英雄という間違い
よく人を殺したら山に遺体を隠すと言うが、殺人なんて事をした人間は浅慮なのもあって手元から遠ざけて隠そうとする。本来なら山の中なんて誰かが管理しており、見回りで異常がないかを定期的に確認しにくる。その結果、遺体が見つかって自分の犯行が暴かれてしまう。しかし、その見回りというのも頻繁に行われるわけじゃない。一時隠すだけならそれで充分でもある。
なによりこいつはすぐに消えるのだ。そこに残されている戦った痕跡だけを見て、普通の人は何が起きたのかを正確に知ることなどない。
まもなく雨が降る、まるで彼の心の中のように。いずれ知ってしまう事実に、己の選択に、果たして耐えられるだろうか。腹立たしいが、今は信じてやるしかない。
男は誤魔化していた全身の痛みに苦悶しながら静かに灰色の空を睨む。
今晩が台風のピークになるようで、吹き付ける風と雨は夏の熱を冷ましてくれる。山の中を濡れながら進むのだが、足元は悪く時折滑らして体勢が崩れてしまう。
こんな足場での戦いは過去に経験がない、向こうの世界でこんな悪条件はそもそも魔術で克服していた。
この戦いにゼーラも付いていくと言われたが、すぐに断った。
ゼーラには処置をする際に抗魔力に適応できなかった魔族の対応を一緒に行った。あれは俺もムスリカも予見していなかった、ムスリカもこんな事になるのなら連れてくるべきではなかったと後悔している。
だから、この戦いはゼーラにとって見るに堪えないものになるだろう。魔族…もう名前は完全に思い出せない。けれどこれから戦うであろう相手は間違いなく本人の意思で戦う事を望んでいる。助ける為じゃない、あの魔族はもう助からない。
「最悪だな。天気も、俺も」
自分の正しさが揺らぎつつある今、あの魔族の願いに答えるこの行為が本当に正しいのかわからない。逃げるわけにはいかないが、何か大きな間違いをしているのではないか。そんな疑念ばかりが頭に渦巻いている。
しっかりしろ。負ける事はないと確信していても、こんな弱気では勝てる戦いも勝てなくなる。
己を律して獣道を進む。ふと振り返ってみれば、雨でここまでの足跡は消えつつあった。
以前もこの山で魔族の消滅を見たが、今回はそこより離れている。近くには下山のロープウェイがあり、今日みたいな日でなければ人で溢れている。
文字通り、俺が防衛ラインとなる。あの魔族が消滅するまで抑え込めなければ、人里にまでその被害が及びかねない。
万が一に備えて、ムスリカには戦闘の音や衝撃を押さえる環境魔術を行使できる魔族が遠くでそれを行使してくれている。俺が先日抗魔術を与えた者で、詳しい事情を聞くことなくこの役割を承諾してくれた。
目の前には雨に濡れているのか、泣いているのかわからないムスリカ。そして、既にやや体が薄れ始めている老婆の魔族が一人。
「もう少し遅く来た方がよかったか?」
ムスリカにそう投げかける。どこぞの剣豪よろしく、そんな言葉を投げてはみたが。
「葵さん。どうか始まりの5番目を…」
目を閉じて、願うように、祈るように。
「よろしくお願いします」
既に隣の魔族は俺の服を掴んでいた。自分を落ち着かせるように気取っていた事が反応を遅らせる原因になったのは言うまでもない。
速い、宙に投げられながら抗魔力で木を掴み、着地を試みる。その着地点に、既に相手は立っていた。手に纏わせて、落下の勢いと共に拳を振るうが、それよりも速く宙にいる俺に蹴りを放つ。
恐ろしく速い、あんなよぼよぼのババアが出していい速度ではない。身体強化魔術の行使もあるのだろうが、それでも異常な速度だった。
これで、しっかり理性を保てていれば。抗魔力でひっそりとしかけてトラップを。
「そこだ!」
それは足に絡まり、相手の体勢を崩す。それだけで十分だった。手で着地しようとしたその瞬間に抗魔力を纏った足で顔を蹴る。
木を何本か折りながら吹き飛んでそのまま地面に横たわる。体はもうほとんど見えない。俺自身それでもう勝敗が決したと確信していた。
『キィエエエエエエエ!』
「嘘だろ?!」
いつの間に持っていたのか、そのナイフ。それを持って再び俺に迫ってきた。でたらめに振るわれるそれを躱しながら、抗魔力での攻撃を的確に叩き込む。が、それでも止まらない。
弱弱しさを一切感じない。これが死にゆく者、消える者の迫力とは到底思えない。
しかたなく、振るう腕を受け止めてその手からナイフを離させようとするが。その時、別の魔術が行使される。
ナイフが爆発。防御は間に合わなかった。
受け止めていた腕は幸いにも抗魔力を纏わせていたため吹き飛ぶ事はなかったが、全身が熱を持ち、ところどころ痛覚すら感じない箇所があった。
自爆。捨て身の攻撃は、この戦いを容易い物だと侮っていた俺に戦場の感覚を蘇らせる。
「上等だ、もう容赦しない。こんなもんまで持ってるなら」
ムスリカを睨む。怯えているのか、困惑しているのかわかりはしない。けれどこんな物をこっちの世界に持ち込んでいるのなら、魔族側にその気があると思うには十分だった。
次はアイツだ、もう見逃せない。どこか忘れかけていた怒りの炎が、体をより熱くした。
さっきの魔族はどこだ、まずはあいつを殺さなくちゃいけない。消える?そんな安い最後を迎えさせてたまるか。この手で確実に息を止めてやる。
抗魔力で周囲を探る、魔力の反応を感じてそちらにゆっくり向かう。先程の爆発はその魔族にも及んでおり、全身がやけどにまみれ、手足は痙攣をおこしていた。
さっきと同じ轍は踏まない、絶対に油断はしない。俺は腐っても光剣者として、魔王の最後を見ただけの者として、せめてそれ以外の魔族は確実に。
『スフェンダ…サマ』
自らの体のように、消えゆく声で、はっきりとこちらに話かけてきた。理性も何も無い、そんな状態の魔族がこちらを明確に見ながら言葉を続ける。
『ソコニ…イタノデスネ』
俺を魔王と勘違いする程に意識が混濁している、だがこのまま逝けると思うな。
抗魔力を最大限に纏わせ、拳が赤黒い鉄色に染まると、大きく振りかぶる。これで最後だ。
『いつまでもお傍に』
まるで正気に戻ったような物言いで、手を伸ばして。俺の拳がその顔を潰すその間際。その一言は拳の軌道を。
『楓様』
俺の今までを変えた。
地面に叩きつけられて土埃が舞いあがり、雨に溶けていく。腕は震えで上手く動かせない。
「どういう事だ」
怒りは全て困惑と混乱と、錯乱で押し流される。両手で魔族の胸ぐらを掴んでその言葉の意味を問う。
「今のはどういう意味だ!どこで知った、何故知ってる、何を指してる!」
魔族は俺の顔を愛でるように優しく撫でた。そして、ありえない事を口走ってしまった。
「なんで…、なんで妹の名前を知ってるんだ!」
答えろと地面に叩きつけようとしたところで、魔族は、始まりの5番目は何かをやり遂げたように笑いながら消えていく。
頭の中でその言葉を反芻させる。様を付けて呼んだその意味を否定して、無視して、逃げるように意味をあてがおうとする。そうすることで異様なほどの冷静さを保てていた。
そんな思考に追いつかないのか、口では何か否定するような物言いをぼそぼそと繰り返えす。
「葵さん…」
声の方を向くが、視界がうねり曲がるせいで誰なのか見えない。空間そのものを認識することが出来なかった。
声主は躊躇っているのか、言葉が続かないのかどちらかわからないが声色から一つの問いかけをしようとしている。
やめろ、それを言うな。もう精一杯なんだ。全部受け入れたつもりだ、しょうがないと割り切れた、多少の諦めだった大事だってついたんだ。だけど、そんなわけが。そんなわけがないんだ。だって俺の、俺の。
「妹さ…っ。妹様の、お名前は?」
あの魔族の言葉をもう一度思い出せ、いや思い出す必要なんてないだろ。最初から知ってる。そう木の名前から取られたんだ、木の名前は楓、だから俺の妹の名前は。
口から息が出ない。その一言を吐き出すだけで呼吸が止まり上手く空気を取り込めない。頭にもやがかかっているようにそこから繋げる事が出来ず。
逃げた。
視界は悪く、足元は悪い。少し走っただけで転んでしまい、痛みも気にせずまた走る。ここは山で斜面がある、場所によってはほぼ落ちるような急斜面もあって。そのまま転がり落ちてしまう。
遠くで雷鳴が響いて、雨音が強くなる。何も見たくないせいで、より鮮明にそれらは聞こえて。嗚咽と慟哭をあざ笑うようにかき消す。
全部、間違っていた。




