第9話 交差する道、揺れる心境
“霧の谷”を越えた朝、静けさの中にそれぞれの想いが揺れていた。
今回のエピソードでは、仲間たちの心の距離が少しずつ近づいていく様子、
そして「記憶」という不確かなものに触れたことで芽生える問いや決意を描いています。
小さな焚き火のまわりで交わされた言葉たちが、
読んでくださるあなたの心にも、そっと残るものでありますように。
霧の谷を抜けたのは、夜が明けきる直前のことだった。
空はまだ鈍く灰色で、東の地平がようやくわずかに朱を帯びている。
「……もうすぐ朝か」
アオイが空を仰ぎながら、ぽつりとつぶやく。
その声に反応するように、背後からレオンが歩み寄ってきた。
「お前も寝てないのか?」
「……少しだけ、うとうとは。でも、まだ頭の中がうるさくて」
「まぁな。俺もだ」
小さく笑って、ふたりは並んで歩き出す。
後方では、ガルドが静かに鍋をかき混ぜ、温かいスープを作っている。
ユナとミレイは焚き火のそばで肩を寄せ合い、疲れた体を休めていた。
谷の中で出会った“記憶の魔物”──
そして、その残した断片的な記憶。
仲間たちは、まだその余韻の中にいた。
「ユナちゃん……大丈夫かな」
思わず心の中でつぶやいたアオイの胸に、昨日の彼女の瞳が焼き付いている。
(あのとき、ユナちゃんが前に出て、俺が後ろにいた。守りたくて、でも……まだ、力が足りない)
自分の手を見つめ、アオイは拳を強く握りしめた。
レオンがふと足を止める。
「アオイ。焦るなよ」
「……え?」
「そういう顔してる。オレたちはまだ始まったばかりだろ。全員無事で、ここまで来た。それだけで充分だ」
その言葉に、アオイは少しだけ肩の力を抜いた。
「ありがとう、レオンさん」
ふたりの間に、短い静寂が流れる。
そして──
「よぉ、朝飯できたぞ」
焚き火のほうから、ガルドのくぐもった声が響いた。
香ばしい匂いとともに、湯気の立つスープが配られる。
「はぁ……あったか……生き返る……」
ミレイが猫のように身を丸めながら、スープをすすった。
ユナもまた、そっと笑みを浮かべる。
「ありがとう、ガルドさん。おかげで、また少し力が湧いてきたよ」
「……体冷えるからな。塩もちゃんと入れてある」
「へぇ、気が利くじゃん」
「……慣れてるだけだ」
ぼそりとつぶやいたガルドの背中を、アオイはじっと見つめた。
(──あの人も、何かを抱えてる。きっと、誰にも見せないままで)
胸に小さな痛みを覚えながらも、アオイは目をそらさなかった。
“この仲間と、もっと強く繋がりたい”
焚き火の炎が、彼の決意を映すように、ぱちりと弾けた。
食事を終えたあとは、それぞれが小さな休息の時間を取っていた。
火の揺らぎと、湯気の残る器。
まだ誰も本格的な会話を始めようとしないのは、きっと言葉よりも余韻が強すぎるからだった。
そんな中、ぽつりとアオイが口を開いた。
「ねえ……昨日の“魔物”、あれって……やっぱり誰かの“記憶”なんだよね?」
答えたのは、少し間をおいたユナだった。
「うん。きっと“想い”が強すぎて、形を持ってしまったもの……そんな感じがする」
「悲しみ、怒り、執念──」
ミレイが続ける。
「それが“魔力”と混ざったら、ああいう形になるってこと?」
「正確な理屈はわからない。でも、“心”が何かを残したんだと思う。消えてしまうには、強すぎた何かを」
ユナの言葉に、アオイはそっと手のひらを見つめた。
(じゃあ……俺の中の想いも、いつか“形”になるのか?)
思いを巡らせていると、不意にガルドが口を開いた。
「……あの谷、俺には見覚えがある気がした」
アオイが顔を上げると、ガルドの目は焚き火の奥、何か遠くを見つめていた。
「昔、ああいう場所で……誰かと一緒に暮らしてた。小さな村だった。何もないけど、温かい場所だった」
皆が静かに耳を傾ける。
「ある日、村が焼かれた。理由は……わからない。ただ、気がついたら全部……消えてた」
それきり、ガルドは何も言わなくなった。
(……それを語るのに、どれだけの時間がかかったんだろう)
アオイの胸に、何か重たいものが静かに積もっていく。
「……俺、あの谷で誰かの記憶を見て……怖くなった」
アオイがゆっくりと話し始める。
「知らない記憶なのに、何かが胸に刺さって。誰かの悲しみを見た気がして、息が詰まりそうだった」
「アオイ……」
ユナがそっと視線を向ける。
「でも、それでも前に進まなきゃって思った。何かを知りたいからじゃない。“誰かの痛み”を無視したくなかったから」
誰かの心の奥に、そっと触れたくなるような、そんな言葉だった。
「……バカ正直だな、お前は」
レオンが、少しだけ笑って肩をすくめた。
「でも、悪くねぇよ。それが“俺たちのやり方”なんだろうな」
その言葉に、誰も反論しなかった。
焚き火の温もりが、彼らの沈黙をやさしく包み込んでいく。
そしてアオイは、心の中でまたひとつ呟く。
──ユナちゃん、マジ天使。
彼女のそばにいると、自分の中に眠っていた“まっすぐな想い”が、少しずつ形になっていく気がしていた。
翌朝。
谷の気配を抜けた途端、空の色が変わった。
霧の重たさを脱いだ空気は少しだけ軽く、空も高く澄んでいる。
アオイたちは“霧の谷”を越え、無事に街へと戻ってきた。
「……戻ってきたな」
レオンが肩の力を抜く。
一行の顔にも、それぞれに安堵の色が見えた。
ギルドの門をくぐると、すぐに応対係が駆け寄ってきた。
「“暁星の灯”の皆さん、お帰りなさい!調査任務の報告は?」
「あとでまとめて提出する。まずは休ませてくれ」
レオンが静かに返すと、係員は恐縮したように頭を下げた。
──ギルド本部、報告室。
後日、正式な報告を終えたアオイたちは、ギルド幹部からの評価を待っていた。
「“赤い焔”の調査報告、確かに受け取った。詳細な記録、見事だ」
審査官のひとりが、眼鏡越しに資料を読み上げる。
「ただし……君たちの報告によると、“紅の騎士団”が先に現場に到達していた、とのことだな?」
「はい。痕跡から見て、間違いありません」
レオンが答える。
「紅の騎士団が何かを探している可能性がある──君たちはそう記しているが、その“何か”の核心には迫れていない。……その認識で間違いないか?」
「……ええ。今の段階では」
沈黙が落ちる。
(あの“痕跡”──やっぱり、もっと深い意味があるんだ)
アオイは、懐にある小さな黒い石を思い出す。
赤く焦げたようでいて、わずかに青の魔力も感じる──あの石を。
「引き続き調査継続を希望するか?」
「はい。我々は任務を完遂する意志があります」
レオンの答えに、審査官たちは数秒だけ目配せを交わす。
「よろしい。だが……今後、紅の騎士団との接触には十分注意せよ。彼らは王国直属の存在だ。勝手な干渉があってはならない」
「承知しました」
そうして、審査は終わった。
ギルドの廊下を歩きながら、ミレイがぽつりと呟く。
「……やっぱり、“彼ら”の評価は分かれてるみたいね」
「英雄視する人もいれば、危険視する人もいる。どっちが本当かなんて、本人たちしか知らないだろうけど」
「けど、確かに見たよな。あの時の“力”と“目”……」
アオイは、谷で対峙したヴァルドたちのことを思い出す。
あれはただの敵意じゃない。
何かを背負っている目だった。
そのとき。
「アオイ」
後ろから、ユナが声をかけてきた。
「これから、少し時間ある?」
「うん。どうしたの?」
「話したいことがあるの」
その声音は、どこか迷いを含みながらも──どこか、強かった。
日は沈み、街に夜の帳が降りる。
灯火が揺れる静かな宿の一角、アオイとユナは並んで腰掛けていた。
宿の裏庭には小さな池があり、その水面に映る星々がちらちらと揺れている。
虫の声だけが夜を彩り、まるで時間がゆっくりと流れていくようだった。
「……ここ、落ち着くよね」
ユナがそっと呟く。
「うん。静かで、安心する」
アオイも同じように、夜空を見上げた。
しばらく沈黙が続いたあと──
ユナはぽつりと口を開いた。
「……ねえアオイくん、あの谷でのこと、覚えてる?」
「うん。忘れられないよ」
「“痕跡”──きっと、あれは私たちだけじゃなくて、あの人たちにも……紅の騎士団にも関係ある。そんな気がするの」
「……うん。俺も、同じことを思ってた」
「記憶を喰う魔物、燃えた村、誰かの想いが宿った石碑……あれは全部、つながってる。でも、まだ何も見えてこない」
ユナの声には、少しだけ揺らぎがあった。
「だからこそ、怖いのかもしれない。真実が、見えてしまうことが」
「ユナちゃん……」
アオイがそっと彼女を見ると、ユナは微笑んでいた。
「でもね──それでも、私は進みたいの。どんなに怖くても、目を逸らさないって決めたから」
「それって……過去のこと?」
「……うん。昔のこと。ずっと、心の奥に沈めてた記憶。でも、この旅が始まってから、少しずつそれに向き合えるようになった気がする」
アオイは、彼女の横顔を見つめながら、心の奥が温かくなるのを感じていた。
(ユナちゃん……本当に、強い)
(マジ天使)
けれどその強さは、きっと優しさの裏返しで──
何度も傷ついて、それでも笑おうとしてきた人だけが持てるものだと、アオイは思った。
「俺も、進みたい」
そう呟いた言葉は、空気に吸い込まれるように静かに溶けていった。
「アオイくん……」
「まだ全然、自信ない。でも──ユナちゃんが一緒にいてくれるなら、俺、少しずつでも変われる気がするんだ」
ユナは一瞬、目を見開いて、そっと微笑んだ。
「うん。一緒に進もう」
夜風が二人の間をやさしく吹き抜ける。
決意の夜──
静かな想いが、少しだけ交差した時間だった。
翌朝──
ギルドの依頼掲示板の前には、すでに多くの冒険者たちが集まっていた。
街の中央にあるその建物は、活気に満ち、昨日までの静けさが嘘のように感じられる。
アオイたちは、そのざわめきの中でひときわ目立つ一枚の依頼に目を留めた。
「これ……」
レオンが声を漏らす。
依頼書には、こう書かれていた。
【急募】王都東部にて、“記憶の異常現象”が多数報告。
原因不明、調査班複数名がすでに帰還不能。
特級危険区域に指定。慎重な調査を要す。
「“記憶の異常”……?」
アオイが眉をひそめる。
「また、“記憶”か……。偶然にしては、つながりすぎてるな」
レオンが静かに呟いた。
「この報告書、詳細が少なすぎる。……でも、“帰還不能”ってのが気になる。魔物じゃなくて、“現象”なんだな」
ミレイが腕を組んで唸る。
そのとき、ギルド受付のほうで騒ぎが起きた。
「おい、また記憶喪失かよ! これで今週に入って3人目だぞ!」
「幻覚が見えたって奴もいた。しかもみんな、同じ場所に行ってたらしい」
「……あの、東部の廃教会跡地だよな……」
ざわめきの中、アオイたちは顔を見合わせる。
「これ、偶然じゃない」
ユナの声には、強い確信があった。
「この異常、“霧の谷”と似てる。魔物じゃなくて、“想い”が形を持ってる。たぶん、また……“痕跡”だと思う」
「……だとしたら、俺たちが行くしかない」
アオイの言葉に、レオンが頷く。
「ギルドの許可を取って、正式に引き受けよう。“暁星の灯”としてな」
「ちょ、ちょっと待ってよ! さすがに危険すぎるって! “帰還不能”だよ!?」
ミレイが慌てたように叫ぶが、誰も引き下がる様子はない。
「けど……放っておいたら、誰かがまた……記憶を奪われるかもしれない」
アオイが真っ直ぐに言ったその声に、ミレイは観念したように肩をすくめた。
「もう、アオイくんが言うとさ……断れないじゃんか」
「ありがとう、ミレイさん」
「……あんたが無事でいてくれりゃ、それでいいよ」
こうして、彼らの次なる任務が決まった。
“記憶の異常現象”──
それは、想像を遥かに超える深淵への入り口だった。
早朝の街は、ひんやりとした空気に包まれていた。
まだ太陽も高く昇っていない時間、冒険者たちの足音だけが石畳に響いていた。
「……やっぱり、朝の空気って気持ちいいね」
ユナが肩に背負った荷物を整えながら、ぽつりと呟いた。
「この時間なら、まだ街の喧騒も遠いからな」
レオンが静かに応じる。
アオイたち〈暁星の灯〉の面々は、すでに準備を整え、街の東門の前に集まっていた。
「ミレイ、弓の調整は大丈夫?」
「バッチリ。ってかさ、またあの“記憶の異常”に突っ込むとか、ほんっとあんたら無茶するよね」
そう言いつつも、ミレイはしっかりとした足取りで、歩く気満々の様子だった。
「……危険でも、止まってはいられない。俺たちにしかできないことかもしれないから」
アオイの言葉に、ガルドが小さく頷いた。
「……“忘れる”ってのは、時に死より怖い」
その言葉に、誰もが少しだけ黙り込んだ。
(ガルドさん……やっぱり、なにかを知ってる)
アオイはそう思いつつも、あえて問いかけなかった。
──人には、それぞれ、語らぬ記憶がある。
無理に引き出すよりも、そっと見守ることを、アオイはこの旅で少しずつ覚えていた。
「さて、じゃあ行こうか。今日も長い一日になるぞ」
レオンが口を開くと、皆が頷いた。
そして、一歩を踏み出す。
“記憶”の異常が起きているという、王都東部の廃教会跡地へ。
その背中に、朝の光がそっと降り注いだ。
それぞれの“想い”を胸に、彼らは再び歩き出す。
ただ静かに──でも確かに、“誰かのために強くなる”という覚悟とともに。
そして、まだ誰も知らない“記憶”の真実が、ゆっくりと、彼らの前に姿を現そうとしていた──。
今回も最後まで読んでくださって、ありがとうございます!
“霧の谷”での出来事を経て、物語はひとつの節目を迎えました。
戦いだけではなく、“想い”や“記憶”といった形のないものにどう向き合うか──
そんなテーマを、少しずつ掘り下げていけたらと思っています。
とはいえ、まだ旅は始まったばかり。
修行も、新たな出会いも、これからです。
この静かな章が、後の展開への小さな種になれば嬉しいです。
それでは、また次の話でお会いしましょう。