二話
一話と二話は所々不思議の国のアリス(矢川澄子訳)を引用しております。
気が付いた時、Dはでんぐり返しの状態にあった。
背丈の合っていない黒いダブダブのワンピースは捲れて、小ぶりの桃のような尻と、それを覆う白いレースの下着が丸見えになってしまっているという、あられもない姿に。
状況を理解したDは、真雪の肌をたちまち林檎のように真っ赤に染め上げた。
直様体制を立て直し、ぎゅっぎゅっとワンピースの裾を限界まで引っ張る。
意味のない行為だとDも分かっているが、そうせねば気が休まらなかったのだ。
誰も見てなくて良かったぁ、とDは小さく嘆息した。
そのまま深呼吸をする事数回、平静を取り戻したDは、きょろきょろと辺りを見回す。
部屋の中は凄まじい有様だった。
本棚は倒れ、床に積み上げられた本は散乱し、バケツらの中の雨水が本にかかっている。カップやグラスは粉々に割れており、彼女の師匠が愛用している大きな木製の机はひっくり返っていた。
それは文字通り、目を覆いたくなるような惨状だった。ーーまるで地震でも起こった後のような。
まずDの脳裏を過ったのは、どうしよう師匠に叱られるという言葉だった。
続いて、どうしてこんな事になってしまったのだろうという疑問、最後にはとりあえず片付けようと結論付けた。
「だってカップやグラスの破片が散乱してたら危ないでしょ?
床だって拭かなきゃいけないし、本も乾かさなきゃ。
ほらD、早くしなさい」
そう自分自身に言い聞かせ、Dは素早く掃除を始める。
飛び散った破片を箒でかき集め、持ってきた厚紙の上にばら撒くとそれを丁重に包み、ゴミ箱の中へ。
その後、掃除道具を収納している納戸の中から雑巾を取り出し、床を拭きだした。
「倒れた机や本棚はどうしようもないもんねー
天災だもん、しょうがないよ多分……
……たぶん」
もしかしたら、とDは思った。
この惨状は、自分が引き起こしたものではないのか?と。
先程まで自分が眺めていた漆黒の表紙の古書を思い出す。あの本に巻かれた鎖は、何かを封印していたのではないか?あの目も眩むような光は、封印していた何かを解き放った証ではないのか?
その封印されていた何かが、この部屋をこんなにめちゃくちゃにしたのだとしたら?
さあっと血の気のひく音が聞こえたような気がした。そう、そう言えばーー
「………………あの本、何処行ったのかな?」
こくん、と首を傾げる。Dの顔面は蒼白であった。
どうしよう、と力なく呟く。Dはあの時、眩い光でまともに目が見えてなかったが、何処までも深い闇の中へ落ちいくような感覚を味わった。
部屋の物がめちゃくちゃになっているのはその余波なのか、Dには分からない。
好奇心は猫を殺す、と言うが自分はとんでもない事をしでかしてしまったのではないか?
不安がDの心に忍び寄る。折角取り戻した平静は、雲散霧消してしまった。
「…………どうしよう」
本日何回目のどうしよう、を呟く。
頼りになる彼女の師匠は今この家にいない。自分が余計な事をしなければ、こんな事にはなっていない。
「だ、大丈夫だよ!
どの雲にも銀の裏地がついているって言うし!」
自分がおかしな事をしてしまったなら、自分で解決するしかあるまい、とD。
今ここにいるのはDだけだ。よし!と大きく頷いて、Dは手に持ったままだった雑巾を洗いに行った。
ちなみにDには何かと覚えた言葉を使いたがる癖がある。
若干諺の使い方が間違っているような気もするが、そこは多目に見て欲しい。
戻ってきたDは意気揚々と、異変が起きたかどうかを確認し出した。Dはまず、自分が座っていた場所が怪しいと踏んだ。
つまり本棚の近くだ。
「そう言えばあたしさっきあそこにいたんだよね。
なのに、本棚よりちょっとずれた所で転んでたんだ。
何でかな?」
誰かがあたしを移動させてくれたのかな、そう思いながら本棚の近くへ歩み寄る。
倒れた本棚を起こす事は華奢なDには出来ないのでそれはせず、先ずは倒壊した本の山を片付ける。
もしかしたらこの中に、あの鎖で雁字搦めに結ばれた漆黒の古書があるかも知れないとDは考えた。
結論としてはその山の中に例の本はなく。
「…………なにこれ?」
その下、木目の床だった箇所に、地下へ続くかのような階段が出来ていた。
例の本を思わせるような、漆黒の階段が。
人っ子一人入れるかどうかも怪しい地下階段。Dぐらいの背丈の子供なら、頑張れば降りれるかもしれないが。
「……不気味だなあ。
でもあたしのせいでこんなのが出来ちゃったんだよねぇ。
この下に何があるか分からないけど、自分でやっちゃった事はなんとかしないとねぇ……」
覗き込みながらはあ、と溜息を付く。先程奮い立たせた気力が、みるみる内に萎んで行く。
だがやるしかないのだ、行くしかないのだ。何故ならこの事態を引き起こしたのは、Dなのだから。
恐る恐るといった様子で階段を降りて行く、狭そうに見えた階段は意外と広く「途中で降りられなくなったりしないかな」というDの期待を悪い方に裏切った。
「引き返すなら、今だと思うよ……D」
Dは途中何度も何度も降りるのを逡巡したが、結局降りきってしまった。
Dの中の恐怖と責任感が戦った結果、僅差で責任感が勝利したのだ。
降りた場所は、意外と明るくそして広かった。
「わあ……このお家に地下室があるなんて知らなかったなあ……
それとも、あの本が作った地下室なのかな?」
まず間違いなく例の本が原因である。
今日まであのような階段が本棚の近くにあるなど、Dはこの家で数年生きていたが知らなかった。
今朝Dがあの辺りを拭き掃除した時も、あんなものなかった筈である。
普通ちょっと考えれば分かる事であるのだが、Dは他の子供達よりもやや抜けているーーというか、天然の気が強かった。
「あ、昨日まであんな所に階段なんてなかったもんね。
じゃあこれはやっぱり、あの本の仕業なんだ!」
ぽん、と手を打ち合点がいったとばかりに、Dはうんうん、と頷く。
疑問が解決できたDは、早速辺りを見回す。
どうやら今Dの居る場所は、天井の低い大広間のようであった。
Dから見て左の方に、暗く細長い通路が見える。どうやら奥へ進める道があるらしい。
部屋のゴツゴツとした茶色い岩壁には、所々ランプが置いてあり、明るいのはそのせいらしかった。
意を決して二三歩進んでみる、じゃりっとした音が足元から響いた。
恐る恐る触れてみるとそれは、どうやら砂のようだった。
「ここは土で出来たお部屋なのかな?」
またもや独り言だ。
その後に大きくなった蟻さんのお家なのかな、と続く。
終いにゃもしもばったり蟻さんに出くわしてしまったらどうしよう、言葉通じるのかな?とまで言いだした。
知らない場所に一人きりなので、心細く感じるのだろう。独り言は続く。
「もし出会ってしまったらこう言わなくちゃね。
『申し訳ございません、ここが貴方がたのお家と知らず、無礼な事をしてしまいました。
この度は誠に申し訳ございません、後程お詫びの品をお持ち致しますので、少々お待ち下さい』って。
うん多分完璧!次の礼儀のテストではA取れるよ!」
Dは黒いダブダブのワンピースの裾を両手で持って、深々と首を垂れる。
つい裾を持ち上げ過ぎてしまい、またもや下着が露わになった。
だが本人はどうやら気が付いてない様子だ。
Dはこの間学校で礼儀作法を学んだようである。まあこんな事を今ここでやっても、全くの無意味なのだが。
こんな事をやりつつも、Dは順調に歩を進めた。
最初の部屋から見えた通路を渡り、小部屋へ入った。
そこからDから見たら真正面に位置する細い通路を渡り、最初の部屋と変わらないくらいの大きさの部屋へ。
その部屋には、鋼色に輝く刀身が特徴の、なんの装飾も施されていない無骨な抜き身の剣が、打ち捨てられたかのように置いてあった。
「わあ、剣だ。
何でこんな所に置いてあるんだろ?
師匠が捨てたのかな?」
自分で言っておきながら、それはないかとDは首を振る。
Dの師匠も、Dと同じく〈魔法使い〉である。〈魔法使い〉は妖精と同じく、鉄や鋼を苦手とする種族であった。触れる事すら以っての他である。
Dは生まれてこの方、自分の師匠の部屋に金属で出来たものが置かれている所など見た事もない。
唯一ある金属製の物は、Dの覚えている限りフラスコ台のみだ。
そのフラスコ台は、必要とされる時のみ、Dが納屋から取り出すのだ。
Dは何故だか〈魔法使い〉であるのに鉄や鋼に触れる事が出来たのである。
ちなみに妖精の中には、上位種である精霊と言う存在がいる。
その精霊は、人間と同じく鉄や鋼を苦もなく触る事が出来ると言われている。
人間には滅多にお目にかかれない、文字通り雲の上の存在なので真偽は定かではないが。
「なんでこんな所にこんなものが置いてあるんだろ?
誰かの忘れ物かなぁ?なら届けてあげなくちゃね。
きっと持ち主さん困ってるよ」
言いながら拾い上げようとしたDだったが、柄を握り持ち上げたその瞬間に、ふらついて転倒してしまった。
か弱いDの膂力では、持ち上げる事は不可能だった様だ。
持ち運ぶ事を早々と諦めたDは、いるかどうかも分からない持ち主の代わりに剣に向かって、ごめんなさいとお辞儀をした。
そのまま誰にも見られてないか確認するようにチラチラと周囲を見回し、急ぎ足で左の通路へと駆けて行った--その刹那。
「きゃあっ!」
小鈴を転がしたような、可愛らしい悲鳴がDのさくらんぼ色の唇から漏れる。
通路を駆け抜けようとしたDは勢い余って、ブヨブヨとした弾力のあるものに躓いてしまった。
咄嗟に壁に手を付いたので、転倒はまぬがれた。
部屋と違い通路はランプが灯されておらず、全体的に薄ぼんやりとしており、何に躓いてしまったのか、Dには判別が付かなかった。
「吃驚したぁー……
また転んじゃうところだったよー」
体制を整えてから胸元に手を当て、小さく溜息を付く。
ブヨブヨとした何かはまだ、Dの足元にあった。
正確に言うならDの白くすべすべとした、滑らかな仔鹿のような両足に挟まれるような位置にブヨブヨとしたものはあった。
不意ににょろん、と何かから細長い触手のようなものが伸びた、と思った次の瞬間にはDのスカートは一気にたくし上げられた。
「いやあーーーぁ!?」
通路中、いやもしかしたら地下全体に響くかもしれない、大きな悲鳴が上がった。
突然の事にDの思考は混乱の極みにあったが、まず一番にスカートを抑える事がDの中での優先事項になった。
そしてこの事態を引き起こした原因は何か、それを探る為にDは足元へと視線を落とした。
原因は直ぐに特定出来た。足元で触手を蠢かせている、半透明のブヨブヨとした生物なのか物体なのか判別しかねる存在である。
それは、Dが先程躓きかけた何かであった。
「なーにーこーれぇぇえぇぇ!!!」
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い、とDはあらん限りの声で泣き叫ぶ。
これは一体なんなのか、と考えるより先に足が出ていた。
あっちいって、あっちいってと泣きながらブヨブヨとした物体を蹴り続ける。Dは最早完全に理性を無くしていた。
触手はDのスカートから離れ、困ったようにふよふよと空中を彷徨っていた。
がつんがつん、と何度もDはブヨブヨとした物体に向かって蹴りをいれるが、どうやら大したダメージは与えられていないらしい。以前としてそこに鎮座したままだ。
しかしDが蹴りを入れてから数分たった頃。ブヨブヨとしたものに少しずつ変化が出始めてきていた。
無色透明であった物体が、徐々に赤く発光し始めたのだ。
うねうねと空中を踊っていた触手も、ピキピキと音を立て硬化しつつあった。
それはまるで、怒っているようにも見えた。
「ひょえっ……な、なによぉ。
先にそっちがあたしに嫌な事してきたんでしょぉ……」
Dが気付いて蹴りを入れるのを止めた時には、もう半透明のブヨブヨとした物体は、真紅に染まっていた。
触手だったものも完全に硬化を終え、まるで牙のようになっていた。
果たしてそれに、人間と同じように知能や感情があるのか定かではないが、それはもう完全にーー怒っていた。
それが人間であれば、憤怒の形相を浮かべているに違いない。
Dは小さく息を飲み、声にならない悲鳴を上げる。心臓が早鐘を打つ。その音は煩い程大きく聞こえた。白蛋白石の視界は潤み、目の前の真紅に染まった物体が、ぐにゃりと歪む。
嫌ぁ、とか細い声でDは呟く。その記憶を最後に、Dの視界は暗転した。
「…………はっ!」
気がつけばDは木目の床に倒れていた。階段の横に、まるで誰かに放り出されたように。
慌てて起き上がり、Dは身体が無事かどうか確かめた。不思議と何処にも傷はない。首を傾げながらDは呟く。
「…………さっきのなんだったんだろ?」