第二十九話 思い出にしたくない。《前編》
いろいろとスイマセン(ノ△<。)゜。
―――気まずい。
半端じゃなく気まずい。
夕夜は穂高の大体三歩前をぎこちなく歩きながら、猛烈に思った。
教室を出てからこっち、一度も穂高の顔を見ていない。というか、見れない。
昼休みは自分から誘っておいて逃げ出すし、こちらから話しかけることなどできるわけもなく、ひたすら息を詰めて重い足取りで夕夜は道を歩いていた。
せめて穂高からなにか話しかけてくれれば、「あははー。あたしの担任、とことんおかしいわよね」とかなんとか(多少強引にでも)、笑いに変えることができるのに。
「はあぁあぁぁ〜…」
夕夜は大仰にため息をついた。
一方、穂高はといえば―――。
今のため息を聞き取り、敏感に反応していた。こちらもこちらで、色々と考えているのだ。思い返せば昼間のあれ―――顔を近付けた自分に、いやだと彼女は言った。
そして今の、この態度。
一緒に帰っているというのに、ゆうに二メートルは離れているではないか。
まさか―――。
(き、昨日のアレが原因か?)
乱暴なディープキスがいけなかったのだろうか。
穂高は内心めちゃめちゃ焦っていた。夕夜に、引かれたかもしれない。…はっきり言って、それはかなりまずい。ショックである。それに、彼女の担任が言ったあの言葉にだって、過剰に拒否反応をしすぎな気もする。
―――けれど、自分だって健全な男子高生である。ちょっとくらい、その、手を出してしまうのは許してほしいと思うのは駄目なのだろうか。
…試しに、後ろから手を繋いでみようと思う。
彼女は、振り返って笑うのか。それとも、また…。
穂高はそっと近づくと、ぷらぷらと揺れている彼女の左手を、無言でさらってするりと指を優しく絡めた。
「ひゃっ」
途端、夕夜は身を硬くして―――穂高の手を振り払った。
「さっ…触らないで!」
そう叫ぶと、もう見えているマンションに向かって全力で疾走するのだった。
…穂高は、行き場のなくなった右手を、ぎゅっと握りしめて。
「は…、決定、的」
自嘲ぎみに呟き、笑うしかなかった。
「はっ…、はぁッ、はぁ」
時計塔の下までたどり着いた夕夜は、乱れる呼吸をどうにか抑え、後ろを振り返った。
穂高が追ってくる気配はないけれど。
…ど、どうしようー!
また、逃げちゃった!
自分がしでかした事に青ざめた。
だって穂高の手の繋ぎ方がなんかいやらしくて、びっくりしちゃったんだもん!でも、穂高絶ッッッ対怒ってるわよね !?
あわあわと右往左往し、どう弁解しようかと考えを巡らせる。ふいに、じゃりっと地面をこする足音が耳に届き、そちらを振り返った夕夜は―――。
「ほ…穂高?」
息を、呑んだ。
「…夕夜」
彼がなぜか―――。
「あのさ」
「…う、ん」
今にも、泣きそうな顔に見えたからだ。
彼が次の言葉を告げようと開く唇の動きが、やけにスローモーションで見えて。
「―――傍にいなくていいよ」
「…え…?」
空耳、だろうか?彼は今、『傍にいなくていい』と言わなかったか―――?
「無理に傍にいなくていい。…いやなんだろ、俺が」
「なっ…」
穂高のことが、いや?
なに言ってるの。
そうすぐさま反論したいのに、夕夜はあまりの衝撃にすんなり声が出てこない。
「昼休み。いなくなる前近寄った俺にやだって言ったよな。今だって、触れられるのを嫌がった」
違う!違うよ穂高、それは…嫌なんじゃなくて、ただ恥ずかしかっただけなんだ。
パクパクと、水面でもがく金魚のように口を動かした。けれどそれでは、言いたいことは伝わるはずもない。
「は…また時計塔の下ね。俺、ここにいい思い出ないよ」
苦笑いしながら穂高は高い高い時計塔を振り仰ぐ。針は午後五時を指していた。
「喧嘩したときもここ。おまえが最初に隠しごとをしたのもここ。…木原に連れていかれたときだって、ここだった。それで今も時計塔の下にいるなんて、ほんと、何の因果だろうな…」
穂高は俯いて黙ってしまった。
「―――やだっ…!」
気づけば夕夜は、何も考えずに叫んでいて。
「ここに良い思い出ないなんて言わないでよっ?」
「なッ…うわっ?」
ずかずかと穂高に歩み寄ると、胸ぐらを鷲掴み自分の方に引き寄せて、自分の唇と穂高の唇を重ね合わせた。
「―――っ…」
そのまま数秒。
「はっ…、ゆう、や?」
しばらくして唇を離した夕夜は、至近距離で、穂高を見つめたまま宣言した。
「この場所に良い思い出がないなんて言わせない。あたしが初めて自分から穂高にキスした場所。これでもう時計塔の下は良い思い出の場所になったわね」
「―――」
完全に意表を突かれた。
穂高は目を丸くして、今だ胸ぐらを掴んで離さない、意志の強そうな、自分の恋人の瞳を見た。途端、おかしさが込み上げてくる。
「ふっ…」
「なによ」
「おまえって、本当に飽きない奴」
「あんたがバカなこと言うからじゃない」
「…確かに、もうここに良い思い出がないなんて言えないな」
穂高は相好を崩して柔らかく笑う。
夕夜はその笑顔にきゅんと来たりしたのだが、悔しいから言ってやらないことにした。
「夕夜」
「なに?」
「覚悟できてるんだろうな?」
「は…、え、何の」
わけが分からず首を傾げる。
「―――昨日の、埋め合わせ」
「う、うめあわせ?」
どうしよう。なんか奢れとか言われるのだろうか。
「…金ならないわよ」
「違う」
「…じゃあ、何」
「―――今日の残りの時間はずっと俺の傍にいろ」
「なっ…」
直球な穂高の言葉に面食らう。
「文句が?」
「う…ない、デス」
ていうか、穂高。
それって逆に、あたしへのプレゼントになっちゃうわよ?
「じゃあ、部屋行くか」
言うが早いが、穂高は夕夜の手を取ると、スタスタとエレベーターに向かって歩く。
「ど、どっちの部屋?」
「―――俺の」
穂高は振り向くことさえせずに、静かに答えた。
穂高の部屋―――。
それだけでドキドキするのは何故だろう。
途中、エレベーターの中でまた昨日のキスを思い出して一人悶えたりしながら、夕夜は黙って穂高に手を引かれていた―――。
土曜日に更新します。