サクラノ約束
現在改稿している愛玩乙女、連載終了した愛玩乙女続編PureCureの短編となります。
できれば本サイトの連載終了した愛玩乙女と併せて読んで戴けるとより分かり易いと思います。
冷たく、細い糸のように降り続ける雨の中、怠惰で無感情に過ごしていた僕の前に、とてもとても綺麗な仔猫が暗闇で心細いのか、震えて泣いていた。
その仔猫は、蕩けるような金の髪に、何もかもを見透かしてしまいそうな灰色の瞳を持った、小さな少女。
膝を抱えて打ち震える姿を見た瞬間、僕の中に懐かしい記憶が湧き上がるのを感じた。
あれは、そう──まだ僕が人形と自分で呼んでいた感情も意志も押し殺していた少年時代。
父の伴でどこかの会社の会長宅に向かった時の事。
何て名前か忘れてしまったけど、桜の花が雨のように舞い散っていたことだけを憶えている。そして、そこに居た陽だまりのような姿をした幼い女の子の事を──。
薄い青の空に、更に白い雲がたなびく春の午後。運転手が開いてくれた扉を降り、僕は霞んだ空を見上げる。
瞳に映る風景さえ、いつのころか僕は感動さえ憶えなくなり、ただ”目に映る”だけだった。
「敬夜」
父の静かで重厚な声が耳に届き、抑揚なく「はい」と返して歩きだす。
振り返った僕の眼前には父の背中と、その先の碗木門のある平格子の引き戸の左右に、よく京都の街で見かける竹でできた犬矢来の緩やかな曲線の囲いを認めた。風靡な佇まいに、料亭なのかな、と思案しながらも、いつのまにか口を開けて先に進んでいた父の後を追い、僕も続く。
だが、最初に考えていた料亭というのは違うようだ。雁掛けに並べられた飛び石の上を歩き、行き止まった僕の目の先には”紫藤”という力強い毛筆の文字で書かれた表札があった。
どうやら個人宅のようだと冷静に考えながらも、洋風な建築で育ってきた僕の目にはとても新鮮に映った。
父が格子戸を滑らせ開くと広い三和土があり、上り框の艶光りする上に和装姿の老齢の女性が僕等を出迎えるように正座で佇んでいた。
「ようこそ宮城様。お久しぶりでございます」
微かに衣擦れの音をさせ、三つ指揃えお辞儀をする女性に、父は小さく頷くと。
「お久しぶりです、紫藤夫人。本日はお時間を戴きありがとうございます」
「いえ、主人も宮城様のお越しを楽しみにされてましたので」
多分、この家の主夫人である女性は、父からの言葉に顔を上げ、そっと微笑み返す。随分歳を召しているが、その笑みは柔らかく、もし、母が生きていたら、こんな感じに微笑んでいたのだろうかと思い馳せる。
だけどすぐに否定に緩くかぶりを振る。
もう母はこの世にはいないのだ。彼女は殺されたのだ。今、僕の前に立つ己の父に。医師であるにも拘らず、自分の妻を死に追いやったのだ。
『裕躍、敬夜、お父さんを恨まないであげてね……』
死の間際まで、自分の夫を庇っていた母。
何故、どうして、そうまでしてあんな男を庇うのかが分からなかった。
僕は兄の悠躍と母の冷たくなっていく手を握り、知らない感情に理解ができずにいたのだった。
そして、今も母の思いを知る事はなかった。
きっと一生分からないままだろう。僕は感情を捨てた”人形”になったのだから、心なんて失くしたのだから──。
「それじゃあ、暫く話をしてくるから大人しく待っていなさい」
「はい。分かりました、父さん」
応接として使用している和室に通され、夫人が淹れてくれた日本茶を飲み込んだ時、徐に父は立ち上がり僕を見下ろす様にして告げる。それに応えるように僅かに頷くと、了承したと受け取ったのか、父は来た時に通った回り廊下とは反対の襖を開き、あっさりと出て行ってしまう。もしかしたら、これまでにも何度か訪れているのだろうか。
僕は手で包んでいた茶碗を漆塗りの茶托に乗せ、小さく溜息を吐く。
でも、まあ、そんな事は僕には関係ない。父の人間関係なんて、あと数年もすれば関わりなんてなくなるのだから。
こうして父の命令に従っている振りをしているが、あと数年して自立できるようになれば、僕は父の元から離れようと考えていた。
そして、”人形”の僕は独り立ちして、”人間”になる事を決めていたのだ。
それまでは逆らわず、抵抗もせず、操り人形のようにしていればいいんだ。
──本当に……? それで本当にいいのか……?
時折、もうひとりの僕が疑問を投げかけてくる。いつまでも幸せに浸りきった愚かな子供の僕が……。
「本当に、僕は家族を捨てて生きていくんだ」
そうして永遠に、一人で自由な街の海の中を自由に生きていくんだ。誰にも頼らず、自分の力で。周囲に誰も超えられない壁で囲って、自分自身を閉じ込めて、街も人も憎んで、利用して生きていくと決めたんだ。
決して誰にも邪魔させない。
膝の上に置いた拳を固く握りしめ、唇をきつく結び、決意を噛み締めていると、回り廊下のほうから細い鳴き声が耳に届く。
「……仔猫の鳴き声……?」
ふと、微かな声音に結んでいた唇が綻び、疑問の声が漏れる。
もしかしたら、どこからか入り込んできた仔猫が迷子になって親猫を探しているのだろう。
自己解釈をして、すっかり冷めてしまった湯呑茶碗に手を伸ばす。
温めの温度で淹れられたお茶が舌の上で甘く転がる。程良い渋みが喉を通ると爽やかさが口の中に広がっていく。余り日本茶を飲む事はなかったけど、そんな僕にでも茶葉は良い物であると分かった。
正しい姿勢を崩さぬまま、心はお茶の香りで寛でいると、再び細い声が聞こえてきた。
今度は注意深く耳を澄まし聞いてみる。これまで仔猫の泣き声だと認識していたけど、よくよく耳にするとそれは人の声のようにも聞こえた。そう、とても幼い子供の声。
「まさか。この家には幼い子供はいないはず……」
ここに来る途中、父から事前に藤紫家の家族構成などについて聞いたばかりの僕の頭で、父からの言葉を反芻する。世帯主である老齢の主とその妻、そして晩年になってから生まれた娘。その娘は現在海外に行っており、この家には子供はいないはずだ。
「だとすると、この声は一体……」
居ないはずの声。不意に好奇心が湧き、僕は静かに立ち上がると、回り廊下側の襖をそっと開いた。
薄く開いた隙間から目だけを出し左右に動かす。廊下に人影すらなく、それを認めた僕はそろりと廊下に体を滑らした。
周囲に首を巡らせ声の元を探す。人が生きている気配がないほど静寂に包まれたおかげで、声の場所は悩むことなく見付けることができた。
とはいえ、他人の家を好き勝手に動いていいものかと思案する。だが直ぐに否定がよぎり、中庭に続くガラス戸を開く。手入れが行き届いているのか、軋む音ひとつたてずにすんなりと僕を中庭へと招いてくれたのだった。
「……あ……」
中庭に降り立った途端、口からは感嘆にも似た声が零れ落ちる。
一面にソメイヨシノの木々が所狭しと佇み、天からは薄桜色の花弁が風に乗ってヒラヒラと舞い躍っていた。その光景は幻想的で、僕の心をしばし奪っていたのだった。
暫く淡く視界を覆う光景を眺めていたが、本来の目的を思い出して周囲を散策する事にした。
ぐるりと四面を囲っている小さな庭だと思っていたのだが、実際は凹型に一方が開けていて、視界の先は桜の木々で埋め尽くされていた。
僕は今だ消える事のない声と桜に導かれ、木々の合間に身を隠した。
入るまでは陽光に反射した桜の花弁が淡く照らされていたけど、奥に進むに従い埋め尽くすほどの桜花が影を作り、辺りは薄暗くなっていった。
あれだけ綺麗だと感じていた姿が、今はうすら寒く感じる。蠱惑的な雰囲気を桜に対して常に感じていた。そんな思いが更に濃くなっていくようだ。
──……っく、……ひ……ぅ……。
奥に進んで行くごとに鳴き声が明確になっていく。これまで仔猫の鳴き声だと思っていたけど、それは間違いのようだった。
「誰か……いるの?」
こんな場所に居たら、家人にも父にも咎められそうで、僕は声を顰めて周囲にいるであろう声の主に尋ねる。どうやら僕の声は届いてないのか、小さな鳴き声は止まず細く紡がれていたのだった。
それにしても、この声は誰なんだろう。どこか見知らぬ他人の子供が興味本位で入り込んだは良いけど、迷って帰られずにいるのだろうか。
聞かされていた情報を元に思案していると、少し離れた辺りでガサリと茂みが揺れる。それと同時に泣き声は止み、そちらに顔を動かして確かめようとした僕は、現れた影の姿に小さく息を飲んだ。
暗い桜の木々の中で佇むのは、眩いほどの金の髪をし、薄い灰色の瞳を持つ幼い少女だったのだ。
これまで父の伴で外人に会ったことがある。だから外人の子供を見ても驚きはしないけど、この幼女に対しての驚きはそれとは違う気がした。
「……おにいさん……だれ、ですか……」
ふと聞こえたたどたどしい声音に、呆然としていた意識がはっと返る。
まるで鈴を転がしたような軽やかな中にも怯えが混じった声を持つ幼女は、首を微かに傾け僕を見ている。
やはり他人の家に浸入してきた子供なのかな。それならこちらが優位だと思い。
「僕はこの家の主へ父と一緒に会いに来たんだ」
鷹揚に返した途端。
「あ……おじいさまの……おきゃくさま……です、か?」
更に怯えの色を深くさせ少女が告げた言葉に、僕は先程とは違う驚きを瞳に滲ませた。
え……。おじいさま?
「え、と。今、『おじいさま』って言った?」
「……はい、いいましたです」
少女は僕からの質問に惑うことなく、小さく首肯に首を揺らした。
だとすると、この子が主の娘……? いや、この家には娘はいるが、確か海外に留学していると訊いていた筈だ。だとすると、この幼女は一体……。
「おにいさん、ごきぶんでもわるいのですか」
ガサリと葉を揺らす音がして、寸分遅れて意識をそちらに向けた僕のすぐ傍に、幼女は不安そうな面持ちで僕をじっと見ていた。
その小さな女の子を間近に見て気付く。幼女の顔には痛々しいまでの痣が沢山あった事を。
僕は思わず手を伸ばし「大丈夫?」と声を掛けながら触れようとする。だが、幼女は別の意味で捉えたのか、両手で頭を抱え、しゃがみ込み、体を丸めて震えだしたのだった。
「……ごめ……さ……。だれにも……みられちゃいけないのに……おじいさまとの……やくそく……やぶって……しまいました……。ごめんなさい……いたいの……や……です……」
ガタガタと震える幼女から紡ぎだされたのは、僕にではなく誰かに対する謝罪。”おじいさま”と言っているから、相手はこの家の主なのかもしれない。……だとすると、こんな小さな子に折檻しているのも、その”おじいさま”である家の主なのだろうか。
自分が暴力を受けた訳ではないのに、胸に苦い物が広がっていくのを感じる。
不条理な暴力。僕の場合は肉体的ではなく、精神的によるものだったけど、この女の子が怯えるのも痛い位に分かった。
「大丈夫だよ。僕からは絶対に君の事を言ったりしないから」
そっと蹲る彼女の頭を撫でて告げる。するとヒクリと肩を揺らし、ほんとうに? と囁くような問いかけが聞こえてきた。
「うん、約束してもいいよ。だから泣きやんで顔を上げて?」
慄き続ける幼女をこれ以上怖がらせないよう、優しい声音で話す。その声に安心を憶えてくれたのか、おそるおそる顔を上げ、灰色の双眸が僕を真っ直ぐに見詰めたのだった。
それから、僕は幼女が主に咎められないよう桜の木立の深くに行き、その中の一つに彼女と腰を下ろして話す事にした。
余り言葉を知らないのだろうか。たどたどしくも話してくれたのは、自分の好きなことや楽しかったこと、そして怖いけど主や、優しくしてくれる主の妻のことを話してくれた。
だが、その二人が両親なのかと尋ねると、幼女は顔を曇らせる。
「わからないです」
彼女はそうぽつりと言い、押し黙ってしまった。
嘘、だとその姿で感じた。
両親は別にいるのだ。だが、何かの理由で彼女を主に託したのだ。その結果が、こんな小さな体のあちこちに無数の痣を生んだのだ。
僕は会った事もない幼女の親にも、この家の主にも憎しみが湧きあがる。
まだ幼い、こんなに礼儀正しく、綺麗な子に対する酷い仕打ち。それは僕自身と重なり、気付けば必死に耐え続ける幼女を強く抱き締めていたのだった。
「……おにいさん……?」
突然された行為に、彼女は弱い声で僕を呼ぶ。僕はその声に応えず彼女を抱き締め続けた。
自分はなんて非力な存在なのだろう。
父に抗うこともせず、ただ言いなりになって従う毎日。この小さな女の子一人救う事も出来ない。
それなのに、早く大人になって父から逃げる事ばかりを考えている自分。
逃げても何も変わらないと知っているのに、それでも父から離れていく事ばかりを望んでいた。
それに対して、眩いばかりの幼女は自分の存在を認めて貰えないにも拘わらず、懸命に生きている。いつかは愛を与えて貰えると信じている。弱いのに、健気に、でも強くある彼女を尊敬すらしている自分がいたのだった。
強くなろう。そして、いつか必ず彼女をこの檻から助け出そう。その為には本当の意味で”大人”にならなくては。
僕は抱きしめていた腕を静かに解き、幼い彼女に誓う。
「いつか……いつか必ず、君を助けに行くから。それまで待っててくれる?」
幼女は言っている言葉の意味を理解しようとしているのか、しばらく僕を見つめながら押し黙っていた。が。
「おにいさんが、わたしをおむかえにきてくれるのですか?」
「うん。大人になったら必ず君を迎えに行くから。だから待ってて」
頭から滑るように撫で、丸い頬にある痣を包むようにして誓いの言葉を告げると、少女は今までに見たことのない満面の笑みを綻ばせ、はいと頷いたのだった。
約束を交わしたその後、暫くして僕は家を出た。
日々を生きる事、本格的に動き出したバンド活動で多忙を極めていく内に、あの桜の木の下で誓った約束は次第に薄れていった。
彼女は今頃どうしているだろうか。元気で、あの家の主に愛を注いで貰っているだろうか。
時折ふと姿も朧げな彼女を思い出し、僕の足は立ち止まる。それは決まって、桜の花がひらひらと舞い散る春の日だった。
もう、こんなに汚れてしまった僕は、君を助ける事はできない。
だからどうか一日も早く、幸せを見つけて欲しい。そして、あの変わらぬ笑顔で過ごして欲しい。
彼女の幸せを祈る度に、僕の胸はじんわりと温かくなっていくのだった。
そして──。
「──あ‼」
「え、何!? 敬夜?」
結婚して一年目の春。新しいアルバムのレコーディングで久しぶりに帰宅し、惰眠を貪っていた僕は懐かしい夢を見て飛び起きる。余りにも唐突な出来事に、寝室の窓際に居た蜜は灰色の瞳を大きく見開いて驚きの声を上げていた。
「……蜜。変な事訊くけど、紫藤の家って、桜の木が鬱蒼と生えて無かった?」
「うん。あるけどどうして?」
「いや、ただなんとなく訊いてみただけだから」
コクリと頷く蜜に、これ以上の追及をされたくなくて言葉を濁し、ナイトテーブルに置いてある煙草へと手を伸ばすが、不意にその動きを止める。
そうだ。今は蜜の前では禁煙なんだった。
小さく嘆息を漏らし、
「蜜、悪いけど珈琲淹れてくれないかな」
と頼みごとをすると、蜜は嫌な顔を一つもせず笑顔を零して首肯してくれる。
そんな優しい彼女が寝室を出ていくのを見送り、ドアとは反対側の蜜が開いただろう窓から空を見る。
薄い水色の空は、先程見た遠い記憶の空と重なる。それは自分で誓っておきながら果たせなかった約束を思い出し、深く後悔に落胆する。
「今考えてみれば、父さんが蜜に対して協力的なのが分かったよ……」
消沈する頭を立てた膝にコツリと乗せ、今も自分の息子以上に蜜を可愛がる父のことを馳せる。
よくよく考えてみれば、名家の紫藤家と我が家に接点がないのがおかしいのだ。今の今まで気付かなかった自分の愚かさに、気分が沈みこんで行く。
正直、遅々と和解するまで、僕と父の間に深い亀裂があったからなんだけど。それでも、和解してから幾らでも話す機会はあったはずだ。それを言わなかったのは、僕に気付かせる為だったのだろうか。
僕があの日出会った、蜂蜜色の髪の幼い女の子を魔屈から救い出す事を──。
「……いや、あれは単に面白がってるだけだろう」
そうに決まってると否定に考えを纏め、ベッドから下りて窓辺へと歩む。
裸足のままテラスに出た途端、甘い花の香りが鼻腔を擽る。眼下に臨むのは、淡い桜色をした細波。
ずっとスタジオの狭い部屋に閉じこもっていたから気付かなかったけど、世の中はすっかり春めき、桜の花も満開となっていた。
僕は四肢を伸ばし、春の甘い空気を全身に取りこむように吸う。そして考える。
もし、あのまま彼女との約束を忘れずにいたのなら、僕等はどうなっていたのだろうか。
今と同じようにいたのだろうか。それとも……。
「敬夜? 珈琲入ったよ」
ドアの開く音が背後から聞こえ、続けざまに蜜の明るい声が耳に届く。
「ありがとう、蜜」
振り返り、蜜に礼を言うと、言葉に答えるように笑顔を綻ばせる蜜。
変わらない笑みは、僕の心を変わらず温かくしてくれる。
ifなんてどうでもいいか。今大事なのは、僕の傍に蜜が笑顔でいてくれることだ。
僕は蜜に微笑み、幼い頃の思い出を胸の奥にしまい込んだ。
そう、幼い日の約束は果たせなかったけど、僕の傍には蜜がいる。そして遠くない未来、僕等の間に新しい宝物が増え、思い出も降り積もっていくだろう。
春の空を背に蜜の元へと向かう。
少年時代の僕と幼い蜜が手を取り合って、約束を果たした喜びに満面の笑みで再会を果たす姿が淡い空に溶けていくのを、心の中で感じていたのだった。
終