四話
Dは声の主に連れられ、暗闇から脱出した。
明るい場所で見た彼の姿は、墨で染め上げられたかのように黒くのっぺりとしていたが、ギョロギョロとした眼だけは、石榴石のように毒々しい緋色だった。
彼の背丈はDの半分くらいで、指は人間と同じく五本あったが、手の腹は盛りがっており、触るとぷにぷにと柔らかく冷んやりとして、手触りが非常に良かった。
その姿は正しく蛙のような外見だったが、Dはその姿に嫌悪より寧ろ好意を抱いた。
Dは毛の生えた動物を嫌い、犬猫よりも爬虫類や両生類を好む奇特な少女だったのだ。
「蛙ガ好キダナンテ、変ワッテルネ君ハ」
「そう?そんなに変?」
「普通ハ君グライノ歳ノ子ハ、モット愛クルシイ生キ物ヲ好ム筈ダヨ」
「蛙さん可愛いよ?蛇さんも可愛いよ?」
特にあのお目とか粒らで可愛いじゃない、とDは白蛋白石の瞳を輝かせ熱弁する。
そんなDを見ながら、漆黒の蛙はクスクスと小さく笑い声をあげた。
「……所デ……エット、ソノ、君ハ……
アノ暗闇ノ中デ何ヲシテイタンダイ?」
「えっとね、お家の地下に出来ちゃった迷宮に潜っていたら、気が付いたら階段が何処にもない部屋に居てね……」
Dはあの迷宮が出来てしまった経緯は飛ばし、あの部屋で自分が起こした行動を説明する。
漆黒の蛙はウンウンと頷きながら話を聞いていたが、ふと首を擡げた。
「話ノ腰ヲ折ッテゴメンヨ。
ソウ言エバ君ハ先程家ノ地下二、迷宮ガ出来テシマッタト言ッテイタネ……
ドウシテソンナ事二ナッタノカ聞キタイノダケド……
オーイ、何処見テルンダイ?」
あからさまに視線を泳がせ始めたDを見て、漆黒の蛙は眉間に皺を寄せる。
何とかして話を反らせたいDは、そうだと呟くと不自然に高いテンションで蛙に問を投げかけた。
「ねえねえ!
そう言えばさ、さっきあたしの名前呼んだよね?
なんであなたはあたしの名前知ってたの?」
今度は蛙が言及に悩む番だったようだ。
ソノ、エット等言いながらしどろもどろな様子で狼狽える。
Dの思わぬ反撃に、蛙の頭の中は真っ白になってしまったようである。
「……イヤ、アレハ……
……君ノ名前ヲ呼ヨンダツモリジャ、ナカッタンダ。
ボク友人二、君ガトテモ良似テタンデ、ツイ……
ソウカ、君ノ名前モ……
……Dト言ウンダネ」
所々つっかえつつ蛙は言う。
かなり言葉を選びながら喋っているようにDには見えたが、Dはそのような事は気にならなかったようだ。
疑問が氷解したDは、花が咲いたような微笑を浮かべる。
「凄い偶然だねえ。
運命ってこういう事を言うんだっけ?」
「……ソウダネ」
蛙はDの髪と瞳、それから尖った耳を一瞬ちらりと見やった。
ギラギラと不気味に輝く緋い眼からは、何を考えているのか全く検討も付かない。
Dはさらに続ける。
「あ、そうだ。あなたのお名前聞いてなかったよね?なんて言うの?
ないなら付けてあげようか?
そう言えばあなたがなんて存在なのか聞いてなかったよね。よければ教えて?」
蛙の緋い眼が、大きく見開かれた。
のっぺりとした顔からは全く表情が分からないが、予想外の質問に驚いているようにDには見えた。
「……名前ナラ、有ルヨ。N。
Nト……言ウンダ。大切ナ友人ガ、付ケテクレタ名前サ。
ソレカラボクハネ、君達ガ忌嫌ウ闇ノ……
……妖精ダヨ……」
何処か遠くを見つめながら、闇の妖精ーーNは呟いた。
その後Nに、ここで自分と会った事は誰にも言わないようにと言われ、渋々ながら了承したDはNに見送られ階段の間へと連れて行かれた。
「あたし、あなたが闇の妖精でも気にしないよ?」
「君ハ気ニシナクテモ、気ニスル人ガイルンダヨ」
「皆が皆怖い訳じゃないでしょ?Nは親切な闇の妖精じゃない」
Dがその一言を言うと、何故かNは俯き口を閉ざした。
紅黒い石榴石の眼からは急にギラギラとした輝きが失せ、ぼんやりとした明かりのみが仄かに灯るだけだった。
どこか落ち込んでるようにDには見えた。
大丈夫か、とDは尋ねるがNは返事をせず。ただポツリと呟いた。
「……D、コレカラ何ガアッテモ、自分ヲシッカリ持ツンダヨ。
自分ノ心ヲシッカリ保ツンダヨ」
「え?急にどうしたのN?」
Nは答えず、俯いたまま続ける。
「嫉妬ヤ恐怖トイッタ闇ノ者達ガ、コレカラ君達ヲ襲ウダロウ。
ソレラニ心ヲ蝕マレナイヨウニ気ヲツケルンダ。
ソレラ二心ヲ支配サレテシマエバ、全テヲ失ッテシマウカラネ」
頭を上げ昏く沈んだままの緋い眼でDを見詰め、Nは言った。
その表情があまりにも真剣だったので、Dは何も言えずただ頷くだけだった。
「わあちゃんと戻れたー!」
Nに急かされるようにして階段を降りたDは、無事に部屋に戻って来られたと感動していた。
やっぱりNは親切な妖精なんじゃない、と呟き微笑を浮かべる。
NはDが初めて見た闇の妖精であったが、噂に聞いていたような恐ろしい妖精ではなかった。
外見はDの好きな蛙の姿であったし、性格も優しかった--もしかしたらあの性格は自分を騙す為の策略ではないのかとも思ったが、それはないよねとDは首を振る。
何故ならあの狼狽えている姿からは、そんな様子など微塵も感じられなかったから。
「優しい闇の妖精だって、勿論いるよね」
「おりませんよ、そのようなものは」
Dの頭上から溜息と共に、そんな声が聞こえて来た。
恐る恐る顔を上げて見るとそこには、緩く項付近で結ばれた欝蒼と生い茂る森のような長い深緑の髪と、鷲鼻の上に鎮座する丸い銀縁の眼鏡を掛けた、何処か彫像を思わせる彫りの深い顔立ちをした、白皙の面の男性が立っていた。
「あ……お、お帰りなさい師匠」
「只今戻りました、D。お留守番ありがとうございました。
ところでこの惨状は何ですか?
一体何がどうなったら、このような事になるのです?」
冷ややかなテノールがDの耳へと吸い込まれる。
口元は笑みを浮かべているが、切れ長の橄欖石のような瞳だけは微笑んでいなかった。
Dの師匠--Tは身に纏った白いローブをたくし上げ、腕を組む。
それはTが苛々している時によくする行動であった。
Dが想像していた以上に、彼女の師匠はお怒りのようであった。
「あの……そのぉ……えっと……
あ、雨漏りしてたので直そうとして……」
「雨漏り?……ああ、そう言えば床や本が水浸しですね。
それよりも私は、本棚にきちんとしまってある筈の本が、どうして床に散らばっているのかが聞きたいのですがね」
大方予想は付きますが、とT。答えに窮し、Dは縮こまる。
Tは徐に屈み込むと、Dの米神をぐりぐりと握りこぶしで押し付けた。
「痛い痛い痛い!師匠痛いよう!」
「痛くて当然でしょう、お仕置きなのですから」
いつの間にか豪雨は止み、外は何事もなかったかのように太陽が木々や大地を照らしていた。
七色の橋が、鈍色の雲と澄んだ青空の隙間から、天上に向けて掛かっている。
止んだ妖精の雨の代わりに、避難していた蝉達が一斉に鳴き始め、音の豪雨がシアリーズ全土に響いて行く。
もう後二時間もすれば、太陽は沈み音の豪雨も止むだろう。
部屋の中ではDが、涙ながらにぽつぽつとTに向けて話始めた。Tの震える拳が落とされるのはいつの事か。
それはまだ誰も知らない。
蝉時雨がシアリーズ全土をゆっくりと包み込んで行く。
夕陽が落ちるその時まで、その音は止まない。