第五話 前夜の記憶
朝起きて、まず驚いたこと。
第一に、穂高のベッドに寝てたこと。第二に、寝た記憶自体がないこと。第三に、…穂高がリビングのソファーで寝ていたこと。
…なにゆえ?
起き抜けのボーッとした頭で、夕夜は必死に昨夜のことを巡らした。
風呂に入って、穂高の部屋に行って。それで…それで?
「ギャーーーー!!!!」
思い出して恥ずかしくなったのか叫び声をあげる。 穂高の部屋から出てきて今はリビングにいるわけだが、どうにもこうにも穂高の顔が見れない。
ちら、と横目でみるも、起きる気配がない穂高に夕夜は忍び寄る。
「あんたさぁ…どうして昨日あんなことしたの?」
答える声があるはずもなく。夕夜はふぅ…とため息をつく。
ソファーの横に跪き、穂高の顔を覗きこむ。
憎たらしいほど美形。
朝陽に反射する漆黒の髪。閉じられたまぶた。その奥にある瞳。
―――思わず触ってみたくなる。
手をのばしかけ。
なっ何やってんの自分!それはさすがにキモイから!!!!
「ん…」
穂高の小さな呻き声にもビクッと反応してしまう。
家、戻ろっかな。
学校あるし…。
「ベッド、占領しちゃって悪かったわね。それから…」
ありがと。
蚊の鳴くような声でも、静かな部屋では大きくて。 いたたまれなくなった夕夜は、逃げるようにリビングから出ていった。
「ツンデレかよ…」
実は初めから起きていた穂高は、夕夜が消えた戸口見つめて。
「あんなことって…手ぇついて苛たこと?それとも…」
いや、なわけないか。
自分が昨日夕夜にキスをしたことは、多分バレてはいない。それは、向こうの反応を見れば分かる。長年のたまものだ。
…昨夜は、なんとなく落ち着かなくて寝つけなかった。うとうとしかけて浅い眠りに入ろうとしたところで…夕夜が入って来たのだ。起きるのが面倒だったので、動かずにいたら――。
「あれだもんな」
くっ、と喉から笑いが漏れる。
起き上がり、片付けるために部屋に向かった。
ベッドはぐしゃぐしゃになっていて、夕夜の寝相の悪さを伺わせた。
「……………………」
しかめっ面でこめかみに指。
どーしてあいつはこう…。
昨夜の夕夜の寝顔が思い出される。
横たわる夕夜はとても綺麗で。―――普段の姿からは想像もできない。
あいつだってちゃんとすればそれなりに可愛いのに…。
穂高は疑問に思う。
どーしてあそこまで身なりに無頓着なんだ?
そう。夕夜は、全くと言って言いほど自分の容姿に関心がない。
不思議なことだが、事実そうなのだ。
穂高としては、もう少しなんとかして欲しいところだが…。
手早くシーツを直し、布団をかけ直す。ふいに、ふわっ…と夕夜の香がした。 心臓がひとつ大きく跳ねる。
昨日の映像がいやに鮮明に呼び起こされて。
―――そういえば昨日は満月だった。
満月は…人を狂わせる。 それもあながち間違いではないのかもしれない。
そうでなければ自分があの夕夜に、キスなんて…するワケがない。
…恐るべし月明かりマジック。
そうして穂高は、自分が学校へ行くための準備を始めたのだった。
「ちょっと…」
一方帰宅した夕夜に待ち構えていたのは。
「ん〜…もうできませーん…」
玄関先で寝ている母の姿だった。
「お母さん!寝るなら布団で寝てよ!風邪引くでしょ!?」
ゆさゆさと揺らしてみるが起きる気配がない様子に、夕夜は諦めて自分の準備を始めることにした。
20分して戻ると…まだ寝ていた。
「はぁ………………」
仕事で疲れているのは分かる。ただでさえ今は、父親が海外勤務しているのだから、母がこんなに頑張るのも無理はない。だからこそ…布団で寝てもらいたいのに。
「ん゛〜ッ!!!」
引っ張ってみるが到底無理な話だ。
「…何やってんの?」
「あ、穂高」
開け放していた扉から、穂高が姿を現した。今から学校へ行くところだったのを、前を通ったら夕夜がこんな状態だったというわけだ。
「あぁ…」
状況を一目見て理解したらしく、
「絵里さん、運べばいいわけね」
「えっあ…うん」
ひょいっと軽々持ち上げて、穂高は寝室に消えた。 …あいつも成長してんのね。
夕夜が思ったのは、そんなことだった。
その頃絵里をベッドに寝かせ終えた穂高は、ふととなりの夕夜の部屋が目についた。
―――なぜだか一瞬、ヒヤリとする。
普段夕夜の部屋は、ものすごく汚い。そりゃあもう、足の踏み場もないほどに。…それが今は。
「なんでこんな…片付けられてるんだ?」
大掃除をした、と言われればそれまでかもしれない。けれど…そうではないと思わせる何かが、あった。「ん…穂高くん?」
「絵里さん…起こしました?すいません」
ふりかえり謝る。
「いいのよ…それより…」
「?」
あの子をよろしくね。
夕夜そっくりの笑みを残して、彼女はまた眠りに落ちた。
「…寝言?」
…にしては意味深な発言だ。
「穂高!!」
ハッとして穂高は玄関に向かう。
「あ、あぁ。今行く」
一度寝ている絵里を見つめ。
―――パタン。
部屋を後にした。
2人して玄関からでると、すぐ右隣の部屋の前が、何だか騒がしい。
「あの…誰か引っ越してくるんですか?」
近くにいた業者さんに尋ねると「えぇ」とだけ返ってきた。
今までずっと空き部屋だったのが、やっと埋まるんだ。
この時夕夜は、それくらいにしか考えていなかった。
「おはよ」
教室にはすでに栄理がいて、夕夜は―――……昨日のことを話そうかどうか迷った。
「おはよ夕夜。…またなんかあったの」
…………なぜ分かる?
「べべつになんもないよいつもどーりちょうふつう」 …素晴らしく棒読みである。
いやいやいやいやいや!あきらかに何かあったでしょうが!!
「…夕夜ってさぁ…」
目をすがめて。
自分が隠し事下手だって自覚ないワケ?
「ん?なに栄理!」
「……なんでもない」
愚問でしたねそーでした。
自分から話してくれるまで待つか、と栄理は決めて、違う話題をふる。
「そういえば穂高くんに言った?」
「…何のこと」
この子はまったく…。
「もー…いつまで意地はってんの」
「…別に意地とかじゃなくて…ただ本当に…決定したわけじゃないし」
「そうやってさぁ…タイミング逃したら大変なことになるんだからね」
「………………………」
―――この時の栄理の忠告を、あたしは後になって正しかったと…
思い知る。
授業中、意識は昨日のことへと飛ぶ。
『本当は…恥ずかしかったんでしょ…?』
そう耳元で囁いた穂高。 穂高の声ってあんなだった?
穂高の声ってあんなに低かった?
穂高の声って…あんなに優しかった?
あんなの、今まで16年間一緒に育ってきた…同じ穂高とは思えない。
いつも、意地悪ばっかされてる記憶しかないから、尚更。
あれだって…穂高にとっては、きっと、単なるイタズラに過ぎない。
でも、だけど。
そう思うと…なぜだか哀しくなるのはどうしてなんだろう。
「……ぅーーーーッ」
考えても答えは出ない。 ぐしゃぐしゃっ、と頭をかき回し、ふと外を見ると…穂高のクラスが体育をしていた。
100m走だ。
順番待ちをしている穂高なんて…1発で見つけられる。
―――気づかないで欲しい。
自分がこうして穂高を見ていることなんて。
―――気づいて欲しい。 自分がこうして穂高を見ていることに。
なに…これ?
2つの相反する気持ちが混ざり合い、夕夜を分からなくさせる。
―――涙が、出そうで。 ふいに、穂高が振り向いた。
2人の視線は絡み合う。 …なんで?
どうして気づくのよ。
心臓が…またうるさくなるじゃない。
ドキドキとうるさい心臓をおさめたくて、ただその一心で…夕夜は前を向き直した。