1. 口をきいたこともないわ
「エルフリーダ。君との婚約は破棄する。真実の愛を見つけたんだ」
夜会の真ん中で、王太子は男爵令嬢の手を取る。拍手は起きず、笑い声だけが起きた。
クロヴィスの王冠紋の指輪が、リリアーネの手の上で光る。香水と蝋の甘い匂いがむっと満ちる中、私の指先だけが冷えていく。
幼いころから、この人の隣で祝いの言葉を用意してきたのだ。だから、こんな夜にも私の口は、祝うために開きかけてしまう。
「決められた妻とは暮らさない。私が選ぶ。君も祝福してくれ」
国王主催の夜会なのに、陛下は広間を離れている。母の不調で、父母も欠席だった。
「お父様には、私が帰ってからお話を……」
「伯爵には私から伝える。君は黙っていればよい」
「……それは、どうでしょう」
私はドレスの脇で、冷えた指先を隠すように手を握る。殿下の顔から目を逸らさず、小さく息を吸って、言いかけた声を出し直した。
「父には、私から話します」
殿下の眉が上がる。くすくすという笑いが、扇の陰から私を囲むように広がっていった。
燭台のそばで、黒髪の男だけが笑っていない。北のグラウエン公爵セオドリック。無駄口を叩かず、〈冷血公爵〉と呼ばれる方だった。
「公爵、君も、この選択には……」
紫の切れ長の目が殿下へ向く。クロヴィスは、伸ばしかけた手を引っ込めた。
「……まあいい。今夜は祝いの夜だ」
「男爵の娘でも、殿下に選ばれるのは問題ないでしょう? ふふっ」
リリアーネは私に目を向けたまま、真珠の髪飾りへゆっくり指を添える。
誰が笑い、誰が笑わなかったか。扇の色から指輪の石まで、一度見た顔を私は忘れない。今夜ばかりは、その取り柄が恨めしい。私は背筋を伸ばしたまま、誰とも目を合わせずに広間を出た。
◇
私はエルフリーダ・ヴァイスベルク、十八歳の伯爵令嬢だ。人の名前と顔は一度で覚えるのに、自分の気持ちより先に相手の都合を考えてしまう。
帰宅して、父母に破棄を伝える。母の赤茶の柔らかな目の前では、膝の上で指を握り、涙だけは隠し通した。
侍女が栗の一つ編みを背へ払い、着替えを手伝う。夜会のドレスが肩を離れても、胸の苦しさはほどけない。
「お嬢様、せめてお菓子だけでも召し上がってくださいね」
母と侍女は、温かい菓子を手の届くところへ置いて、部屋を出ていった。
扉が閉じると、もう笑う必要はない。椅子の上で膝へ顔を伏せ、ようやく息を吐く。こらえたぶんだけ涙がこぼれた。
その時だった――――。
バン! といきなり窓が開いた。
「お父様を捕まえに行きますよ」
銀の髪が煌めく少女が窓から入ってきたのだ。
「……あなた、誰?」
紫の目の少女は、十六歳くらいに見える。
夜風が濡れた頬を冷やし、窓の外で足場の光が消えた。
「ルネッタです。十六年後から来た、お母様の娘ですよ?」
「む、娘?! 私には娘なんていないわ。人違いではないの?」
少女は銀の高い一つ結びを揺らし、私の顔をのぞき込む。眉の形は、毎朝、鏡で見ている私のものと同じだ。
「お母様、泣いてる暇はありませんよ。三日後、殿下はあの男爵令嬢に〈王家の首飾り〉を勝手に贈って、陛下に大目玉を食らいますから」
涙を拭いていた手が、布を頬へ当てたまま止まった。
「ちょ、ちょっと待って。三日後って……その話、誰から聞いたの?」
「未来のお母様の昔話です。何度も聞いたので、覚えてます」
少女の指は、私の返事を待たずに、まだ温かい菓子の皿へ伸びる。
「時を越えてきたの?」
「私、天才魔術師なので! ふふっ」
「て、天才って……。本当に天才なら、自分でそう言わないものよ」
「未来のお母様にも、毎回そう言われます! はははっ」
答えと一緒に菓子を口へ押し込み、頬をふくらませる。欠片がこぼれそうで、私はつい皿を近づける。
「ちょっとあなた! なんで勝手に食べてるのよ?! 飲み込みなさい!」
「ふぁい。では、帰る日も説明しま~す」
ルネッタはようやく飲み込み、空いた手で指を一本立てた。
「帰れるのは一年後の一度きりです」
私は窓を閉じる。夜風の冷たさが消えても、頭の中は追いつかない。
「……それまでは、私の部屋にいるつもり?」
「まずは、私が娘だと信じてもらいます」
私は椅子を窓へ向ける。涙を拭いた布を膝に置き、今度は少女の顔をまっすぐ見た。
「信じるにも、確かめられる話がほしいわ。未来の話だけでは、何も比べられないもの」
「今夜、殿下は名前を隠して口止めのお菓子を届けますから」
廊下で父の足音がする。ルネッタは皿からさっと手を離し、カーテンの陰へ滑り込んだ。
「エルフリーダ、届け物だ。差出人がわからぬから、本人に尋ねに来た」
父の鉄色の口ひげの向こうに、菓子箱を抱えた使者がいる。扉の隙間から見えるのは、夜会の控えで殿下の外套を受け取っていた男だ。
「どなたがくださったのですか?」
「お嬢様を慰めたいとだけ。今夜のお話は、ご家族の中に留めていただきたいと……」
殿下に名を呼ばれ、外套を腕に掛けて走っていった背中まで、はっきり浮かぶ。夜会で聞いたその名を呼び、父へ所属を告げた。
「クロヴィス殿下のお使いですね。先ほど広間で、殿下があなたをお呼びになるのを聞きました」
「なぜ名を隠す必要がある? 殿下の使いなら、そう答えよ」
使者は箱を持ち直す。父を見上げたまま唇を動かしかけ、結局、小さくうなずいた。
「……殿下からです。お名前は伏せるようにと言われましたので……」
口止めの菓子が、私と父のあいだで強く甘く匂う。母が残してくれた菓子と、同じ匂いのはずなのに。
「お父様、この箱を受け取れば、私が今夜の扱いに納得したことになりますか?」
「ならぬ。受け取っても、納得したことにはならん。返事はお前自身が決める」
使者の手が、箱の縁でぴたりと止まった。
「では、返してください。私がお父様へ何を話すか、贈り物では決まりません」
父は使者へ廊下を示す。男が箱を抱えたまま先に出るのを見届け、父も扉を閉めた。
カーテンから、ルネッタが戻る。箱のあった場所を指し、胸を張って顎を上げた。
「ほぅら当った! これで信じてもらえますね?」
私は口を開く。うなずこうとしただけなのに、鼻の奥がつんと詰まった。
「……本当だったのね。でも、私はあんなふうに笑われてしまって……。あなたが来たとしてもどうしたらいいか……」
声にした途端、膝の布へ涙が落ちる。悔しさと、当たったことへの妙な安堵が、息を詰まらせるように喉の奥で絡まった。
「泣いてる暇なんてありませんよ?」
「なによ! 泣かせてよ、今夜くらい!」
「だーめ。お父様をどう捕まえるか作戦を練る夜ですから」
私は涙の布を握り直す。湿ったところが指の間に挟まり、ひやりと冷たい。
「作戦って何よ! 私が泣いているの、見えるでしょう?」
「見えます! だから、そのままにしておけません」
娘の指が、乱れた髪へそっと伸びた。
「編んだ髪が濡れちゃってます。私と同じ銀なのに、ぐしゃぐしゃです」
ルネッタは濡れた編み目を指でほどき、器用に結い直していく。髪を引かれるのかと身構えた肩から、少しずつ力が抜ける。
私の翡翠色の目とは違う紫が、手元に伏せられた。娘は布の乾いたところを探し、私の頬に残った涙をそっと拭く。あんなに急かしていたのに、拭い方だけはゆっくりだ。
「……どうして、何のために来たの?」
指先が止まる。答えを待っても、返事はなかった。
蝋燭の芯が、小さく鳴る。私は布の濡れたところを内側へ折り、ゆっくり畳んだ。
「言いたくないことは、今は聞かないわ。でも、父親が誰かも知らないのに、捕まえには行けないでしょう?」
娘は急に背を伸ばす。菓子皿を机の端へ押しやり、私の前にきちんと立った。
「それはお話しできます。でも、聞いても逃げないでくださいね」
「でも、私は捨てられたばかりなのよ? 知ったとして新しい人のところへ、何と言って行くの?」
窓の外はもう真っ暗だ。ルネッタは小首をかしげ――私を見た。
「ん~、とりあえず、お父様とどう会うかですね。北のグラウエン公爵――殿下がいちばん怖がってる人よ? ふふっ」
私の記憶に、笑わなかった男の顔が重なる。殿下が伸ばしかけた手を引っ込め、言葉を失った、あの紫の目だ。
「へっ?! 口をきいたこともないわ!」




