汝は死すべし」などと言う事態にならなくて良かった。
興奮する私に、女神様は親切に説明をしてくださった。
「おそらく汝の魂の質と、この地の質が引き合って、たまたま起こりし現象と推測す。小獣神である我にはどうしようも無きこと」
なんと、この女神様にはどうにもできないらしい。少し期待しただけに、ショックは大きかった。女神様のスカートに引っかかっていた前足が力なく落ちる。
「これよりこの世界リムリールに生きていくことは困難な道であろうが、きっと我の加護が役に立つ。強く生きよ。我はいつでも汝のことを見守りたり」
満面の笑顔でそう言い切ると、女神様は段々と薄くなっていった。存在感が、とかではなく文字通りここから消え去ろうとしていた。
待ってください、リムリールって何ですか! 最後に気になる事を言ってさっさと立ち去ろうとしないでください! まだ他にも聞きたいことがあるんですよ、綺麗に締めた感出されても困るんです! ちょ、ちょっと!
半透明になった女神様に突進すると、私の視界は真っ白になった。体の自由が段々と効かなくなっていき、唐突にここが夢の世界であったことを思い出した。
がばりと飛び起きた私の目の前には、母親の寝顔があった。私はムジナの子どものままだ。
そうか、あれは夢だったのか。やけに意識がはっきりとした夢だった。記憶にも余すこと無くしっかりと残っている。馬頭の女神像一つであそこまで濃いキャラを頭の中でつくりあげてしまったのだろうか。己の想像力の豊かさに辟易した。
どこからか、くすくすと笑う上品な女の声が聞こえた気がした。