目覚め ◆
ふと気づけば、私はいつのまにか人間ではなくなっていた。
四肢を地面につけ、薄暗い穴倉の中にいる状況に絶望した。
私は何かの獣となってしまったらしい。
しばらくの間、めそめそと泣いていたが、さすがに空腹は無視できなかった。
気遣わしげに私を舐め続けていた母親……らしき獣に突進し、やけくそになって乳を飲みこんだ。
味はなんだかよくわからなかった。
泣いて腹が減っては乳を飲み、疲れてぐうぐう眠りというサイクルを繰り返していたが、いい加減諦めがついてきた。いかに状況が不条理であっても、泣いていても何も解決しない。
例えよくわからない獣の身であっても、生きることをやめるのは嫌だ。
私は消去法でけだもの生活をやってみることを緩く決意した。
私は、生まれてこの方ずっと穴倉の中にいる。体の下には枯れた葉や草が敷き詰められ、いかにも獣の巣穴といった感じ。
この獣の身には、兄弟が二匹いる。乳飲みへのやる気の差なのか、兄弟の中では私が最も体が小さい。
幼体である兄弟達の姿は、一言で表すと……なんとなくフェレットっぽい。
だが、母親の方を見るとまったくフェレットっぽい要素が無い。私がフェレットである可能性は除外された。
母親は、私たちより少し硬い、立派な被毛をむくむくと生やしている。ずんぐりとした大きな毛玉のような体からは、太く逞しい手足が伸びる。足先には大きくて恐ろしげな鉤爪が備わっている。
顔は面長。先っちょにはよく嗅ぎ分けられそうな大きな鼻がちょこんとくっついている。耳は丸くて顔の大きさと比べると小さめ。
暗くて何色かはわからないが、目の周りの毛の色は濃い。ついでに手足も靴下を履いてるかのように濃くなっている。尾は兎ほど短くはないが、控えめなサイズ。
私は最初、目の周りの黒々とした毛色を見た瞬間、タヌキかな? と判断をしたのだが、タヌキにしてはなんだか色々としっくり来ない。
しかしタヌキの他に思い浮かぶ名前が無い。手元に動物図鑑でもあればすぐにでも調べられたのだが、そんなものはこの土まみれの穴には無い。
穴の中で生活する生き物を脳内から必死に掘り返すと、とある言葉が脳裏をよぎる。
【同じ穴の狢】
ムジナの外見はよく覚えてないが、ちょうどこんな感じにずんぐりむっくりとした、タヌキに似た生き物だったような。
ことわざの意味を考えると、あまりいい言葉ではない気がするが、とりあえずの仮称としてこの奇妙な生き物達をムジナと呼ぶことにする。
どうして私はムジナになってしまったんだろう。ムジナになる直前の記憶がまったく無い。訳が解らない。
ムジナになる前の私は人間だった。日本で、日々をよく学び、よく遊び暮らす、ごくごく普通のどこにでもいる学生。変わった点といえば、体が少し虚弱だったことくらい。
……まさかぽっくりお亡くなりになって、輪廻転生的な何かによって生まれ変わったなどというオチなのか。動物に生まれ変わるのは、罪人に科される罰だったような気がする。あまりそうだとは考えたくない。これ以上考えるのはやめておこう。
それにしても、ずっと穴にいるせいで私が今どこにいるのかまったくわからない。
赤ん坊の私がのこのこと地上に出るのは自殺行為でしかないので、できることが無さすぎる。率直に言えば暇だ。
ムジナは成体になるまでどのくらいかかるんだろうか。はやく大きくなりたいなあ、とぼんやりと思った。
月日はいくらか経ち、暇が死因になりそうだな、という思考が出始めた頃。私は地上に初めて出ることとなった。
母親に引率され、兄弟と共に巣穴を登っていく。
分かれ道が多いし出口まで異様に遠い。いったいこの巣穴はどれくらい広いんだ。迷子になってしまいそうだ。ムジナの巣穴怖い。
トンネルのあちこちにはほのかに発光している透き通った石が露出していた。不思議なことに、温かさを感じられた気がした。何だろう、と記憶を漁っても、地質学にはもともと詳しくなかったのでよく分からない。
とりあえずとても好ましかったのでいつまでも見つめていたかった。が、先を歩く母親と兄弟達の存在を思い出して慌てて足を動かす。
母親、兄弟達に続いて最後に外に這い出た私の目に飛び込んできたのは、夜空に散りばめられた、きらきらと瞬く星々だった。視界の横の方には、半分くらい欠けた大きな月が見えた。淵が青みがかった奇妙な色合いをしている。
私のような獣は色覚が無かった気がするが、景色は色鮮やかに見える。何故だろう、不思議だ。
視線を空から地上に下ろすと、母親と兄弟達が巣穴からほど近い地面のにおいを嗅いでいる様子が目に入る。私も真似をして、鼻をひくつかせてよくにおいを嗅いでみる。
瑞々しい草、それと慣れ親しんだ土のにおい。そして、微かに私たちとは別の獣達のにおいを捉えた。においだけでは姿形はわからないが、ここには色んな生き物が住み着いているらしい。耳をすませば、夜鳴き鳥や、虫達の声も聞こえてくる。穏やかな夜だった。
母親がおもむろに鋭い爪で地面を掘り返したかと思えば、丸々と太った芋虫を咥えていた。そのままあっという間に呑み込んでしまった。
ぞっとした。大多数の日本人の一般的な感覚として、虫を口に入れるということは、ありえない、という認識だった。もしもムジナの主食は虫のみだったら、餓死も辞さない……かもしれない。
しかしそれは杞憂だったようで、あたりに生えていた背の低い草木の木の実も口にしているようだった。兄弟達も母親に習い、自ら餌を探している。私も鼻をひくつかせ、食べられそうな物を探してみることにした。もちろん虫以外の。
まずは近くにあった木の実を口に入れる。酸味が強い気がしたが、問題なく食べられる。母親が毟っているキノコを脇から少しだけ頂戴する。フカフカの食感だ。甘い匂いのする花を齧ってみる。多分これも食べても大丈夫そう。
手当たり次第に腹に入れてみた結果、どうもこの体は味覚が人間の時より鈍いのではないかと感じた。人間の時に口にしようものならえづくだろう代物も何とか食べられそうな気はする。今はまだ、食べ物を選りすぐろうとは思うけども。
そうしてうろうろしていたら奇妙な生き物を見つけた。何かあっちが明るいな、と釣られるように近寄っていけばそこには緑色に発光する謎の小動物がいた。
一体どういう原理で光を放っているんだろう。不用意にも近づけば、小動物はぎょっとして飛んで逃げて行ってしまった。私もぎょっとした。小動物は羽を持っていないのにふよふよと宙に浮いていたのだ。
何なんだあの生き物は。わけがわからない。私は深く考えることをやめた。
その日は、巣穴近辺を探索しただけで終わった。夜闇の中、元の寝床へと戻っていく。途中、他のムジナ達や、キツネを見かけた。巣穴に別種の生き物がいるにも関わらず、母親は特に気にする素振りが無かった。どうやらこの巣穴はムジナの群れによって作られており、ムジナではない生き物も居候しているらしい。
恐る恐るキツネの横を通り過ぎたが、向こうにはこちらを襲う気はまったく無いようだった。巣穴の主の子どもである私達に危害を加えれば、どうなるか心得ているのだろう。
長い長い地下トンネルを下り、いつもの寝床へとたどり着いた。これほどの距離を歩いたのは今世で生まれて初めてで、体は心地よい疲労感に包まれている。
ごろりと横になった母親に皆で寄り添い、ほどなくして眠りに落ちた。




