第十七話 悪あがき≧決定打
―――血で染められたみたいに真っ赤だな。
夕陽に彩られた夕夜を見ながら、穂高はぼんやりとそう思った。
「っ、逃げてんじゃないわよ」
言いながら、夕夜は一歩一歩穂高との距離を縮める。
「避けないでよっ」
また一歩。
「…いつもの俺様なアンタはどこ行ったのよっ?」
もう手が届くような近い距離で、夕夜は穂高をしっかりと見つめて言った。
「夕夜…」
小刻みに震えている。
強気な言葉とは裏腹に、瞳からは今にも涙が零れ落ちそうだ。
それでも、大きく目を見開いたまま一生懸命、涙が零れないように気張っている。
―――こいつは昔からそうだ。
なんでかは知らないが、泣いたら負けだと思ってる。
「ねぇ、穂高。あたし、あとちょっとで分かりそうなの」
「え…?」
「栄理が言ってたこと」
なんのことだ、と問う前に夕夜の言葉で思考を遮られる。
「だから、愛想尽かさないで。もう少し待ってて。…お願いだから…。それにまだあたし、」
言ってないことがあるの…。
そう小さく呟いたっきり、夕夜はうつむいたまま動かなくなってしまった。
「ゆう…」
「それは黙ってみてられないなぁ」
「………………木原」
いきなりの第三者の介入に、穂高は一気に眉間にしわが寄る。
「あ、なんだ。穂高くんしっかり名前覚えてんじゃん」
「………………」
相変わらずのむかつく笑顔をむだにきらめかせながら、朔眞は穂高と夕夜の間に割って入った。
纏うオーラは黒い。
ごく自然な手つきで、すいっと自分の後ろに夕夜を隠してしまった。
間髪入れずに、それは自分がするはずの行動なのに、と思った。
でも言えない。
「今の君が夕夜ちゃんに『何か言う』資格があるのかな」
朔眞は、ものの見事に穂高の心のなかの声を代弁した。
こいつ…気づいてる?
俺が夕夜に―――告白しようとしてること。
「穂高…何で?何で黙ったままなの」
「そりゃあねぇ。図星だからね〜」
「あんたに聞いてない」
「夕夜ちゃん、まだ穂高くんのことかばうんだ?…穂高くん、君に対してひどいことしたのに」
びく、と穂高は反応する。
「ひどいことなんか…!」
「してないって言うの?」
一瞬ちら、と穂高へ視線を向ける。
「夕夜ちゃん。君が夜中に僕の家に来てる理由も聞かずに一方的に怒ったのは、穂高くんだよね?…その後理由を言おうとした君の言葉を聞こうとしなかったのも穂高くんだ」
「それはっ、…そうだけど」
「まだあるよ。それからまぁ軽く一週間は、穂高くんは君の存在を無視してた。…やっぱりこれも一方的に」
「………っ」
なまじあれが本当にショックだっただけに、夕夜は何も言えない。
そしてそれは穂高も同じだった。
忌々しいが、朔眞の言っていることは全部事実で、反論のしようがない。さっき彼が言ったように、穂高はこのことで『自分には夕夜にきもちを伝える資格があるんだろうか』。…そう迷っていた。
そして朔眞はそれをはっきり指摘した。
…図星以外の、何者でもなかった。
「君って形成悪くなるとすぐだんまりだよね。―――情けない」
「ッッ!!ふざけないで!!!」
「ちょ、夕夜ちゃん」
夕夜はめちゃくちゃにすぐ目の前の朔眞の背中を力任せにぶっ叩く。
「穂高のことバカにすんな!!!!」
自分のことはいくらバカにされたっていい。でも、穂高のことをバカにするのだけは許せない。
「いた、まっ…、痛いって」
「るっさぃ!!」
「あぁもう…」
振り向いて、朔眞は振り下ろされた夕夜の拳をパシッと掴む。
「離せ!!〜〜〜ッッ」
「…落ち着きなって」
「やだ!!穂高っ、穂高!!」
痛切な夕夜の叫びに、穂高は激しく揺さぶられた。
「なんでもいいから反応して!!あたしは…またこの大事な時に、あんたと離れたくない!!」
「………っ」
大事なとき?
―――ちょっと待て…なんだ、この感じ。
ここでまた穂高は妙な焦燥感を感じた。
まるでフラッシュバックのようにその一瞬、脳裏に映ったのは。
…あの朝見た、妙に綺麗に片付けられた夕夜の部屋だった。
頭痛がする。
―――っ、なんでこんな時に、こんな映像が。
嫌なものを追い払うようにぶんぶん、と頭を振って、穂高は夕夜を自分の腕のなかに取り戻そうと足を一歩ふみ出した。
だが、ほぼ同時。今の今まで暴れていた夕夜が、朔眞に両手を掴まれたままぴくりとも動かなくなった。 こちらから見るかぎり、朔眞が夕夜に何かを言っているようだが――……。 「?夕夜?」
みるみる内に、夕夜は顔面蒼白になっていく。
明らかに様子がおかしい。
「夕夜」
すぐに近づいて、後ろから朔眞の肩を力任せにガシッと掴んだ。
「おまえ、こいつに何言った?」
「痛いなぁ。穂高くん、無駄に力強いよ」
「何言ったんだよ!?」
「…っ、僕は別に大したことは言ってないって」
「嘘つ…」
「穂高!!!」
…穂高の言葉を遮ったのは、他の誰でもない夕夜自身だった。
おおよそ予想もしていなかった人物に止められ、穂高は少なからず当惑した。
「…なんで」
「っ、もう、いいから…」
そう言う彼女の表情は、どう見たって「もういい」と思っている表情じゃない。でも頑としてそれを譲らない。
穂高に理解できることは、夕夜が朔眞に何か言われたことで相当のダメージを受けたことと、少なくともそのことで穂高に助けは求めていないということだ。
ものすごい大きさの虚無感が、穂高を襲った。
「…行こ?夕夜ちゃん」
「………ッ」
嫌そうな顔はしたものの抵抗らしい抵抗は見せず、夕夜はされるがままに腕を引かれて時計塔の下に位置する広場から、エレベーターのある方へと連れていかれた。
残された穂高には、何もできなかった。
追っていって夕夜の名前を呼んでも、また拒絶されるような気がしたからだ。
エレベーターで七階まで昇ってそこから降りて、二人は自分たちの家に向かって共同通路を歩く。
「………卑怯者」
今までずっと黙ったままだった夕夜が、ふいにぽつりと呟いた。
「卑怯者、卑怯者、卑怯者…!!」
狂ったように何度も繰り返す。
「―――人聞き悪いこと言わないで欲しいなぁ」
「実際悪いじゃない!!…何であんたがあのこと知ってるのよ?」
「…………何のこと?」
「とぼけないでよッ」
荒い呼吸を繰り返しながら、夕夜はさっきの出来事を思い出す。
―――あの時。
暴れる夕夜の耳元で、朔眞はこうささやいた。
『…ロサンゼルス』
『―――!!』
『君、今週末に引っ越すんだってね。…穂高くんには言ってないみたいだけど』
『…っ』
『バラしてもいーの?』
『!やめてっ。…分かった、から…』
―――夕夜はもう、黙るしかなかった。
これだけは、どうしても自分の口から言わなければ。…そう、思うから。
「あんた…最初からあの広場にいたでしょう」
自分の家の扉の前についても、両者ともに中に入ろうとはしなかった。
「あれ、気づいてたんだ。別に隠れてたわけじゃないよ?」
「…見てれば分かるわよ、そんなの。ただ―――」
「どうしてあのタイミングで邪魔したのか、って?」
「……………」
沈黙=肯定だと朔眞は受け取る。
「そりゃあ、君が気づきはじめてるからだよ」
自分のきもちを、自覚しはじめてるから。
「え?…最後の方、声小さくて聞こえなかったんだけど」
すると朔眞はにこりと笑う。
「それでいーよ。夕夜ちゃんさ、この前『朔眞があたしに構うのは、なつかないのが珍しいだけだ』って言ったでしょ?」
「…それが?」
「あれ、…やっぱり違うんだよね」
「え…」
朔眞が至近距離まで近づいた。
…夕夜の勘が働く。
朔眞のこの雰囲気、ヤバイ気がする。
今まで危ない目にあったとき、こいつはいつもこういう空気を出していた。
後ろ手でガチャ、と扉を開ける。…いつでも逃げ込めるように。
「ねぇ夕夜ちゃん。君、穂高くんに『あと少しで分かりそうだ』って言ったよね」
「…だから?」
―――決定打を与えてあげる。
「え…」
決定打?
考えている間に朔眞はもともと近かった距離を、さらに詰めた。
「…!寄らないで」
「夕夜ちゃん、忘れたの?―――僕が君のこと彼女にしたいって言ってること」
次の瞬間、朔眞は夕夜の腕をぐいっと引っ張ると、自然な動作で夕夜の唇に自分の唇を重ねた。
―――一瞬、何が起こったのか分からなかった。
それくらい朔眞の動きは自然だった。
ほんの数秒、ホントに重ね合わせるだけのものだったけれど。―――キスしたことに変わりはない。
「夕夜ちゃん?」
反応がない。
一発くらい、殴られる覚悟でしたのだが。
その彼女は、正面で突っ立ったまま目を見開いている。
不思議に思い、顔を覗き込んだと同時。
―――夕夜の瞳から、大粒の涙がぼろっと零れおちた。
「…………!!」
殴られるよりも大きな衝撃が朔眞を襲う。
「ゆ、夕夜ちゃん!?」
自分でキスしたくせに、あたふたとみっともないあわてようだ。
そのまま声もなく泣いたと思えば、彼女は無言のまま自分の家のなかに入って行った。
「夕夜ちゃん!」
一度閉められた扉を開け、後を追おうとした瞬間。中からものすごいスピードでフライパンが飛んできた。
「………!!!!」
危機一髪扉を閉めて回避する。
扉のすぐ向こうで、フライパンがぶち当たってすごい音を立てて床に落ちた。
ビリビリとした衝撃が、扉を通じてこちらまではっきりと伝わった。
心臓が早鐘を打っている。
「あー…死ぬかと思った。―――今日はもう、会ってくれないだろうな」
扉からそっと離れる。
そこへちょうど、下から上がってきた穂高が現われた。
「あ、穂高くん」
「………………」
「そんな怖い顔しないでよ〜。―――あのさ」
「…何」
穂高は嫌々返事をする。
ホント言うなら、今ここで一発殴りたいくらいだ。
…結局は最終的に夕夜を連れていかれたことへの嫉妬なのだけれど。
「夕夜ちゃん、きっと明日は様子がおかしいと思うんだけど〜」
「は?」
「僕がここまでやったんだから、どうにかなってくんなきゃ困るよ?」
そうして無邪気に笑う。
「最後の悪あがきだよ。…攻撃力が最も強い、ね」
まるで何かひとつ物事を達成したときのような、そんな笑顔だった。
―――感じてしまった嫌な予感。
今度は何だ…?
当たらないで欲しい、夕夜お墨付きの百発百中の自分の勘。
夕夜に何があった?
…夕夜に、何をした?
「じゃ。
…あとは君次第、だからね」
穂高の返事を待たずに、朔眞は意味深な言葉を残して自分の家へと消えた。
まぶしいほどに赤かった夕陽はもう落ちて、あたりは何も見えないくらいに真っ暗だった。