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久遠の書架と響かぬ声  作者: 杜陽月
『都市伝説の迷宮』
3/6

東京ダークツーリズム

地図は、私にとって常に安全なものだった。

書庫の机に広げられた古地図は、過去への窓であり、決して私を傷つけることのない、静かな旅への招待状だった。インクで描かれた海岸線、羊皮紙に刻まれた山脈。それらはすべて、手の届かない、だからこそ心安らぐ風景だった。


だが、今、私たちの前にある地図は違う。

朱鷺坂響がノートパソコンの画面に映し出した、呪われた土地のリスト。それは、東京という都市の皮膚の下を流れる、暗い血脈を図示したものだ。これから私たちが向かうのは、過去の文献に記された場所ではない。怨念と伝説が、今もなお生々しく息づく、現実の空間だ。


一歩踏み出せば、もう書庫の静寂は私を守ってくれない。

ページをめくる代わりに、私たちは自らの足で、都市の暗部をめくらなければならない。

太陽に手を引かれる影のように、私はただ、彼女の後ろをついていくしかなかった。

最初の目的地は、品川区にある鈴ヶ森刑場跡だった。

京浜急行の立会川駅を降りると、首都高速道路の高架が空を覆い、絶え間なく車が流れる轟音が街を支配していた。私の世界の音量からは、かけ離れた場所。耳を塞ぎたい衝動に駆られるが、隣を歩く響は、まるで観光地に来たかのように目を輝かせている。


「ここかあ。江戸三大刑場の一つ。小塚原と大和田、そしてここ鈴ヶ森。すごいね、今じゃ普通の住宅街なのに、二百年で十万人以上が処刑されたなんて」


彼女は手にしたスマートフォンの画面と、目の前の風景を見比べながら、こともなげに言う。十万人。その数字の重みが、私の胃を締め付けた。


「……見せしめ(・・・・・・)の場所、でしたから」私はかろうじて声を絞り出した。「火あぶり、磔。あらゆる残虐な方法で罪人を処刑し、それを民衆に見せることで、幕府の権威を保っていたんです」


「見せしめ、ね」響は私の言葉を反芻(はんすう)し、何かを考えるように顎に手を当てた。「今回の事件と、何か関係があるのかな」


国道15号線沿いに、その場所はあった。高いビルとマンションに囲まれた一角に、そこだけ時が止まったかのように、古びた寺と木々が密集している。入り口には「鈴ヶ森刑場跡」と刻まれた石碑。その文字を見ただけで、空気が変わったような気がした。湿っぽく、重い。


敷地は広くない。その中に、処刑に使われたという「火あぶり用の鉄柱を立てた礎石」や、「磔用の木柱を立てた礎石」が無造作に置かれている。そして、奥には「首洗いの井戸」。斬り落とされた首を洗ったとされるその井戸を覗き込む勇気は、私にはなかった。


「すごいな、本当に残ってるんだ」響は感心したように言いながら、ためらうことなく井戸の縁に手をかけた。「この場所で、八百屋お七も処刑されたんだよね。恋人に会いたい一心で放火したっていう……」


「ええ。他にも、丸橋忠弥や天一坊もここで……」


歴史上の人物の名を挙げる私の声は、震えていた。知識としては知っている。だが、その知識が生まれた場所の空気を吸うことは、全く別の体験だった。無数の死の記憶が、この土地の土壌に染み込んでいる。


響はノートパソコンを取り出すと、カタカタとキーを叩き始めた。

「楢崎さんのPCの解析データ、知り合いに頼んでたのが上がってきた。失踪直前、彼は鈴ヶ森についても調べてる。特に、ここで処刑された罪人の『罪状』を重点的にリストアップしてたみたい」

「罪状、ですか?」

「そう。幕府への反逆、大火につながる放火、辻斬り……社会の秩序を大きく乱したとされる罪ばかりだ。まるで、犯人が自分たちの行動を、そういった歴史的な大罪になぞらえようとしているみたいじゃない?」


彼女の言葉に、背筋が凍る。犯人たちは、単なる快楽殺人者ではない。自分たちの犯行に、何らかの壮大な意味、歴史的な正当性を与えようとしている。その歪んだ顕示欲が、この「見せしめ」の場所と共鳴しているというのか。


その時だった。

キイィィィッ!

甲高いブレーキ音と衝突音が、すぐ近くの国道から響き渡った。見ると、数台の車が絡む玉突き事故が起きていた。幸い、大きな怪我人はいないようだ。だが、運転手の一人が、呆然とした様子で呟くのが聞こえた。


「……今、人が、横切ったような……」


誰もいない。道路には、壊れた車の部品が散らばっているだけだ。

「この辺り、事故が多いって噂だよ」響が静かに言った。「刑場の霊を見たっていうドライバーが、急ハンドルを切って……って話。まあ、都市伝説だけどね」


都市伝説。だが、今この場所でそれを聞くと、単なる噂話とは思えなかった。私たちは、目に見えない何かの領域に、足を踏み入れてしまったのではないか。


不意に、私のスマートフォンが震えた。ニュース速報の通知だった。


『第二の失踪者か。著名な遺伝子工学博士、自宅より姿消す』


画面に表示された博士の顔写真を見て、私は息を呑んだ。楢崎氏と同じだ。部屋は荒らされておらず、ただ床に、あの奇妙な幾何学模様が残されていたという。


「……急ごう」響の声が、硬くなった。「犯人は、待ってくれない」


私たちは、重苦しい空気が満ちる鈴ヶ森を後にした。私の背中に、無数の視線が突き刺さっているような、不気味な感覚がまとわりついて離れなかった。


二番目の場所は、渋谷区にある千駄ヶ谷トンネルだった。

東京オリンピック開催のために建設されたというそのトンネルは、昼間だというのに内部は薄暗く、オレンジ色の照明が不気味な影を落としていた。壁のタイルは湿り、ひんやりとした空気が肌を撫でる。


「このトンネルの上、なんだか知ってる?」響が、わざと明るい声で言った。「お墓だよ。仙寿院っていうお寺の」

「……ええ、知っています」

「だから、出るんだって。白い服を着た女の人の霊が。トンネルの中で逆さまに立ってて、目が合うと追いかけてくるって話」


彼女は楽しんでいるのだろうか。それとも、恐怖を紛らわすために、わざと軽口を叩いているのか。私には判断がつかなかった。


私たちは、車が途切れるのを見計らって、トンネルの歩道を歩き始めた。反響する自分たちの足音と、時折通り過ぎる車の風圧が、やけに大きく感じられる。


「何か、気づいたことは?」響が尋ねる。

「……特に。ただのトンネルです」

「そっか。じゃあ、私の番だね」


彼女は立ち止まると、ノートパソコンを開いた。

「第二の被害者、遺伝子工学の権威だった芹沢博士。彼の研究テーマ、何だと思う?」

「……何です?」

「『エピジェネティクス』。後天的な環境要因が、いかにして遺伝子情報を変化させるか、っていう研究。特に、人間の『記憶』が遺伝子レベルで次世代に受け継がれる可能性について、画期的な論文を発表する直前だったらしい」


記憶が、遺伝する。その言葉が、私の頭の中で奇妙な響きを持った。

「それと、このトンネルが……?」

「このトンネルの都市伝説、女の人の霊が出るって言ったよね。でも、古い記録を漁ると、少し違うんだ。元々は、『過去の記憶を背負ったまま、この世を彷徨う霊』が出る、って話だったらしい。それがいつの間にか、分かりやすい『女の霊』に変化した」


響は、画面に表示された古い新聞記事の画像を私に見せた。大正時代のものだろうか、黄ばんだ紙面に「千駄ヶ谷の彷徨える記憶」という見出しが躍っている。


「犯人は、この場所の本来の『意味』を知っている。そして、芹沢博士の研究が、その意味と深く関わっているから、彼を狙った……考えすぎかな?」

「……いいえ」私は、トンネルの壁に滲む染みを、無意識に指でなぞっていた。「あり得ます。伝説や都市伝説は、時代と共に分かりやすく、刺激的な形に変容していくものです。ですが、その核には、元になった出来事や思想が、化石のように残っていることがある」


その時、トンネルの奥から、一台の黒いセダンが猛スピードでこちらに向かってくるのが見えた。

危ない、と思った瞬間、響が私の腕を強く引き、壁際に押し付けた。

ゴウッ、という轟音と共に、セダンは私たちのすぐ脇をかすめ、走り去っていった。ナンバープレートは見えなかった。


「……今の、わざとじゃ……」

「……かもね」響は、私の腕を掴んだまま、鋭い目でセダンの消えた方角を睨んでいた。「ただの暴走車かもしれないし、私たちの考えすぎかもしれない。でも……」


彼女は言葉を切ると、トンネルの壁の一点を指さした。

「あれ、見て」


そこには、チョークのようなもので、小さな印が描かれていた。それは、『蓬莱私記』に記されていた未知の文字の一つと、同じ形をしていた。


「……警告、でしょうか」

「それとも、招待状かな」響は、不敵に笑ってみせた。「どっちにしろ、面白くなってきたじゃない」


彼女の強がりが、不思議と私の恐怖を和らげてくれた。私たちは、互いの専門知識を利用するだけの関係だったはずだ。だが、今、共に危険を乗り越え、謎を解くというスリルと達成感を共有する中で、何かが変わり始めているのを感じていた。それは、アリストテレスが言うところの「快楽の友情」と呼ぶには、あまりにもスリリングな関係だったが。


最後の目的地、戸山公園は、新宿の高層ビル群のすぐ近くにありながら、そこだけが深い森のように静まり返っていた。箱根山地区と呼ばれるその場所は、かつて尾張徳川家の下屋敷があった場所で、江戸随一の大名庭園と称されていたという。


しかし、この公園にはもう一つの顔がある。

「旧陸軍の秘密実験施設があった、っていう噂」響が、落ち葉を踏みしめながら言った。「ここで、人体実験が行われていたんじゃないかって。実際、近くの工事現場から、大量の人骨が見つかってるしね」


その言葉を聞いただけで、昼間の公園ののどかな風景が、一気に不気味なものに見えてくる。木々のざわめきが、誰かの呻き声のように聞こえた。


私たちは、公園の中心にある箱根山という小高い丘を目指して歩いた。山手線内で最も標高が高いとされるその場所は、鬱蒼(うっそう)とした木々に覆われ、昼でも薄暗い。


「何かあるとしたら、ここだと思ったんだけど……」

響が辺りを見回した、その時だった。

私の足が、何かに躓いた。見ると、地面から木の根のようなものが突き出ている。いや、違う。それは、木の根ではない。


「……人骨、です」


土から半分だけ覗いた、白く変色した、人間の腕の骨だった。

「……警察に」

私がそう言いかけた瞬間、背後の茂みが、がさがさと大きく揺れた。

振り返ると、そこに、黒い作業着を着た男たちが数人、立っていた。その手には、スコップやツルハシが握られている。


「……見つけちゃったかな、部外者さん」

男たちの一人が、低い声で言った。その目は、笑っていなかった。


「逃げるよ!」


響が叫ぶのと、私が走り出すのは、ほぼ同時だった。

背後から、男たちの怒号と、私たちを追いかける足音が聞こえる。木の根に足を取られ、転びそうになるのを、響が力強く支えてくれた。


私たちは、無我夢中で走った。公園の出口が見えた時、私は最後の力を振り絞った。

大通りに飛び出した私たちは、そのままタクシーを拾い、神保町へと逃げ帰った。


悠久堂の書庫に戻った私たちは、しばらくの間、荒い息を整えることしかできなかった。

「……間違いなく、『蓬莱の会』の連中だ」響が、悔しそうに言った。「あの人骨は、きっと彼らの実験の犠牲者……。私たちが来ることを、予測していたんだ」


彼女の言葉に、私は頷くことしかできない。恐怖で、まだ手足の震えが止まらなかった。


「でも、収穫もあった」響はノートパソコンを開くと、一枚の画像を拡大した。「逃げる直前に撮ったんだ。男たちが掘っていた穴の底に、何か落ちてた」


画面に映し出されていたのは、小さな金属製のプレートだった。そこには、芹沢博士が所属していた研究所のロゴと、一つの文字列が刻まれている。


『Project Chimera』


「キメラ……」私は呟いた。「ギリシャ神話に登場する、ライオンの頭と山羊の胴体、蛇の尾を持つ合成獣……」

「そう。そして、遺伝子工学の世界では、異なる種の遺伝子を組み合わせて作られた生物のことを、そう呼ぶ」


響は、息を呑むような速さでキーボードを叩き、新たな情報を引き出した。

「見つけた。第三の失踪者が出てる。古代言語学の専門家、水島教授。彼の最近の研究テーマは、『失われた古代文明における、異種交配の記録』……」


そして、彼女は一枚の相関図を画面に映し出した。

失踪した三人、楢崎、芹沢、水島。彼らの経歴、研究テーマ、そして……遺伝子情報。


「三人には、共通点がある」響が、静かに言った。「極めて稀な、特殊な遺伝子マーカーを持ってる。そして、その遺伝子マーカーを持つ人間は、例外なく、常人離れした記憶形成能力を示すことが、最近の研究で明らかになってる」


犯人たちの目的が、パズルのピースがはまるように、見えてきた。

彼らは、単に知識人を集めているのではない。

徐福が求めたという「不老不死」。その正体が、もし、肉体の延命ではなく、特定の個人の記憶と経験、すなわち「人格」を、別の「器」に移し替える技術だとしたら。


彼らは、その「器」として、最も優れた記憶力を持つ人間を探しているのではないか。

『蓬莱私記』は、そのための設計図。

そして、連続失踪事件は、そのための「器」狩り……。


私は、自分の立てた仮説の恐ろしさに、身震いした。

これは、単なる連続失踪事件ではない。

二千二百年の時を超えて現代に蘇った、壮大な狂気の計画なのだ。

迷宮には、出口がなかった。

一つの謎を解いたと思えば、それはさらに深く、暗い迷宮への入り口に過ぎなかった。都市伝説の皮を被った怪物は、徐々にその正体を現し始めている。


戸山公園での恐怖は、まだ私の肌に生々しく残っている。あれは、フィクションではない。現実の暴力であり、死の匂いだった。書庫の静寂は、もはや私を守ってはくれない。


朱鷺坂響。彼女は、私を危険な世界に引きずり込んだ張本人だ。それなのに、今、私は彼女の隣にいることに、奇妙な安心感を覚え始めている。共に危険を乗り越え、謎を解き明かすという経験が、私たちを単なる協力者以上の何かへと変えつつある。


だが、感傷に浸っている時間はない。

犯人たちの計画は、着実に進行している。そして、その計画の核心に、あの『蓬莱私記』があることは間違いない。


次に私たちが向かうべき場所は、どこなのか。

その答えは、まだ、あの解読不能な文字の中に眠っている。

迷宮の奥深くで、怪物は口を開けて待っている。

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