一話
蝉時雨降り注ぐ畦道を、一人の少女が駆け行く。
頭から深く被った大鍋の隙間から覗くのは、皐月躑躅の色をした二つ結び。
左手で所々穴の空いた鍋の蓋を持ち、右手で棍棒を引きずりながら少女ーーDは走る。
その面持ちは、いつになく真剣だ。
いつも朗らかであどけない笑顔を浮かべている少女と、同一人物とは思えないくらいに。
「え、シアリーズ全土に迷宮が出来ちゃったんですか?」
話は数刻前に遡る。
Dの養育者であり、Dが〈魔法使い〉の師と仰ぐ男性ーーTから拳骨を頂戴したDは、痛む頭を抑えつつTに問うた。
Tの話によると、Dが見つけた例の古書は闇の精霊王プルートを封印していた物らしく、迷宮が国中に発生してしまったのは、古書の中に封印されていた彼の精霊王の魔力が解き放たれた際に、暴走して出来てしまった為のようであった。
自然の具現たる妖精の上位種である精霊の、それも最も力の強い精霊王の魔力だ。
国中の至る所に迷宮を造るなど、容易にやってのけてしまうだろう。
あの迷宮の恐ろしさはDは身を以て知っている。
この家だけならまだ良かった。もしもあの迷宮に、何も知らない人が足を踏み入れてしまったら?
Dは気が気でなかった。
「……と言うわけですのでD、貴女には引き続き留守を預かって貰います。
私はこれからシアリーズにいる〈魔法使い〉達と落ち合う約束をしておりますので。
分かりましたか?」
「え、あ、はい!」
深く考え込んでしまっていた為に、DにはTの話が殆ど理解出来ていなかったが、条件反射で返事をした。
Tはそれに気が付く様子もなく、慌ただしく家を飛び出して行く。
残されたDは、地下にあった迷宮から持ち出して来た棍棒を強く握り締めた。
「あたしのせいでシアリーズの人達が危ない目にあっちゃうのは嫌だな……
あたしがなんとかしなくちゃ!」
そうして現在に至る。
Dは先ず近所に住む幼馴染、Aの無事を確かめる為に家を出た。
AはDと二歳違いの、つい一週間前に誕生日を迎えた少年だ。
来月になったらDの年齢はふたけたになるので、Aとは一歳違いになるが。
木こりの父を持つ彼は、Dとは違い背も高くがっしりとした体格の少年である。
少年ながらに筋肉もそこそこにあり、熊は無理でも大猪くらいなら平気で倒せてしまうぐらいには強いが、あの迷宮で見かけた怪物に太刀打ち出来るのかどうかは怪しい。
迷宮に出没している怪物は、精霊王の魔力で凶暴化しているとTは話していた。
中には特殊な能力を持つ怪物もいると聞く。
Dは自分の見た、あの目玉の怪物も恐らくそういう類の物であろうと考えていた。
「Aは強いけど、怪物はそれ以上に強いかもしんないし……」
それに、とDは呟く。
あの迷宮には、怪物以上に恐ろしいものがあった。
それは至る所に配置された罠だ。
三回目の探検の途中、実はDは二度も罠に掛かってしまっていたのだ。一度目は転倒の罠。
これは拾った物品を、周囲に撒き散らしてしまうという然程害は無いが微妙に嫌らしい罠だ。
二度目の罠は虎ばさみだった。
何もないと油断して歩いていたら突如足に激痛が走り、大変辛い思いを味わった。
怪我こそはなかったものの、あのような思いは二度と経験したくはない。
それ以降Dは小部屋に足を踏み入れる度に、地面へ向けて棍棒を振るうようになった。
不思議とそうすると、床に隠れた罠は姿を現すので、危険を事前に回避する事が出来るようになったのだ。
「でもあれやると……
なんかお腹空くんだよねえ」
恐らく重い物を振り回した事で消耗したのであろうと考えたDは、迷宮で行き倒れになってしまった場合を考えて、弁当を作って持って行く事にしたのである。
Aが迷宮で遭難している可能性も考慮して、大きめの弁当箱に中身を詰めた。
「えっと、この辺の筈なんだけどなぁ……」
曲がりくねった畦道を走る事数分、Dは見慣れた森の前へと辿り着いた。
DとAは近所であるのだが、二人が家族と住んでいる場所はシアリーズにある村の外れであり、Aの家族が住む家はDの家より更に離れた、エレウシネ山の途中にあった。
エレウシネ山はこの国の守護神であり、国名にもなっている大地の精霊王シアリーズが訪れるとされている神山だ。 特別に許された者以外、立ち入ってはならないこの神山の麓には、侵入者を拒むように鬱蒼と生い茂った森がある。
Dの今いる場所は、この森の入口であった。
村人からすれば畏れ多い森であったが、AやDにとっては格好の遊び場であった。
物心着いた頃からそこで遊び、今や自分達の住む家以上に、誰よりも深く知り尽くした森。
そこが、奇妙な変貌を遂げているなど誰が思うであろう。
「な、なにこれ……」
まるで生きてるかのようにウネウネと動く木々。
風も吹いていないのにガサガサと揺れる木の葉。
長く伸びた幹は、まるでDを誘うように揺れている。ーーこちらへおいで、そう語りかけて来ているように。
通り慣れた獣道は、哀れな獲物を飲み込む咥内のようにも見える。
足を踏み入れてしまえば、もう二度と出られはしないだろう。
入り口から吹く風は、何処か冷たく。
這いよってくるかのような悍ましい恐怖にDはたじろぐ。
「自分がやっちゃった事はしっかり責任取らないとね!!」
しかし次の瞬間には、眦をキッと据えてそう言った。
この中に、もしかしたらAやAの一家が迷い込んでしまっているのかも知れない、そう思ったら恐怖がDの中から吹き飛んだ。
よし、と腹から力強く響く声を出してDは敢然と獣道を進んで行った。
「うう……
気持ち悪いなぁ」
Dの視界がグネグネと揺れる。
いや、視界ではなく森全体が揺れていた。
木漏れ日が不自然に白く瞬いていた。
視界の端々をキラキラとした光が過る。
うっとおしい事この上なかった。
やがて前方に、シャボン玉のような膜が張られた不可思議な隙間が現れた。
人一人くらいは余裕で通れる隙間である。
揺らめくシャボン膜の奥には、更に鬱蒼と茂る深緑の木々が聳え立っていた。
「……本番は彼処からかな?」
棍棒を抱え直しシャボン膜の向こう側へ、そっとDは棍棒を伸ばす。
何の抵抗もなく棍棒は向こう側へ突き抜けた。
そのまま右腕、顔、身体、左腕、両足と順にシャボン膜を潜り抜けた。
「無事に通れたや……
ん、さっきまでと森の様子変わってる」
独り言ちながらDは空を見上げる。木の幹が屋根のように森全体を覆っていた。
木漏れ日は全く見えなくなっている。
冒険の途中に雨が降って来ても、これなら大丈夫だねとDは呑気に口にした。
気を取り直しDは辺りをぐるっと見回す。
今いる場所は、どうやら大きな部屋のようだった。
天井だけでなく地面も、木で出来ている。
部屋の端の方には、ランプとも燭台ともつかない物が置いてあった。
Dから見て後方に、次の部屋へと続く通路があった。
今回の迷宮もまた、地下の迷宮と似たような作りで相違ないようだ。
潜る度に地形が変わる迷宮とは言え、小部屋と通路が必ずあるという根本的な作りは変わらないようだった。
「多分前と同じように怪物が居て、前と同じように階段があるんだ。
前といる怪物は違うのかな?どうなのかな?」
後方の通路を抜け、Dは大部屋へと出る。
部屋の入口付近で軽く棍棒を振るったが、どうやら罠はないらしい。
安心してDは進む。
左隅に落ちて居た葉っぱを拾い上げ、無造作に持参した背負袋へと突っ込む。
そのまま通路を直進し、また次の部屋へと出た。
「うわあ……
怪物居たぁ……」
露骨にDはげんなりとした表情を浮かべる。
そこに居たのは、狐のような姿形をした黄色いちんちくりんな生物であった。
きつねっぽいいきもの、とDは早速呼び名を付ける。
きつねっぽいいきものは、Dに気がつかず跳ねて遊んでいるようだ。
お願いそのままどっか行って、とDは日頃は信じていない大精霊王ジュピターに祈りを捧げる。
だが不信心なDの祈りは届かなかったらしい。
視線がばっちり合ってしまった。