太陽との出会い
私の世界は、静寂でなければならなかった。
本のページをめくる音、遠くで聞こえる車の走行音、時折伊織さんが立てるお茶の音。それらが、私の世界のサウンドスケープのすべてだった。許容できる音量の範囲は、ひどく狭い。人の声、特に、感情の乗った声は、私の鼓膜を針で刺すように痛い。
だから、あの音が鳴った瞬間、私の心臓は凍りついた。
店の扉についたカウベルが、からん、と。
それは、私の世界の終わりを告げる号砲のように、あまりにも大きく、あまりにも無遠慮に響き渡った。
外の世界が、私を見つけに来たのだ。
私が築き上げた、紙とインクの城壁を、いともたやすく乗り越えて。
店の扉についたカウベルが、からん、と乾いた音を立てた。来客だ。私は咄嗟に書庫の奥へと身を隠す。伊織さんが不在の今、接客は私の仕事だが、人と目を合わせることは、私にとって呼吸を止めることに等しい。
「ごめんください!」
鼓膜を直接叩くような、快活な声。躊躇いのない足音が、ぎしぎしと床板を鳴らす。やめてくれ。ここに入ってこないでくれ。私の聖域を、土足で踏み荒らさないでくれ。
祈りは、しかし、あっさりと裏切られた。
「すみませーん! 『悠久堂』さんですよね? ちょっとお話を伺いたいんですが!」
声の主は、書庫の入り口に立っていた。逆光で表情はよく見えない。けれど、そのシルエットだけでわかる。私とは対極の生き物だ。光を放ち、人を惹きつけ、世界を自分のために回せる、そういう種類の人間。
「……何か、御用でしょうか」私は書架の影から、蚊の鳴くような声で応じた。
「あ、いた! よかった。私、朱鷺坂響って言います。フリーでジャーナリストやってまして」
朱鷺坂響と名乗った彼女は、ずかずかと書庫に入ってくると、あっけらかんとした笑顔を私に向けた。眩しい。その存在そのものが、私にとっては暴力的なまでに眩しかった。
「楢崎正臣さんの失踪事件、ご存知ですよね? OSINT――まあ、ネットとかの公開情報を分析するんですけど――で追ってたら、楢崎さん、失踪直前にここの古書市場のデータベースにアクセスしてるんですよ。で、ある一冊の出品記録を最後に、足取りが途絶えてる」
彼女の言葉に、私の血の気が引いていくのがわかった。まさか。
「その本、今朝の交換会で、そちらが落札されてますよね? 『蓬莱私記』とかいう、奇妙な名前の本ですけど」
心臓を鷲掴みにされたような衝撃。私は無意識に、背後に隠していた和綴じ本を握りしめていた。なぜ、この人がそれを知っている?
「……人違いです」
「いやいや、記録はしっかり残ってますって。ねえ、その本、見せてもらえませんか? 事件解決の、重要な手がかりになるかもしれないんです」
馴れ馴れしい。あまりにも。初対面の相手に対する距離感というものが、この人間には欠落しているのだろうか。恐怖と嫌悪で、指先が冷たくなっていく。
「お断りします。……お引き取りください」
「まあまあ、そう言わずに。協力してくれたら、こっちもいい情報を提供しますよ?」
朱鷺坂響は悪戯っぽく笑うと、一枚のメモを私に突きつけた。
「楢崎さん、失踪直前、熱心に『将門塚』の祟りの歴史について調べてたみたいなんです。おかしいと思いません? 彼の専門は古代中国史。日本の、それも平安時代の怨霊伝説なんて、専門外もいいところだ」
将門塚。その単語が、私の脳のある部分を強く刺激した。なぜ、楢崎が将門を? 古代中国史と平将門。点と点が、あまりに離れすぎている。繋がるはずがない。いや、待て。徐福が日本に渡来したとされるのは紀元前。平将門は平安時代。時代が違いすぎる。だが、もし、何らかの「思想」や「呪術」が、時代を超えて受け継がれていたとしたら? 馬鹿げている。あまりに飛躍した仮説だ。だが、もし、そうでないとしたら、この奇妙な符合をどう説明する?
私の思考は、再び迷宮へと滑り落ちていく。目の前の女に対する恐怖と、この謎を解き明かしたいという研究者としての欲求が、天秤の上で激しく揺れ動く。
「……その本が、あなたに解読できるとは思えません」私は、かろうじてそれだけを口にした。
「だから、あなたに頼んでるんじゃないですか。久遠靜さん」
名前を呼ばれ、びくりと肩が震える。この人は、どこまで知っているんだ。
「私はデジタル担当。あなたはアナログ担当。悪くないコンビだと思うけどな」
朱鷺坂響は、まるで太陽のように笑った。その光から逃げたいのに、彼女が提示した謎が、私をその場に縫い付けて離さない。
これは、取引だ。互いの専門知識を利用するための、ただそれだけの関係。アリストテレスが言うところの「有用性の友情」というやつか。友情などという言葉すら、おこがましい。だが、今は、それでいい。
私は、観念して、背中に隠していた『蓬莱私記』を、ゆっくりと彼女の前に差し出した。
「……少しだけですよ」
私の声は、自分でも驚くほど、か細く震えていた。
こうして、私の静かで完璧だった世界に、最初の亀裂が入った。それは、光と影の出会い。そして、悠久の時を超えた、巨大な謎への入り口だった。
朱鷺坂響と二人、書庫の奥にある小さな読書机に向かい合う。彼女は慣れた手つきでノートパソコンを開くと、目にも留まらぬ速さでキーボードを叩き始めた。私はといえば、改めて『蓬莱私記』の最初のページを、拡大鏡を使いながら慎重に調べていた。
問題の、幾何学模様の印。そして、その周りに配置された、未知の文字群。
「この図形、何かの地図に見えません?」響が、私の手元を覗き込みながら言った。
「地図だとしたら、縮尺が不明です。それに、この文字が読めなければ……」
「じゃあ、文字は一旦無視して、図形だけで考えてみましょう。何か、見覚えのある形じゃないですか? 例えば、東京の路線図とか、高速道路のジャンクションとか」
彼女の発想は、あまりに現代的で、私にはついていけない。だが、その言葉が、私の思考に新たな視点を与えた。
「……逆です」
「え?」
「現代の地図に当てはめるんじゃなくて、この図形そのものが、何かの場所を示しているとしたら。文字ではなく、図形そのものが、地名を表す表意文字のようなものだとしたら」
私は、かつて読んだ古代天文学の文献を思い出しながら、図形の中のいくつかの点を指で結んでいく。星図だ。これは、特定の星座の配置に似ている。
「北斗七星……いや、少し違う。でも、この配列は……」
「北斗七星に似てる? ちょっと待って」
響は即座に反応すると、データベースを検索し始めた。画面に、いくつもの星図が映し出されては消えていく。
「あった! これじゃないですか? 『将門伝説』に伝わる、北斗七星を模したとされる影の紋様。都内に点在する、将門ゆかりの地を結ぶと、この形になるっていう都市伝説が……」
彼女が画面に映し出した図形と、『蓬莱私記』の印が、ぴたりと重なった。
偶然か? いや、偶然にしては、出来すぎている。
「この印が、将門伝説に縁のある場所を示しているとしたら……」響は興奮したように身を乗り出した。「楢崎が将門塚を調べていたこととも、話が繋がる!」
彼女はすぐさま、その都市伝説に登場する場所をリストアップし始めた。将門の首塚はもちろん、彼の怨念が封じられたとされる場所、祟りの逸話が残る場所……。
そのリストを目にした瞬間、私は息を呑んだ。そこに並んでいたのは、いずれも東京に実在する、曰く付きの場所ばかりだったからだ。
鈴ヶ森刑場跡。千駄ヶ谷トンネル。戸山公園。
私の手の中にあるこの一冊の古書は、ただの文献ではなかった。それは、東京という都市の暗部へと誘う、呪われた地図だったのだ。
光に満ちた彼女の横顔を盗み見ながら、私は確信する。私は、とんでもない領域に足を踏み入れてしまった。もう、引き返すことはできない。
紙とインクの匂いしかしないはずの私の世界に、今、はっきりと、血と鉄の匂いが混じり始めていた。
太陽は、あまりにも眩しすぎた。
朱鷺坂響。彼女の存在は、私の静かな世界を白日の下に晒し、隠れていた埃の一粒一粒までをも照らし出す。逃げ場など、どこにもなかった。
私は、彼女と共犯関係になった。いや、そう思うことで、かろうじて正気を保っている。これは友情ではない。互いの利益のための、一時的な契約。彼女は私の知識を必要とし、私は彼女がもたらした謎から目が離せない。ただ、それだけだ。
だが、心のどこかで分かっている。私はもう、後戻りできない場所に立たされている。彼女が示したリスト――東京に点在する呪われた土地の名は、私の脳裏に焼き付いて離れない。
これから私たちは、その地図が示す場所を辿ることになるのだろう。それは、古書のページをめくるのとは訳が違う。生身の人間が、生身の人間の悪意や狂気が渦巻く場所へと、足を踏み入れるということだ。
私の城塞は、もうない。
太陽に引きずり出された影は、これからどこへ向かうのだろうか。
その答えを、私はまだ知らない。