第十三話 回りはじめた歯車
その後穂高は、先を歩く夕夜に追いつき、二人そろって8階までエレベーターで昇った。
―――どちらも何も言わないけれど、今はその空気はあたたかいものだった。
チン!と鳴って扉がひらく。
「あーっ夕夜ちゃん!」
「…げ」
そこにいたのは。
THE・空気の読めない男…木原朔眞だった。
夕夜は一気にテンションが下がるのを感じていた。
「遅かったじゃーん、だいぶ待ったよ?」
…穂高の眉が、ピクッと上がる。
まっ…また穂高の機嫌悪くなるじゃない!
「…やめてよね!誰も待っててなんて言ってないでしょ!?それより、あんた早く家に入りなさいよ!!」
「えー?ひどいなぁ。てゆうか夕夜ちゃん、あんた…?」
にっこりと黒い笑顔で微笑まれれば。
「〜〜〜〜ッッ!!早く家に入りなさいよ、“朔眞”ッ」
そう言わざるをえなかった。
「は?朔眞?」
…反応したのは、穂高。
怒られる!?
なぜか反射的にそう思った。
「そうだよ〜、俺らそういう仲なの。ね、夕夜ちゃん?」
「そ、そういう仲って何!たかが呼び捨てしただけじゃない!勝手なこと言わないで!」
「そんな照れないで〜」
「気持ち悪いし照れてない!!」
いつもならこういう時、夕夜ならば『あんた何言ってんの?寝言は寝て言え』くらい、言うのだろう。
だけど今回は、その夕夜が、必死になって否定している。
―――穂高にとっては、逆効果だった。
むしろ、変に勘ぐる。
「…夜のお楽しみもあるしね〜?」
覗きこむようにして、朔眞が夕夜に言った。
「…夜のお楽しみ?」
静かな、ドスの効いた声。怖いくらいの無表情。
「ちがっ…!これは」
ただの晩飯の差し入れのことでしょー!?
「誤解を招くようなこと言うな!!」
「だって、ホントのことだし」
焦る夕夜をよそに、朔眞はあっけらかんと言う。
「穂高、ホントに違うの!朔眞が勝手に言ってるだけで。それに、もとはといえばおか…」
お母さんが。
そう、言おうとしたのに。
「もとはといえば、何?」
穂高の冷たい目に、何も言えなくなってしまった。
「…っ」
木原朔眞が言うほどではないにしろ、何か俺には言えないやりとりがおまえらの間であったのは事実なんだろ?
そう口に出すことはかろうじて抑えた穂高だが、自分には分からない会話が朔眞と夕夜、二人の間で成り立っている。
それだけでもう、穂高が怒ってしまう分には充分なのだ。
夕夜だって、木原朔眞のことは嫌っていたはずなのに。
「俺もう、おまえの考えてること分からない」
「穂高!」
「俺が家に入る。おまえらは…二人で話してな」
「ほんとー?嬉しいなぁ、ありがとう」
そんな…。穂高?
「待ってよ!」
引き止めようと伸ばした手は避けられて。
「じゃあな」
玄関の扉は、重い音を出して閉ざされた。
「…ただいまー。…どうしたの、夕夜」
たった今仕事から帰ってきた絵里は、家に入ってすぐとてつもなく暗い夕夜に気づいた。
「やめてよもぉー、家の雰囲気まで暗くなるじゃない」
うるさいなぁ。
そう返ってくるのを予想しての言葉だったのだが。
「………どうせあたしなんか」
そう言ったっきり、夕夜はリビングのソファーの上から動かない。
しかも、常時体育座りだ。
この子がここまで落ち込むなんて!
…穂高君絡み?
何ていったらまた地雷を踏むだろう。
あえてノータッチで絵里は晩ご飯の支度を始めるのだった。
ご飯も食べおわって、来たるはお隣への差し入れの時間。
「いきたくない…」
「だめ、餓死してたらどーすんの。あんたのせいになんのよ?」
嫌がる夕夜の背中を押して、絵里は外へと送り出す。
とぼとぼとした足取りではあるが、夕夜はちゃんと朔眞の家に向かっていた。
「朔眞、来たよ。開けて」
「はーい。いらっしゃい」
その様子を、偶然外に出てきていた穂高に見られていたことも、知らないままに。
「…なんで、夕夜が?」
―――風が、ビュウ、と強く吹いた。
「んーっ、ごちそうさま。おいしかった。夕夜ちゃんのお母さん、本当料理うまいね」
「…そぉ?別に普通じゃない…」
「いや、充分おいしいよ!!」
やけに力を込めて、朔眞は一言一句噛み締めるように言った。
「これ、すごく大事なことだと思う!」
握りこぶしまで作って、高々とあげている。
空になった容器をまとめながら、夕夜は若干気圧された。
「あ、あそぅ…。良かったね」
…何か過去に、相当まずい料理でも食べたんだろうか。
―――ひと通り片付けが終わって、手が空いた。
そうなると、知らぬ内に考えごとをしてしまう。
…考えるのはもちろん、穂高のこと。
「…どうしたの?なーんか上の空だね」
…どうしたのって…あんたのせいじゃない。
「さては、穂高くんに嫌われちゃったから?」
…別にまだ嫌われたとは決まってません。
「て、僕がいらないところで出てきたせいか。ごめんね?」
だから…本当に悪いなんて思ってもないくせに。
「悪いと思ってんなら、もうあたしに関わんないでよ」
今は、誰に何を言われても、つっけんどんにしか返せない。
…本当は、分かってる。
別に、朔眞ひとりのせいじゃないって。自分にも責任はあるんだから。
そう、思いはしても。
「あははー、楽しいなぁ。夕夜ちゃんと穂高くんがケンカして、しかも君がここにいる」
朔眞のこの態度に、素直にやつあたりだと到底認められるわけがない。
「何で穂高くんあんなに怒ったんだろうね?」
何それ、いやみ?
でも…確かにそうだ、と夕夜は思う。
ただ、穂高にこの差し入れのことを言ってなかったというだけにしては、怒りすぎな気もしないでもない。
「…夕夜ちゃん、僕の家に毎日差し入れに来てるってこと、穂高くんに言ってなかったんだね」
「それは…」
確かにその通り。
夕夜は軽く口ごもる。
「なんか、すごく意外。君と穂高くんて、お互いのこと何でも知ってるんだと思ってた」
「…そんなこと全然ない」
―――成長すればするほど、知らないことが多くなって。
…少しだけそれがドキドキして、少しだけそれが淋しい。
そうしてまた俯きがちになる夕夜を見て、朔眞は呟いた。
「―――僕にすればいいのに」
それはホントに小さな声で。
「え?」
夕夜は聞き返してしまった。
「だから」
言葉を切って、彼はご飯を食べるために座っていた椅子から立ち上がると、斜め向かいにいた夕夜へと近づく。
「僕にしなよ。君がうん、とさえ言えばいいんだよ。…穂高くんより優しいし?ちょーうお買い得じゃん」
ねっ?と笑顔を向けられる。
「…どうしてこんな時にそんな冗談言えんの」
「やだな、こんな時だからこそだよ。君が弱ってるとき、狙い目じゃん。それに…冗談じゃないし?」
相変わらず、ヘラヘラと笑ったままで言う。
「………やめてよ」
それを夕夜はギ、と睨みつけて。
「ヘラヘラしてる内は、あんたの言葉なんか信用できない。朔眞は、簡単に自分に懐かないあたしが珍しいだけなのよ」
きっぱりと言うと、夕夜は空の容器を掴んで逃げるように家を出ていった。
「…キッツいこというなぁ夕夜ちゃんは」
残された朔眞は、ただ静かに笑ってそう言った。
―――次の日の昼頃。
朝から気分の上がらなかった夕夜は、だんだんと片付けられてきた自分の部屋を眺めていた。
整然としている部屋は、なんだか自分らしくない。
「…穂高が見たら、なんて言うかなこの部屋」
常時ものだらけだった自分の部屋だ。きっと、ビックリするだろう。「明日、地震でもおきるんじゃないの?」くらい言うのだろうか。
「あは…なんか想像つく」 床に置かれた段ボールの上に頬をのせて、小さく小さく呟いた。
「どうしよう…そろそろ、言わなきゃ駄目だよね」
何日も、何日も前から言えなかった隠しごと。
おまえは嘘つくの下手。
何を隠してるのか教えろ、と二度三度言われても言えなかったこと。
それが、これだ。
「ロサンゼルスか…」
―――夕夜は、引っ越しを2週間後に控えていた。