一話・後
「Dちゃん、さっきも言ったがT先生はDちゃんを危険な目に合わせたくないだけなんだよ」
「そうよ、Dちゃんの事を思ってわざとあんな風にきつく言ったのよ」
椅子に深く腰掛け、俯きながらぷくーと栗鼠のように頬を膨らませて拗ねるDを、A夫妻は宥める。
だがDの機嫌は一向に直らず、頬は更に膨らんで行くばかり。
まるで風船のようだな、とそのまま空高く飛んで行けそうな程膨らんだ頬を見ながら、Aはそんな事を思った。
早く終わらないかと考えながら、客用の皿の上に盛られたジンジャーブレッドに手を伸ばす。
隣に置かれたマーマレードのジャムを取り、小さな匙でたっぷり掬い、それをジンジャーブレッドの上に塗りたくる。
生姜のぴりっとした辛さと、マーマレードの甘みが程よく溶け合い、舌の上で絶妙な味わいを醸し出す。
ゆっくり最後まで味わい、噛みしめるように咀嚼し、万年朗の薬膳紅茶を啜る。
至福の一時であった。
これで終わり、これで終わりと思いながらも、次から次へと溢れるぐらいマーマレードを沢山塗ったジンジャーブレッドを口に運ぶ。
菓子はもう大半Aが一人で食べ尽くしていた。
「Dちゃん、あのね。T先生はお姉さんを……たった一人の身内を闇の妖精に殺されているの」
Mは白魚を思わせる柔い手で、そっとDの陶器のように滑らかな白い頬を包み込む。
その話の内容に興味を惹かれたのか、Dは俯いていた顔を上げ、きらきらと輝く虹を宿した白蛋白石の瞳を瞬かせた。
妖精のように尖った耳が、犬の尻尾のようにくるくると回る。
まるで何それ何それ知りたい知りたいと言わんばかりの勢いで。
「お姉さん?先生にお姉さんがいたの?」
そうだよ、と後を続けたのはP。
じんわりと耳に馴染むテノールで、Dの人形めいた愛らしい貌を見つめながら静かに言葉を紡ぐ。
「双子のお姉さんと、それからお義兄さんにあたる人が居たんだよ。
産まれたばかりの姪御さんもいたんだ」
「……その人達皆、闇の妖精に殺されちゃったの?」
「そう。お姉さんとお義兄さんは闇に殺されてしまったんだ。今から十年前だから、Dちゃんが産まれた頃の話だね。
姪御さんについては……分からない。
生きているのか、死んでいるのか誰も知らないからね」
生きていたらDちゃんと同い年だな、とPは息子と同じ色をした湖水の瞳を眇ませながらそう呟き、傍の妻と目を見合わせた。
「迷宮は、闇の精霊王の力が暴走して出来てしまったものなのよね?どんな危険が待ち構えてるかも分からない所なのでしょう?
私達もそんな所へあなたを絶対に行かせたくはないわ」
翡翠と湖水の優しさを湛えた眼差しが、Dに注がれる。
なんだか面映くなり、Dはぴょこんと椅子から飛び降りる。
その拍子にふわり、と黒いワンピースの裾が翻った。
そして分かった、と一言ポツリと呟いた。
「もう迷宮に行きたいなんて言って、先生やおじさんおばさんを困らせません」
「ありがとう、Dちゃん」
Mは莞爾として笑み、Dの皐月躑躅の色をした薄紅のふわふわとした櫛通りのよい髪を撫でつけた。
「ねえおじさん、おばさん。先生のお姉さんのお話、もっと聞かせて?」
「それはT先生本人に聞いた方がいいわよ」
くいくいとMの象牙色の、ゆったりとした身体を締め付けないようにデザインされたワンピースの裾を掴みながら、上目遣いで尋ねるが、やんわりと断られてしまった。
えーと不満の声が上がり、妖精のように尖った耳がお預けを食らった犬みたくへにゃりと下がる。
また小さくぷくりと頬を膨らませて、Mの大きなお腹へ顔を埋めた。
しょうがない子ね、とMはDのそんな様子を眺めて笑っていた。
「私これから町へお買い物に行こうと思うのだけど、Dちゃんは如何する?一緒に来る?」
そろそろ正午になるかならないか、という頃だった。
居間の窓から覗く空は、清々しい程にカラッと晴れた、雲一つない青空。
さらさらと流れる微風が心地良い。
洗濯日和だねぇとDはMと顔を見合わせ、花が咲いたように笑っていた。
家の裏の畑に植えられた、トマトや胡瓜といった野菜も、眩い陽の光を浴びて宝石のように輝いている。
早朝の沈黙が嘘のように、家の周りを取り囲む青々とした木々からは、音の爆弾のような蝉時雨。
一匹が鳴き出すと、一拍の間を開けて集中砲火の如く一斉に鳴き出した。
毎年お馴染みの光景だが、蝉が鳴き始めるとやはり夏の季節になったと実感する。
暑かろうが蝉が鳴かねば夏の季節たりえず、蝉が鳴き始めてああ夏の季節が来たのだなと実感する。
他の人は皆、あれは只の騒音に過ぎないと口を揃えて言うが、Dはそうと思ってはいなかった。
むしろ夏の季節の終わり頃になると聞こえなくなるので悲しくなる。
あるべきものがそこにないかのような虚無感。
何処と無くDはそれを、何かに似ているなあと思っていた。
村で仲良く談笑しながら買い物をする親子などを見た時に、それはふと波紋のように胸に広がる。
養育者にして魔法の師匠と呼び慕うTと一緒にいても、良くしてくれるA一家と一緒にいても、その木枯らしのように吹き荒ぶ寒さは掻き消す事は出来ず。
Dはいつも、何処か虚しく寂しい思いを抱えていた。
「……うん、行く。用事は特にないけど」
「そう。じゃあ荷物運ぶの手伝ってくれるかしら?」
「うん」
「母ちゃん、俺も行く」
「あらありがとう。あなた、Dちゃんが町へ行くって言うと必ず付いて来るわねぇ……」
「なんだよ、悪いかよ」
「いいえ、全然」
耳までトマトのように真っ赤に染まったAの横顔を見ながら、Mはころころと珠を転がしたような声で微笑っていた。
Mを真ん中に三人で手を繋ぎ、陽の光を浴びて煌めく緑の、瑞々しい木立のトンネルを抜ける。
連日の大雨で道中には泥濘と、所々に出来た大きな水溜りが出来ていた。
町へ行くには子供の足で三十分近くはかかる距離だったが、遊んだり話をしている間に直ぐに着く事が出来た。
あっと言う間の三十分だった。
「Dちゃん、今日の夕食何がいい?」
「なんでもいいよ、おばさん」
「じゃあ今日は兎のミートパイと、野菜の山羊乳煮にするわね」
「やった!それ大好き!」
村の入り口から延々と続く、黄色の煉瓦道は、上を歩く度にカツンカツンと賑やかな音を立てる。
煉瓦道の脇の柵の向こうは、何処までも続く緑の平原。広大な牧場。
風に揺れて牧草がさざ波のように揺れている。
放牧された牛達は思い思いに草を食み、その傍らでは見張りをする犬が退屈そうに座っていた。
実に長閑な光景だった
やがて前方にずらりと並ぶ家々が見えてきた。色鮮やかな赤い煉瓦の屋根は、抜けるような蒼空と合間って良く映えている。
その屋根から聳える煙突が、モクモクと白い煙を吐き出して行く。
煉瓦道の遥か向こう側には灘らかな丘が。
遠く微かに見える小さな白の点々は、羊達と彼等を引き連れた牧童。
耳をすまして良く聞けば、彼方から牧童の奏でる笛の音が聞こえて来そうで。
村に来る事があまり好きではないDだったが、この風光明媚な景観は結構好んでいた。
「じゃ、行って来ます」
AはMに豚肉と兎の干し肉を買ってくるように頼まれ、財布を握り締めて肉屋へと向う。
Mは市場を見てくる、と言い残してその場を後にした。
着いて行こうか、と尋ねたがそこで待っていて、と言われDはおとなしく二人が戻るまで村の入り口付近に佇んで、ただぼうっと流れる雲を見上げる事にした。
吹き抜ける涼しい風が、一本に結い上げた皐月躑躅の髪と、ダブダブとした黒いワンピースの裾を揺らす。
夏の季節特有の、カラッとした匂いが仄かに、Dの鼻腔を擽った。
「あ、桃色頭がいる!」
どのくらいそうしていただろうか。
ふと後方から声が聞こえ、Dは苦虫を一個中隊噛み締めたような顔付きになった。
振り返らずとも分かるダミ声、Dより三つも年上の癖に、何年もDやAと同級生のFだ。
Dにやたらと突っかかってくる村一番の大馬鹿、Eマイナスの留年生。
うへぇ、と思わず声が漏れる。
嫌な奴と出会した、と言う思いが込められた声が。
その声が聞こえたのかFは道端に落ちていた小石を拾い、Dに向かって投げつける。
「痛ぁ!何すんのよこの馬鹿!」
「桃色頭の癖にこの俺を無視しようとするからだ!」
「うっさい黙れ留年生!」
思わず振り返って喧嘩を買ってしまったが、直ぐ様やめとけば良かったと後悔した。
そこに居たのはFだけではなく、Fの取り巻きのGとJが、こちらをにやにやと見つめながら並んで立って居たからである。
いつもながら嫌悪感を催すような薄気味悪い笑顔だなとDは思う。
「……侏儒といい勝負」
「ああ?何か言ったかよ」
「存在が気持ち悪いね、って言ったの」
「んだとテメェ……!」
にっこりと天衣無縫の如き笑みを浮かべて桜桃の色をした鮮やかな唇から放たれるは、紅いとも黒いともつかない嘲罵の笑い声。
馬鹿にされた事を感じとったのか、Fは眉を釣り上げ掴みかかるように怒鳴った。
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