二話
Dと視線が噛み合ったきつねっぽいいきものは、無い手足の代わりに身体の半分以上もある大きなふさふさの尻尾を巧みに使い、Dの元へと近づいて行く。
円な漆黒の眼からは、なんの感情も読み取る事は出来ない。
「や、やだぁ。
こっち来ないでよう」
棍棒を持ち上げ牽制のつもりでぶんぶん振るうが、きつねっぽいいきものは臆した様子もなく尻尾を駆使して跳ねながら進んで行く。
とうとう目の前まで来てしまった。
「あっち行って!
あっち行ってったらぁ!」
めちゃくちゃに棍棒を振るいながらDは叫ぶ。
だが相手は前の迷宮で倒したおばけモグラより素早い怪物だ、当たる訳がない。
器用に尻尾を使い、ひょいひょいと機敏に棍棒を避ける。
Dから少し距離を取り、五歩程離れた壁際まで下がったと思った次の瞬間、きつねっぽいいきものは尻尾の跳躍を使い、弾丸のような速度でDへと体当たりを仕掛けた。
咄嗟の事に判断が追いつかず、Dは攻撃を真面に受け尻餅を付く。
Dが転んだ隙を逃さず、きつねっぽいいきものは勢いよく跳ね飛び第二撃を食らわせた。
今度も避けられず、Dは腹に重たい一撃を頂戴してしまう。
仰向けになって悶えるDへ、きつねっぽいいきものは止めとばかりに高く跳躍し、そのふさふさの尻尾をDの頭上へと振り下ろそうとしたーーその瞬間。
何処からか放たれた矢が、きつねっぽいいきものの背後に刺さった。
同時にきつねっぽいいきものの眼からは生気が失せ、そのままぽとりと地面へ倒れた。死んだのだ。
「こんな所でなにやってんだよD」
上体を起こし、呆然と地に伏したきつねっぽいいきものを眺めていたDは、声のした方へと顔を向けた。
何処か聞き覚えのある、まだ声変わりを迎えていないボーイソプラノ。
通路の向こう側から現れたのは、栗の毬ようにツンツンと立ち上がった短い黒檀の髪に、湖面のように澄んだ蒼い瞳。
そして左目の下にある、皮膚が裂けたような痛々しい傷跡が目を引く、斧を背負った全体的にがっしりとした体格のDの幼馴染の少年ーーA。
彼は不機嫌極まりない態度を隠そうともせず、弓を片手に仁王立ちしている。
ただでさえ強面でキツい目付きが更に尖ったものになっていた。
「無事だったんだA!
ねえおじさんやおばさんは?」
「おい!質問してるのは俺だよ!」
それになんだよその格好は、とAはDを指さす。
意味が分からず首を捻るDの態度に辟易したのか、もういいと脱力した。
「頭のこのお鍋?ちょうどいい防具がなかったから……
だって迷宮潜るんだから兜は必要でしょう?」
「迷宮?なんだそりゃ?」
「あ、そか。Aは知らないのか」
DはTに言われた事を一から話す事にした。
ただし一部に嘘を織り交ぜて。偶発的な事故で迷宮が発生した、と説明をした。
Dが闇の精霊王の封印を解いてしまった事は、Aには秘密にしておきたかったからだ。
Aは細かい事は気にしない性質なのか、鷹揚に頷いただけで追求はしなかった。
「ふーん。
所でさそのあ、闇?ってなんだっけ?」
「えーこないだ授業で習ったじゃない。闇は〈古き妖精の言葉〉で闇って意味だよ」
〈古き妖精の言葉〉とは人間がまだ存在してすらいなかった頃に、妖精だけの間で話されていた言語とされている。
曾てこの世界で初めに誕生した生命は妖精だった。
光が生まれ、海や陸が生まれ、草木が生まれ、妖精が生まれ、鳥や獣が生まれた。
そして最後に妖精の王たる精霊が生まれ、精霊達が力を合わせ人間を創ったのだ。
人間が創られたのは、精霊が生まれて何百年も経た頃とされている。
〈古き妖精の言葉〉とは、そんな遠い昔に妖精達が囁きあっていた言葉だった。
まだ人間が創られて間も無い頃は、人間も普通に〈妖精の言葉〉で話していたと言われている。
しかし、今は人間や妖精、精霊までもが〈古き妖精の言葉〉を忘れ、人間と同じ言語で話している。
それを悲しんだ大国ジュピターの言語学者はせめてこの言葉を忘れないようにと、教育課程の一貫としてこの言葉を習わせるようにしたのだ。
しかし今ではシアリーズでしかこの言葉を習わせていないようだった。
その理由として妖精郷と重なり存在しているシアリーズでは、自然の具現たる存在の妖精を身近に感じ取っているが、他の国ではそれが出来ない事が要因ではないかと言われている。
「あああかいろか。授業って歴史のか?
あーその時多分俺寝てたわ」
「もー駄目じゃん。
だから万年Dマイナスなんじゃない」
「別にいいだろ、あかいろで通じるんだからよー」
そして「あかいろ」とは、闇の妖精や闇の妖精と人間の間に生まれた〈魔法使い〉の蔑称である。
彼ら闇の妖精や〈魔法使い〉は、生来気性が荒い者や残虐な行いをする者が多く、人間や他の属性の妖精からは嫌われていた。
闇の〈魔法使い〉はその気性の荒さを表すように燃え盛るような赤系統の髪に、血のように赤々とした石榴石や紅尖晶石、赤瑪瑙のような色の瞳を持って産まれる事が多かった。
それ故に闇の妖精や〈魔法使い〉は「あかいろ」と呼ばれるようになったのである。
彼の大量殺戮を行った通称〈血色の薔薇〉と呼ばれる〈魔法使い〉も真紅の髪と瞳を持って生まれて来た。
それは彼女が闇の妖精の血を引く子だったからだ。
〈魔法使い〉がどの属性の妖精の血を引いているのかは、子である〈魔法使い〉の髪と瞳で判別出来る。
蒼であれば炎の、翠であれば土の子と分かる、そんな仕組みになっていた。
炎、土、水、風、雷、光の〈魔法使い〉ーー特にシアリーズでは土の血を引く〈魔法使い〉は喜ばれる。
国の守護神が大地の精霊王だからだ。
基本〈魔法使い〉はシアリーズの三つある内の種族なので、どの属性の〈魔法使い〉でも歓迎される。
只一つ、闇を除いて。邪悪な心を生まれつき備えてる者など、関わりたくないからだ。
〈血色の薔薇〉の処刑後は、その傾向が余計に強くなった。
闇の〈魔法使い〉は育ちきる前に間引いてしまえと、等言われるようになった。
その為か、ここ数十年シアリーズでは闇の〈魔法使い〉の姿を見かける事はなくなった。
「で、その闇の親玉を封印していたものが何らかの拍子に解除されたんだな。
それでシアリーズ全土に、迷宮が発生した、と。
全く迷惑な話だよなあ」
Aはぐるりと辺りを見回しながら言った。目の前には先程通ってきた通路がある。
遠くから聞こえてきたDーーその時は誰だか分からなかったがーーの悲鳴を聞きつけ、急ぎ足で渡った通路だった。
その横でDは黒いワンピースの汚れを払っていた。
きつねっぽいいきものに攻撃された箇所はまだジンジンと痛みが残っていた。
Aに見えないようにチラリとワンピースを捲り確認したが、青痣が数カ所出来ていたぐらいで、別段骨は折れてなさそうだった。
大きく深呼吸をしてみる、苦しくも何ともない。
これならまだ行けそうだとDは立ち上がった。
「あ、そうだ。お前身体大丈夫か?」
「大丈夫だよ。なんともないよ」
「さっきあの怪物にえらい目に合わされてたじゃねーか」
「平気だよ。師匠の拳骨の方が痛かったもん」
流石にTの拳骨よりは痛かったが、Dは強がりを張った。
そんなDの姿をチラリと見て、無茶はするなよとAは呟いた。
「そんな事より、あたしはこの迷宮に他の人が迷い込んでないか確かめなくちゃ行けないの。
迷宮はとっても危険な場所なんだから。
あたし三回潜ったから危ない事は知り尽くしてるし。
この迷宮には怪物だけじゃなくて、恐ろしい罠とかもあるんだから!」
この事態を引き起こしてしまったのはDなのだから、自分で解決するべきだとDは思っていた。
Aに真相ーー封印を解除してしまったのは事故などではなく、D自身だという事を言わなかったのは、馬鹿にされるのが嫌だったのではなく、嫌われるのが怖かったからだ。
怪物や罠は怖いが、Aや実の両親のように慕っているAの家族に、冷たい目で見られてしまう事の方がDには恐怖だった。
こうしている間にも、もしかしたら何も知らない人が迷宮迷い込んでしまっているかも知れない。
ならその人を助けに行かなくては。
「お前に出来んのか?無理だろ。 お前弱っちいんだし」
「む、無理じゃないもん!できるもん!」
「さっきボコボコにやられてたじゃねーか」
「あ、あれはこの迷宮で初めて見つけた怪物だったから……見慣れない奴だったから怖くて……
でっでも前の迷宮の怪物はやっつけれたんだから!それも沢山!」
「嘘くせー」
「嘘じゃないよ!本当だもん!」
Dの必死の弁解を、腹を抱えて笑いながらAは受け流す。
本気で信じていないようだった。
苦しそうに腹を捩るAを見ながら、Dはまるでハムスターのような膨れっ面を作る。
若干涙目になっていた。
「ひーひー……腹いてー……あの程度の怪物にやられる奴が、この先進めんのかよ」
「もういいもん!どうせ信じてくれないんでしょ!」
「信じられるかバーカ」
「馬鹿はそっちでしょ!」
「俺付いて行ってやろうか?」
え、と小さな呟きがさくらんぼ色の唇から漏れた。
呆気に取られ、Dは零れ落ちそうな程に大きな白蛋白石の瞳でマジマジとAを見つめる。
Aはなんだよ、と苦々しげに口にしふいっと顔を背けた。
「嬉しいな、ありがーー」
「お前あんなのにやられるくらい弱っちいし、護衛として付いて行ってやろうかって言ってんだよ」
「むー!何よその言い草!酷くない!」
Dが感謝の意を述べようとした途端に、捻くれた返事が返ってきた。
ありがとう、と言おうとしたした言葉は続かずに、瞬く間に文句へと変わる。
ほんのりとAの片耳が赤く染まっていたが、それにDが気が付く様子はなかった。
その後は二人して通路を抜け、大部屋へと出た。
めぼしい物がないと分かると、足早にその部屋を抜ける。
道中何体か怪物に遭遇したが、全てAが背負った斧を振るい、倒した。曲がりなりにも木こりの息子だ。
刃物の扱いには長けている。
いとも容易く敵を始末してみせた。
幾つもの部屋と通路を抜け、落ちている物品を集め、次の区域へと向かう扉ーー今回の迷宮は、どうやら階段ではなく扉を抜け進んで行く形式の迷宮のようだったーーを開いた。
この迷宮では固定概念に囚われてはいけないようだ、とDは考えた。
潜る度に地形が変わる、不可思議極まりない迷宮なのだから。