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久遠の書架と響かぬ声  作者: 杜陽月
『古書と影の序曲』
1/6

失われた書物の出現

私の世界は、紙とインクの匂いでできている。


生きるとは何か。出会いとは何か。友情とは何か。

書物に記されたそれらの言葉は、私にとって遠い国の物語に過ぎなかった。生きることは、この古書の森で静かに呼吸をすること。出会いとは、新たな一冊と巡り合う、心躍る瞬間。友情とは、アリストテレスが分類した「有用性」「快楽」「徳」の定義を、ただ知識として知っているだけの間柄。


現実世界におけるそれらの言葉が持つ、生々しい手触りを、私は知らない。知りたいとも思わなかった。人は予測不可能で、その関係性はあまりに脆く、そして時に刃物となって心を傷つける。ならば、インクの染み込んだページだけを相手にしている方が、よほど安全で、幸福だとさえ思っていた。


この「悠久堂」の書庫は、私を守るための城塞だ。一冊一冊の本が、私と世界を隔てる煉瓦であり、石垣だった。だから、この日も、世界は同じように静かで、完璧であるはずだった。


一冊の、忌まわしい書物に出会う、その瞬間までは。

神田神保町。本の街。その裏路地に(ひっそ)りと(たたず)む古書店「悠久堂(ゆうきゅうどう)」の、さらに奥にある書庫。そこが私の世界のすべてだ。高い天井まで届く書架は、さながら知識の樹木が密集する森。降り積もった埃は、悠久の時が残した花粉のようだ。ここでなら、私は息ができる。誰の視線にも怯えることなく、ただ静かに、紙の森の住人でいられる。


私の名前は久遠(くおん)(しずか)。大学院で古代文献学を研究しながら、この悠久堂に住み込みで働いている。過去の出来事が、私から人並みの社会生活を送る気力と自信を根こそぎ奪い去ってしまった。以来、この古書の森は、私にとって唯一の聖域であり、現実から身を守るための城塞でもあった。


店主であり、私の後見人でもある綾辻(あやつじ)伊織(いおり)さんは、時折「カズモノ」と呼ばれる本の束を市場から仕入れてくる。価値の低い、あるいは値付けが面倒な雑多な本の集合体。しかし、こうした混沌の中にこそ、時折、真の宝が眠っていることがある。誰にも気づかれず、ただ静かに主を待つ、一冊が。うぶだし(・・・・・)の逸品が、埃を被って紛れている可能性もゼロではないのだ。


その日も私は、書庫の床に座り込み、カズモノの山を黙々と検分していた。一冊ずつ手に取り、背表紙を撫で、ページを繰る。その作業は、私にとって瞑想に近い。古紙の乾いた匂いと、インクのかすかな香り。それは私を安心させる、世界で最も優しいアロマだった。明治期の活版印刷、戦前のざらついた紙、戦後のインクの匂いが混じり合った独特の空気。それは、私にとって時間の香りそのものだった。


山の中から、色褪せた表紙の『武家百人一首』を抜き取る。パラパラとページをめくると、持ち主だったであろう人物の几帳面な書き込みが目に付いた。こういう痕跡を見つけると、その本が生きてきた時間に思いを馳せることができる。この本は、どんな人生を旅してきたのだろう。どんな書斎で、どんな指にめくられてきたのだろう。


次に手に取ったのは、戦前に出版されたであろう探偵小説全集の一冊。表紙は擦り切れ、ページの端は茶色く変色している。いわゆる「ヤケ」というやつだ。だが、それすらも愛おしい。この本が経てきた時間の証明なのだから。


そんな風に、一冊一冊との対話を楽しみながら作業を進めていた、その時だった。指先に、明らかに異質な感触が伝わったのは。


和綴じの本。だが、その手触りが違う。表紙に使われているのは、経年変化で飴色になった和紙だが、その密度が尋常ではない。手に吸付くような、滑らかな質感。私は慎重にその一冊を抜き出した。


表題はない。墨で書かれた文字は、私が知るどの時代の、どの書体とも異なっていた。それは文字というより、記号の羅列に近い。あるいは、何かの設計図か。ページをめくると、インクのかすかな香りと共に、古い紙だけが持つ、甘く乾いた匂いが鼻腔をくすぐった。チョコレートにも似た、甘く、そして微かに苦い香り。


これは一体、何だ?


私の思考が、高速で回転を始める。偽書か? いや、この紙の質感、墨の浸透具合は、少なくとも数百年は経ている。では、これまで知られていなかった地方の、特殊な文献か? それにしては、この記号の体系性はあまりに洗練されすぎている。まるで、一つの完成された言語体系だ。私の知識不足か? それとも、これ自体が何かの欺瞞(ぎまん)なのか?


思考の迷宮に囚われかけた私の耳に、店先の小さなテレビが伝える、無機質なニュースキャスターの声が届いた。


「……本日未明、著名な歴史研究家である楢崎正臣氏が、都内の自宅から忽然と姿を消したことがわかりました。警察によりますと、部屋に荒らされた形跡はなく、争った形跡も見られないということです。ただ、書斎の床には……」


私は立ち上がり、書庫の入り口から店先を覗き込む。画面には、鑑識官が取り囲む書斎の映像。そして、フローリングの床に描かれた、奇妙な幾何学模様の印がアップで映し出された。


心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。その模様に、見覚えがあったからだ。私が今、手にしているこの謎の和綴じ本。その最初のページに記された印と、酷似していた。


外の世界の出来事など、私には関係ない。そう思っていたはずなのに。私の手の中にあるこの一冊が、急速に現実の重みを帯びていく。これは、ただの古い本ではない。これは、触れてはいけない、何かだ。


伊織さんは今日の古書交換会で、この本が混じったカズモノを落札したと言っていた。出品者は誰だったのだろう。まさか、楢崎氏本人では……。


嫌な汗が背中を伝う。この本は、単なる希少古書ではない。これは事件の証拠品、あるいは元凶そのものかもしれない。だとしたら、私はどうすればいい? 警察に届けるべきか? いや、待て。私がこれを悠久堂で見つけたと、誰が信じるだろう。過去の経験が、私の思考にブレーキをかける。人と関わること、特に公的な権力と関わることは、私にとって最大の恐怖だ。私の言葉は、きっと誰にも届かない。それどころか、あらぬ疑いをかけられるかもしれない。


思考が堂々巡りを始める。この本は、私を外の世界へと引きずり出すための、呪われた招待状なのかもしれない。


私は和綴じ本を固く握りしめたまま、再び書庫の奥へと後ずさった。本の森の奥深く、誰の目にも触れない場所へ。しかし、一度知ってしまった現実は、もう私を解放してはくれなかった。


紙とインクの匂いに満ちた私の世界に、今、はっきりと、事件という生々しい現実の匂いが混じり始めていた。

静寂は、破られた。


私の世界に許された音量は、古書のページをめくる、かさりという乾いた音だけだったはずだ。それなのに、あの女――朱鷺坂響は、私の世界の許容範囲を、いともたやすく超えてきた。彼女の声、彼女の足音、彼女の存在そのものが、私の築き上げた城壁を内側から破壊していくような、暴力的なまでの生命力に満ちていた。


一冊の古書。それは、私にとって知的好奇心を満たすための、安全な謎であるはずだった。だが、それはいつの間にか、私と忌まわしい現実とを繋ぐ、一本の鎖と化していた。


失踪事件。謎の印。そして、太陽のように眩しく、土足で人の心に踏み込んでくるジャーナリスト。


私は取引に応じた。それは友情などではない。互いの能力を必要とする、ただの「有用性」に基づいた、一時的な協力関係に過ぎない。そう自分に言い聞かせなければ、立っていることすらできなかっただろう。


私の手の中にあるのは、もはやただの和綴じ本ではない。それは、東京という都市の暗部を指し示す、呪われた地図だ。そして私は、その地図を解読する唯一の鍵を握ってしまった。


紙とインクの匂いしかしないはずだった私の世界に、今、はっきりと、血と鉄の匂いが混じり始めている。私の世界は、もう二度と、元の静寂を取り戻せないのかもしれない。


その予感が、私の喉をカラカラに乾かしていた。

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