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久遠の書架と響かぬ声  作者: 杜陽月
『不老不死の虚実』
4/6

トラウマとの対峙

友情。その言葉の定義を、私は知識としてしか知らなかった。

アリストテレスは三つに分類した。「有用性」「快楽」「徳」。朱鷺坂響との関係は、当初は間違いなく「有用性」だった。彼女は私の知識を、私は彼女の情報を必要とした。次に訪れたのは「快楽」だろうか。共に謎を解くスリル、危険を乗り越える高揚感。それは確かに、私のモノクロームの世界に鮮やかな色をもたらした。


だが、その先があることを、私は知らなかった。

互いの存在そのものを肯定し、支え合う関係。弱さも、痛みも、過去の傷も、すべてを受け入れた上で、それでもなお、そばにいたいと願う心。


私は、これからその本当の意味を知ることになる。

最も暗く、冷たい場所で。

過去という名の亡霊が、私の喉元に手をかけた、その瞬間に。

『蓬莱私記』の解読は、困難を極めていた。

私と響が東京の暗部を巡って得た断片的な手がかり――「見せしめ」「記憶の継承」「異種交配の記録」――は、それぞれが独立したパズルのピースのようで、一つの絵にはならなかった。犯人たちの組織「蓬莱の会」の輪郭は朧げに見えてきたものの、その核心に触れるには、どうしてもこの古文書の完全な解読が必要だった。


「……だめだ。この文字体系、既存のどのデータベースにもヒットしない」

悠久堂の書庫で、響はノートパソコンの画面を睨みつけながら唸った。

「靜さん、何か思いつくことはない? これまで読んできた本の中に、似たような記号は本当になかった?」


「ありません」私は、和綴じ本の上に置いた拡大鏡から目を離さずに答えた。「これは、一つの思想体系に基づいて、完全にゼロから創造された言語である可能性が高い。だからこそ、解読には鍵となる『思想』そのものを理解する必要があるんです」


「思想、ねえ……」


私たちの調査は、壁に突き当たっていた。焦りが募る。私たちがこうしている間にも、蓬莱の会は次の「器」を探し、計画を進めているはずだ。その事実が、重く私の肩にのしかかる。


そんな閉塞感が悠久堂を支配し始めた、ある日の午後だった。

私のスマートフォンが、静かに震えた。SNSの通知だった。普段、ほとんど使うことのないアカウント。通知が来るなど、珍しい。


開いた画面に表示された名前に、私の呼吸が止まった。

それは、私の過去そのものだった。中学時代、私を地獄の底に突き落とした、いじめの主犯格の女の名前。


『久しぶり、靜。元気にしてる?』


メッセージは、それだけだった。だが、その短い文字列から、過去の悪夢が奔流となって溢れ出した。嘲笑、罵声、暴力。教室の隅で、体育館の裏で、下駄箱の前で受けた、数えきれないほどの屈辱。私の存在価値を、粉々に砕いた日々。


どうして、今になって。

指が震え、スマートフォンを落としそうになる。


それからだった。私のSNSアカウントに、奇妙な投稿が増え始めたのは。

私の昔の写真。卒業アルバムからスキャンしたのだろうか、ぎこちなく笑う私の顔写真に、心ないコメントが付けられていく。


『この子、昔から暗かったよね』

『なんか、いつも一人で本読んでて、気味悪かった』

『そういえば、変な噂、あったよね……』


それは、直接的な誹謗中傷ではなかった。だが、だからこそ悪質だった。じわじわと毒が染み込むように、私の精神を蝕んでいく。過去の亡霊たちが、デジタルの世界で蘇り、私を指さして笑っている。


そして、決定的な一撃が加えられた。

私の、中学時代の作文が投稿されたのだ。

『私の夢』と題された、拙い文章。そこには、歴史研究者になりたいという、当時の私のささやかな希望が綴られていた。その文章に、赤いインクで、無数の訂正が入れられていた。


『お前なんかがなれるわけない』

『身の程を知れ』

『死ね』


それは、当時、実際に私の作文に書かれた言葉と、まったく同じだった。

見た瞬間、私の視界は真っ白になった。

耳の奥で、キーンという高音が鳴り響く。過呼吸に陥り、その場にうずくまった。


「靜さん!? どうしたの、しっかりして!」


響の声が、遠くで聞こえる。だが、私の意識は、もうここにはなかった。暗く、冷たい、中学時代の教室の隅に引き戻されていた。


「……やめて……ごめんなさい……私が、悪かったから……」


私は、自分の殻に完全に閉じこもってしまった。

書庫の最も奥、書架と壁の隙間に体を埋め、誰とも目を合わせず、ただひたすらに震えていた。食事も喉を通らず、眠ることもできない。響が何か話しかけてきても、私の耳には届かなかった。過去の悪夢が、絶え間なくフラッシュバックする。


私の異変に気づいた響は、何度も私に声をかけ、外に連れ出そうとしてくれた。だが、今の私にとって、外の世界は脅威でしかなかった。すべての人間が、私を嘲笑っているように思えた。


「……どうして、急に……」


困惑する響に、静かに声をかけたのは、店に戻ってきた伊織さんだった。

「……響さん、少し、いいかしら」


伊織さんは、店の奥にある茶室に響を招き入れると、静かにお茶を淹れた。そして、私の過去を、ぽつり、ぽつりと語り始めた。執拗ないじめ。孤立。誰にも助けを求められず、心を閉ざしていった少女の姿。そして、それが今もなお、複雑性PTSDとして、私の心に深い傷を残していること。


「……なんてこと」響は、唇を噛み締めていた。「あいつら……絶対に許せない」


彼女の目に、静かな怒りの炎が宿っていた。

その日から、響の行動は変わった。

彼女は、私を無理に外へ連れ出そうとはしなかった。ただ、静かに私のそばにいた。私が書庫の隅で震えていると、何も言わずに温かいお茶を置いてくれる。食欲がないと言うと、一口でも食べられるようにと、お粥を作ってくれる。


そして、彼女はジャーナリストとしての牙を剥いた。

SNSに残された僅かな痕跡から、いじめの主犯格の女の現在を特定したのだ。OSINTを駆使し、彼女の職場、交友関係、すべてを洗い出した。


ある日の夕方、響は悠久堂を出ていくと、数時間後に戻ってきた。その顔は、どこか晴れやかだった。

「……もう、大丈夫」

彼女は、それだけを言った。


翌日から、私へのSNSでの攻撃は、ぴたりと止んだ。後で伊織さんから聞いた話では、響は主犯格の女の職場に乗り込み、これまでの投稿のすべてを証拠として突きつけ、「これ以上続けるなら、あなたと、あなたの会社の社会的信用は、すべて失われることになる」と、ジャーナリストとして、冷静に、しかし一切の容赦なく宣告したのだという。


攻撃は止んだ。だが、私の心はまだ、暗闇の中にあった。

その夜、私は書庫で、一人泣いていた。恐怖、悔しさ、そして、何もできない自分への無力感。涙が止まらなかった。


そっと、背中に温かいものがかけられた。毛布だった。

振り返ると、響が立っていた。

「……ごめん」彼女は、小さな声で言った。「私が、あなたを危険な世界に引きずり込んだから……」


違う。違うのに、声が出ない。


「でもね、靜さん」彼女は、私の隣に静かに座ると、続けた。「あなたは、一人じゃない。私がいる。伊織さんもいる。あなたは、ここにいていいんだよ」


その言葉が、凍りついていた私の心に、じんわりと染み込んでいく。

「家だけは自分の居場所だと思える」

かつて読んだ本にあった一節が、頭に浮かんだ。今、この悠久堂が、響が、私にとっての、その場所だった。


「……ありがとう」

か細い、掠れた声だった。でも、確かに、私の口から出た言葉だった。


その日を境に、私は少しずつ、光を取り戻していった。響は、変わらず私のそばにいてくれた。無理に事件の話はせず、ただ、他愛もない話をしてくれた。谷根千の美味しい和菓子屋さんの話や、面白い映画の話。その穏やかな時間が、私の傷をゆっくりと癒していった。


これは、「有用性」の友情ではない。「快楽」の友情でもない。

ただ、相手の存在を肯定し、その幸福を願う。互いの弱さを受け入れ、支え合う。

これが、アリストテレスが最後に語った、「徳の友情」なのかもしれない。

友情という言葉の、本当の意味。私は、生まれて初めて、その温かい手触りを感じていた。


一週間後。

私は、自らの意思で、『蓬莱私記』の前に座っていた。

隣には、響がいる。


「……大丈夫?」

「ええ」私は、しっかりと頷いた。「もう、大丈夫」


過去のトラウマが消えたわけではない。傷は、まだそこにある。だが、もう、その傷に支配されはしない。私には、響がいるから。


私は、自らの記憶力と、これまでに蓄積した全ての知識を総動員し、再びあの謎の文字群と対峙した。

そして、その時、ふと、あることに気づいた。

これまでバラバラに見えていた文字の配列に、一定の法則性があること。それは、まるで音楽の楽譜のように、あるいは、遺伝子の塩基配列のように、特定のパターンを繰り返していた。


「……これは」


私の脳内で、バラバラだったピースが、一つの形を結び始めた。

犯人たちの目的。「器」としての、優れた記憶力を持つ人間。芹沢博士の研究テーマ、「記憶の遺伝」。

そして、徐福が求めた「不老不死」。


もし、徐福が発見した不老不死が、肉体の延命ではなかったとしたら?

もし、人の記憶、経験、すなわち「魂」そのものを、別の器に移し替える秘術だったとしたら?


その仮説を基に、文字を再構築していく。

すると、これまで意味をなさなかった記号の羅列が、意味のある文章として、私の目の前に立ち現れてきた。


そこに記されていたのは、驚くべき真実だった。


『――我、始皇帝の命を受け、東方の三神山にて不老の仙薬を求む。然れども、真の不死は肉叢に非ず。人の記憶、すなわち魂にあり。我、この地に於いて、魂を移し替える秘術を見出せり。その成就のため、最も清浄なる魂を持つ童男童女三千を要す。彼らは、新たなる魂を受け入れる、至上の器なり――』


現代の連続失踪事件は、まさにこの徐福の計画をなぞるための、「器」探しだったのだ。

そして、その最終目的は、おそらく、「蓬莱の会」のリーダー自身の魂を、最も優れた「器」へと移し替えること。


「……響さん」私は、震える声で言った。「わかりました。犯人たちの、最終目的が」


私は、解読した内容のすべてを、響に伝えた。

彼女は、息を呑んで聞いていた。そして、すべてを聞き終えると、静かに、しかし力強く言った。


「……行こう、靜さん。そいつらの計画、絶対に止めなきゃ」


その目には、もう迷いはなかった。

私も、同じだった。

トラウマは、消えない。

過去の傷跡が、完全に癒えることはないのかもしれない。

だが、その傷を抱えたままでも、前を向くことはできる。共に歩いてくれる誰かがいれば。


朱鷺坂響。彼女は、私の世界を破壊した侵略者だった。

だが今、彼女は、私の壊れた世界を、共に再構築してくれる、かけがえのない存在となった。


友情。その言葉の意味を、私は今、魂で理解している。

それは、二つの肉体に宿る、一つの魂などという綺麗なものではない。

傷つき、欠けた二つの魂が、互いの欠落を補い合い、支え合い、それでもなお、共に立とうとする、切実な祈りのようなものだ。


私たちは、これから最終決戦へと向かう。

相手は、人の魂を弄び、死すらも克服しようとする、壮大な狂気に取り憑かれた集団だ。

怖い。足がすくむ。

だが、もう私は一人ではない。


隣には、太陽がいる。

ならば、どんな深い闇の中へも、きっと、歩いていける。

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