最終話 〜時計塔の下で〜
日付変わってしまいましたね、すみません。では、最終話をどうぞm(__)m
時計塔の下。
―――すべての、はじまりの場所―――。
空が。
橙色から藍色へと、変わりゆく。
その様を、二人は声を発することもなくただじっと、眺めていた。
ベンチに座るでもない、今日のデートの思い出話を語るでもない。
この場所に―――時計塔の下に着いてから、二人は一度も言葉を交わしていなかった。ただ静かに、心地よい空気を共有するだけ。ここに来たいと言った夕夜本人でさえ、何を言うこともない時間が、五分は続き―――。
「穂高。あたしの名前の由来、知ってる?」
「は?」
唐突な彼女の言葉に、穂高は思わずすっとんきょうな声を出していた。なぜ今、そんなことを?
そう考えて、すぐにあぁそうかと、合点がいった。
今だから。
『今日』の『この瞬間』だからこそ、彼女はこんな質問を投げて寄こしたのだ、と。
「あたしは、穂高の名前の由来、分かるよ。―――稲穂のようにすくすくと育つように願いを込めて」
隣に並んでいた彼女が、振り返って真正面から対峙するように立ち位置を変えた。つられて、穂高も向き直る。
「……俺だって、分かる。覚えてるよ、おまえの名前の由来」
小学校一年生の頃。
誰でも一度は経験する、『自分の名前の由来を調べましょう』という、よくある授業の課題。
あの時知ったお互いの由来を、二人はお互いに覚えていたのだ。
「…ほんと?」
「いま嘘つく理由、ない」
「そうだけど」
自分から聞いておきながら、なぜか少し焦ったふうの夕夜に穂高は首を傾げる。
「…言っていいの?」
「何をっ?」
「はぁ?だから、おまえの名前の由来」
「!う、うん。いーよ」
その言葉を受けて、穂高は、自分たちの頭上に広がる、広大な空を振り仰いだ。
その行動を見ただけで夕夜は、あぁ、覚えているんだ、と。そう確信した。
「ちょうど、今ぐらいの時間だったって、聞いた」
「…うん」
夕夜は。…朝から、ずっと考えていたことがある。
「橙色から、藍色へと空の色が変わる、ほんの短い時間」
もし。もし、穂高が約十年前に一度言ったっきりの、名前の由来を覚えていたら。
「―――『夕焼け』と『夜』の、ちょうど間の時間に生まれたから。…だから、夕夜」
あたしは迷わず、あの言葉を言おう―――。
だろ?そう言ってふわりと笑った穂高のその身体に。次の瞬間、夕夜は腕を回して抱きついていた。
「ゆ、夕夜?」
珍しくあわてている彼が、可愛くて仕方ないと思うのは、やっぱり惚れてる証拠。
とくとくと心地よい早さで胸が打つのも……あたしが、穂高を好きだっていう証。
「穂高。誕生日、おめでとう」
「ああ。…夕夜も、おめでとう」
「ありがとっ。それでね、お祝いといっちゃなんだけど、ひとつお願いがあるの」
「……何?言ってみな」
ずっと、一緒にいたいって。
「ほんと?聞いた後に嫌だって言わない?」
「言わねーよ。だから言えって」
絶対、離れることなんかありえないって。
「約束だからね?」
「ああ」
そう、思うから。
「あたしと、結婚して」
「いいよ?」
「―――え!!いいの?」
「……なんだよ、言ったのおまえ自身だろ?」
穂高が訝しげな顔をする。
「そりゃ、そうだけど…」
夕夜は、戸惑った。
朝から決めていた一大決心。それが、こんなあっさり受け入れられていいものなのだろうか。
そりゃもちろん、嬉しいのだ。嬉しいのだけれど。
腕を組んでうーんと考えはじめる彼女に、穂高はむっとした声で問う。
「なんでまた考えてんだよ。やっぱり嫌だとか言うなよ?」
先ほど、夕夜が言った言葉をそのまま返す。
「ち、違うよ!そーゆーことじゃなくて」
「じゃ、問題なし。どーせこの先何年経っても、隣にいるのはおまえ以外考えられない。だからだろ」
おまえもそう思ったから、結婚なんて言葉、出したんじゃないのかと。穂高は、そう聞いているのだ。
「…うん」
思考を見事に当てられて、夕夜はおとなしく頷いた。
「今すぐってわけじゃない。将来的な話、でいんだよな」
「それも、うん」
「じゃ、婚約だな」
「こ、婚約っ?」
「世間一般ではそー言うだろ?結婚の約束のこと」
まぁ、どうせ子どもの口約束だけどな。
穂高はそう言って、肩をすくめた。けれどその直後に、
「でも」と真剣な表情に変わる。
「口約束だけで終わらせるつもり、ないから」
思わずドキッしてしまう。
「うん…」
以前、穂高の家のキッチンで、冗談で結婚の話をしたときのことを思い出す。あの時ははぐらかされてしまったけれど、今の穂高にそんな雰囲気は全くなくて。 夕夜はそれが、本当に嬉しかった。
「夕夜。俺からもひとつ、誕生日のお願いがあるんだけど」
「いーよ?なに」
「欲しいものがあるんだ」
「高いのは無理っ」
間髪入れずに叫ぶ夕夜に、穂高は思わず吹き出した。
「馬鹿。違うよ」
馬鹿!?
憤慨する夕夜など歯牙にもかけず、穂高は『欲しいもの』を続ける。
「夕夜が欲しい」
「…ふぇっ?」
驚きのあまり変な声が出た。
「あた、あた、あたし!?」
「そう」
「どどどどーゆう意味でっ」
「どーゆう意味って…そーゆう意味?」
「ばっ…ばっかじゃないの!?」
「なんで」
「なんでって」
真っ赤になってあたふたとする夕夜を穂高は笑いながら、とても可笑しそうに抱きしめた。
「…ちょっと、もしかしてからかってない」
「からかってない。大真面目」
そっ、それもそれで困る!!
「おっまえ…顔に出すぎ。なにも今日って言ってるわけじゃないんだから」
あ、そうなの?
夕夜はほっと体の力を抜いた。
「…そこまで安心されるのも逆にむかつく」
「えっ、あっ、ごめん」
「いーよべつに。…先は長いし気長にいくから。…な?」
疑問系で覗き込んでくる穂高の顔は、とても妖艶に笑っていて。
夕夜は、恥ずかしさから顔を逸らした。
「なぁ夕夜、おまえ気づいてた?」
「…なにが」
依然としてお互いの体に手を回したまま話す二人の横を、興味津々な眼差しを向けながら、同じマンションに住んでいるおばちゃんがひとり、通り過ぎていった。
そういえばここは外だったと、はっと我に返る。
そそくさと、人ひとり分の距離を取った。
「ごほん。…で、何が?」
「…あのさ。何気に、ちゃんとしたデートって今日が初めてだったんだよな」
夕夜はぱちくりと数回瞬きすると。
「…そーだっけ」
「そうだよ。俺は、すごい楽しかったけど、おまえは?」
何当たり前なこと聞いてんの?馬鹿はそっちじゃないの。
と、その時夕夜は思った。
「楽しかったに、決まってる。隣に穂高がいたから、だよ?」
にっこりと、目の前にいる穂高を見上げた。
「どーしておまえってそう……」
「?」
穂高が、再び夕夜を有無を言わさず、その腕の中に閉じ込めた。
そしてそのまま、後頭部を右手で支えながら、距離を近付ける。
「ふわぁっ、ちょ、ちょっと」
「なに」
「人が見るってば!」
「平気。誰もいないから」
事もなげにそう言って、穂高は唇を合わせようと、その綺麗な顔を傾けた。
さらさらと、黒髪が頬に擦れてくすぐったい。
ごく近くの耳元で、穂高が焦れったいほどゆっくりと、とびきり色気のある声で、何事かを囁いた。
「!!じょ、上等よっ」
その言葉に、夕夜は瞬間的に赤くなり―――。
そうして、広場に伸びていたふたつの男女の影は、徐々にひとつに溶け合って。
二人は、時計塔の下で、キスをした。
喧嘩して。
仲直りして。
落ち込んだり。
綺麗な景色を見たり。
励まされたり。
キスしたり。
ここで、いろんなことがあった。いろんな、思い出ができた。
そして、きっとそれはこれからも続いてゆくんだろう。
それは、自分たちだけではなく―――共に年月を重ねてきた、この時計塔だって覚えているはずだと、夕夜は思った。
唇が離れて、二人は視線を合わせてどちらからともなく、笑い合う。
幸せだと、心から感じた。
「ねぇ穂高。これからもよろしくね」
「……離れたいって言ったって、離さないから?」
―――それから。
夕夜と穂高は、手をつないでマンションに入っていった。
すっかり陽が落ちた藍色の暗闇のなか、広場の中央に堂々と鎮座している時計塔が、六時の鐘を鳴らす。
それはまるで、結婚式で鳴らされる祝福の鐘のようで。
―――辺り一帯に、その音色を響かせていた。
『……いつか必ず、心も身体も俺のものするから』
『!!じょ、上等よっ』
‐完‐