見えてくる
一日目は謝罪。
見下ろしてくる彼女に俺はただひたすらに謝った。もてる限りの語彙を使って謝り続けた。そんな俺を、魔王はただ見つめてくる。そんな気がした。
二日目は言い訳。
俺は騙されている。魔王が妹なわけがないし、消える魔族の耄碌した戯言に過ぎない、憎い存在である俺にこうして罪の意識を着せる為に。向こうの世界の人々が俺に気付かせないようにしていた、きっとそうだ。俺を使って戦いに勝つ為に。魔王が耳元で何かを囁いている気がする。
三日目は。
どうして。なんで。何を。思考も回らなくなって、ここがどこなのかもわからなくなって、自分が誰なのかも認識できなくなって。魔王は俺の首を絞めていた。
俺はどう生きてきたんだろう。何をしたかったんだろう。多くの人を救っていたはずなのに、家族の元に帰りたかっただけなのに。俺は妹を、妹の守っていたものを。誰なんだ俺は、周りも見ずに子どもみたいに自分の正しさを振り回していただけだった。助けてと言われてその手を掴んでいたはずなのに、それまで自分が掴んでいたものがなんだったのかもう思い出せない。
希薄な意識では死ぬことすら過らず、体の感覚だけが研ぎ澄まされて、生命を維持する為に空腹の信号を出すが頭はそんなものに気付かない。むしろ気付いてはいけない。このまま餓死すれば良い。そう思った。
けれど、あんまりにも腹の虫がうるさいもので。目についたティッシュを何枚か手に取って鼻ではなく、丸めてそのまま口の中に。
玄関が叩かれる。大きく、大きく。耳元で囁いていた、魔王は搔き消えた。弱った体で立ち上がり、足を引きずるようにドアノブに手をかける。開けた瞬間、無数の矢が、毒の水が、魔王の剣が飛んで来れば良いな。
そんなトラップなんてあるはずもなく、既に夜空が見えていた。星と月が照らして辺りは少し明るく。夏の熱と気化した雨でしつこい暑さに襲われた。
開けた扉は少し重い。それは気のせいではなく、反対のドアノブに袋がかけられていた。階段をゆっくりと下りる音がまだ耳に響く。
「阿久井さん…?」
階段主はこちらを見上げる。表情に変化はなく、いつも通りの仏頂面。月明かりだけのせいか、少し顔色が悪く見えた。
「なんだ、まだめそめそしてるもんだと思ってたが」
声の主は俺を指さす。違う、もう少し横を指しているようで扉にかけられた袋を指していた。
「どうせ、腹減ってどっか食いに行こうとしてたんだろ。せっかくだから廃棄予定の食材を持ってきてやったんだ」
袋の中にはタッパが入っていて、おにぎりが三つ、卵焼きや桜の形のソーセージ。きんぴらと、お弁当として丁寧に作られた物が入っていた。廃棄も何も、うちは米もきんぴらに使うような料理は無い。
声の主は階段を下りる、足取りが重たそうに見えた。
「待ってくれ!」
思わず呼び止めてしまう。
「…何も言わないのかよ」
どうして自分がこうなっているのか、自分が何をしたのか。勝手に休んで、迷惑をかけて、どうしてそうなっているのか。
「聞かないのかよ」
俺は多分求めていた、慰めを、罵倒を。誰かが何か言ってくれれば、自分の中でその何かを解決すると思って。俺は多分拒絶をしていた、理解を、現実。周りが俺の言葉に頷いてくれれば、勝手にうまくやってくれるって。
「俺は、まだ見てないからな」
その返答は自分に向けられているもの、でもなく。
「お前もまだ見ていない」
まるで言い聞かせるように。
「ちゃんと見れるようになったら、いくらでも聞いてやる、言ってやる」
月明かりを受けてなお、その光彩は暗く深い色をして。まっすぐこちらを見つめてきていた、その奥に煌々とした何かを垣間見せながら。
「お前が本当に、次こそ、諦めなかった時。また見てやる」
何を知っているのだろうか、何を考えているのだろうか。声の主は本当に人間なのか、その視線は俺に向けられているようで、どこかずっと後ろの方を見据えているようだ。その延長線上に俺が映りこんでいるだけに過ぎないように。
また階段を降りていく。次の一歩で地面に足を着ける。
「それと、明日は天気が良い。客も来る、店が忙しくなる」
阿久井は階段を下りると、俺の方を向くことなく。
「ちゃんと定時までに来いよ」
そう告げると、店の方に戻っていった。足取りは最後まで重そうだった。
部屋の中に戻ると、時計が目に入る。時刻はもうすぐ日を跨ごうとしているのに、眠気に襲われる事もなくただ空腹の音が鳴るだけで。
あの人の言っている事はよくわからなかった。何を言いたいのかさっぱりわからないし、何をしたいのか。この部屋に居られるのだってあの人の気まぐれだからで、働かない俺を部屋から引きずり出す事だってできた。
今は何も考えられない、自分が何者であるのか上手く思考することが出来ない。腹が鳴る。
自分の勝手にしてばかりでこうやって引きこもって、外に出る事すら怖くなって。何も考えられず、自分の勝手のせいでこうなっているのに。
全部自分が悪い、俺のせいだ。だから、俺は家も家族も失って、今もこうして無くなっていこうとしている。無くしていってる自覚すらないままに。もう手を伸ばされるような存在でも、掴む資格すらないのに。
タッパを持つと少し温かい。まだ作られたばかりの品々で。夏の熱で意識すら奪いそうなその空間で、何よりも温かい。
一つ手に取って、頬張る。阿久井の言葉が再び鼓膜ではなく心を震わせた。
これを食べて、もう寝よう。カフェの営業に間に合わなくなってしまう。思えば雨はもう降っていない、台風は過ぎ去ったのだろうか。確かに明日は忙しくなるだろう。
そう思いながら、二つ目を手に取り卵焼きを口に入れる。どれも味はしょっぱくて、旨いなんてものじゃなく。もっともっとそれ以上に。
まだ、どうしようもなく。生きている。




