第6話 霧の谷にて、祈りは届かず
霧の谷にて、仲間たちは「記憶」と「心」に試されます。
剣も魔法も通じない相手に、彼らは何を信じ、何を掴もうとするのか——。
今回のお話では、アオイたちが初めて“形のない敵”と向き合い、
それぞれの内にある記憶と向き合う姿を描いています。
静かで、でも確かな“強さ”の始まりを、ぜひ感じてください。
その“抜け殻”が、霧を割って現れた瞬間——
空気が、音ごと凍りついた。
アオイは反射的に剣を抜いた。だが、その手に宿るはずの感触すら、どこか霧にかき消されるような不安定さがあった。
「動きが……変だ……」
レオンが唸るように言う。
“それ”は、確かに人の形をしている。だが、関節の動き、足音のなさ、肌の質感……
どれもが異様で、何よりも、こちらを見ているはずなのに、“目が合わない”。
「おい、来るぞ!」
ガルドが盾を構える。その瞬間、“抜け殻”が音もなく跳躍した。宙に浮いたかのように、滑るように距離を詰めてくる。
「ガルド、右からもう一体!」
ミレイの警告と同時に、霧の中からもう一体、“それ”が姿を現す。
「……分裂してるのか?」
アオイは目を細めた。だがそれは、そうではなかった。
「違う……“別の記憶”……!」
ユナが震える声で言った。
目の前にいる“抜け殻”たち。それぞれが、かつてこの谷で命を落とした者たちの“断片”——
その形を模した、魔力の亡霊。
「“夢”と“記憶”の境界が……歪んでる……!」
ユナの言葉に、レオンが叫んだ。
「考えるのは後だ! 今は生き残れ!」
先陣を切って突っ込んできた“抜け殻”に、ガルドの盾が真正面から叩きつけられる。衝撃音はしたが、肉の手応えがない。
それでも、“それ”はバランスを崩し、地に伏した。
「効くぞ!」
「でも、動きが早すぎる……!」
ミレイが風の魔法を展開するが、霧が干渉して術式が途中で霧散する。
「ユナちゃん!」
アオイが叫ぶ。彼女は後方で詠唱に集中していた。
「少し時間を稼いで! “記憶の干渉”を抑える術式を!」
「わかった、俺が——!」
アオイは前に出た。
“魔法の才能がない”自分にできることは、一つだけ。前に出て、攻撃を引き受け、時間を稼ぐ。
「俺の拳は、通用するのか……?」
自問する暇もなかった。“抜け殻”が跳んだ。反射的に拳を突き出す。
ズドン!
空を切るような違和感とともに、拳が“それ”の胸元を貫いた。
手応えは、あった。
しかし、肉を打つ感覚ではない。
まるで、“記憶そのもの”を打ったような、奇妙な反響がアオイの腕に残った。
「効いてる……? いや、でも……!」
“抜け殻”の身体が、一瞬だけ光を帯びる。
「おい、アオイ、下がれ! 反撃来るぞ!」
レオンの声と同時に、“それ”が奇妙に曲がった手でアオイに向かって振りかぶった。
(間に合わない——!)
その瞬間、アオイの背後から、風が吹いた。
「“退け、霧の呪縛——〈風裂陣〉!”」
ミレイの魔法が、記憶の魔物を吹き飛ばす。
一拍置いて、ユナの詠唱も完成する。
「“記録されし夢、束ねて眠れ——〈封記結界〉!”」
霧の中に、淡い光の帯が浮かぶ。
結界が張られた。たった数秒。だが、それが戦場に冷静さを取り戻す時間をくれた。
「……ありがとう、助かった」
アオイは苦笑して言った。額から汗が滴る。
「まだよ、これからよ……!」
ユナが前を見据える。
霧は消えていない。気配も、まだある。
「ここからが本番だ——“記憶”は、まだ終わらない」
アオイたちは、再び構えを取った。
次に来る“記憶”の魔物に、備えて——。
「三体目、左から来る!」
ミレイの声が鋭く響いた。
彼女の風魔法が霧を切り裂き、輪郭の曖昧な“抜け殻”をあらわにする。
「ガルド!」
「応!」
ガルドの盾が、その抜け殻の突進を真正面から受け止めた。
金属が悲鳴を上げる音。だがその重さを、彼はびくともしない膂力で受け止める。
「くっ、こいつら……重さがないようで、ある!」
「夢の記憶は質量すら引きずる、ってことか!」
レオンが叫びながら、剣を抜いて前へ出る。
その剣筋はまっすぐに“抜け殻”の胸を裂いた……かに見えたが、剣は手応えを残したまま、霧のようにすり抜けた。
「通らねぇ!? ……こいつ、本当に“存在”してんのか!?」
「存在してる! ただ、“現実とは違う”だけ!」
ユナが叫ぶ。
彼女の詠唱が再び始まる。結界によってかろうじて霧の濃度が抑えられているものの、それも時間の問題だった。
(何ができる……?)
アオイは、拳を握りしめたまま考える。
——剣は、きっと通じない。
——魔法は、使えない。
——でも、足は動く。意識はある。まだ、やれる。
「ミレイ! 左のやつ、注意を引いてくれ!」
「了解!」
風が巻き、抜け殻の注意が一瞬ミレイに向く。その隙を突いて、アオイは地面を蹴った。
目の前に迫る記憶の魔物に向かって、真正面から突撃する。
(恐怖はある。でも、こいつは……“誰かの悲しみの記憶”だ)
そう思った瞬間、不思議な冷静さがアオイの中に降りてきた。
拳を構え、心を沈め、真正面から渾身の一撃を叩き込む。
——ドンッ!
音がした。霧の中で、“それ”が明確に吹き飛んだ。
何かが、砕けたような音もした。
「……通じた?」
「アオイ、今の……!」
ユナが目を見開く。魔法でもなく、剣でもなく。
“生の拳”で、確かに記憶の魔物を退けた。
「力の源……」
アオイは、自分の手を見た。
一瞬、体の奥から何かが“うねる”ように流れた感覚があった。だがそれは、またしてもすぐに消えた。
「……わからない。でも、まだ動ける!」
「なら前へ! 抑えるぞ!」
レオンが叫び、仲間たちが再び陣を整える。
ガルドは二体目を、ミレイは三体目を、それぞれ引き受け、ユナは詠唱を続けながらアオイの後方に立つ。
「アオイくん、無茶はしないで」
「……うん。でも俺、何もできないまま後ろにいるのは、もう嫌なんだ」
その一言に、ユナは目を伏せ、そして静かに頷いた。
「じゃあ、信じてる。あなたの、その想いを」
一瞬、アオイの胸に熱が宿る。
それはまだ“魔法”とは呼べないものだったが、
戦場の霧を、一瞬だけ切り裂いた——希望の熱だった。
——ひゅぅ、と音がした。
空気が揺れるほどの速度で、抜け殻が風を裂いた。
それはすでに“ただの記憶”とは言えない。
形を持たぬまま、力だけを持ち、アオイの真横をすり抜けた。
「っ……ユナちゃん、下がって!」
「大丈夫、ここからなら援護できる!」
ユナの魔法陣が輝き、淡い光の加護がアオイを包む。
それは盾ではない。ただ、温もりのような防壁。
——心を守るもの。
(あの時、ミレイが言ってた。“記憶が引きずり出される”って……)
アオイは拳を握ったまま、目の前の“抜け殻”を見つめた。
人の形をしていながら、その顔はぼやけ、誰かの“記憶”をなぞっているようだった。
「……やめてよ」
突然、ミレイの声が震えた。
彼女の視線の先——
一体の魔物が、幼い少女の姿に変わっていた。
「それ……あたしじゃん……」
その声は小さく、だが全員がはっきりと聞いた。
「何が見えてる?」
レオンが叫ぶ。ミレイは唇を噛みしめ、首を振った。
「昔、引き離された妹……あたしのせいで……」
「違う、それは魔物の術だ!」
アオイが声を張る。だが、霧の濃度が増すごとに、記憶の魔物たちは“形”を得ていく。
ユナの視線の先にも、一人の少年が立っていた。
金髪で、瞳が同じ色だった。
「……お兄ちゃん……?」
「ユナ、下がれ!」
レオンが盾でユナを庇い、すぐさま振り返る。
「これは幻だ! 思い出に飲み込まれるな!」
「けど、あの目……あの声……」
ユナの瞳が揺らいでいた。
ガルドが無言で霧を払うように前に出て、無言の“気合”を叩き込む。
(……このままじゃ、バラバラにされる)
アオイは自分の足元が揺らぐ感覚に気づいていた。
耳元で、誰かが囁く。
——「お前には、何もできない」
——「どうせまた、誰も救えない」
過去の声だ。あの村で、背を向けられた記憶。
何もできなかった自分。誰からも期待されなかった自分。
(……違う!)
心の奥底から湧き上がる反発。
それは、昨日の夜、仲間たちと過ごした焚き火のぬくもり。
ユナの言葉、レオンの笑い、ガルドの静かな視線、ミレイの軽やかな声。
——“共にある”という実感。
「戻れ!! お前は“俺の記憶”じゃない!!!」
アオイが叫んだ瞬間、霧がひとつだけ、風に吹かれたように晴れた。
その一角で、記憶の魔物の輪郭が崩れる。
(今、ほんの少し……届いた)
身体の奥が、熱を帯びる。
心が、霧の中でもがく仲間たちへと向かっていく。
「ミレイ、聞こえるか!? そいつはお前じゃない!!」
「……うるさい! わかってるよ……! でも、あの顔、あの声……!」
ミレイが叫ぶ。ユナも、ガルドも、霧の中で自分と戦っていた。
アオイはその中心で、歯を食いしばる。
(俺の拳が、仲間に届くなら……)
何かが、確実に変わり始めていた。
「ミレイ、左だ!!」
アオイの叫びに反応し、ミレイが身を翻す。
寸前のところで、幻影をまとった魔物の腕が空を切った。
「……ありがと」
ミレイが短く礼を言うが、その顔にはまだ戸惑いの色が残っている。
“妹の幻影”は、なおも彼女の周囲を漂っていた。
(……やっぱり、これは“精神”を攻めてくる敵なんだ)
剣や魔法だけじゃ届かない。心の内側に入り込み、最も脆いところを突いてくる。
——そんなものに、負けてたまるか。
アオイは霧の中で足を強く踏みしめた。
そして、まるでそこに本物の肉体があるかのように——“記憶の魔物”へと拳を突き出す。
「……うぉおおおっ!!」
——ズンッ!
重たい手応えが返ってきた。
「っ……通じた!?」
アオイの拳が、魔物の“胸”に直撃した瞬間、霧がほんの少し裂ける。
内部にあった“核”のようなものがぐらつき、歪んだ輪郭がぶれていく。
「やった……! アオイの拳が……!」
ミレイの目が見開かれた。
ユナも、ガルドも、その光景に一瞬だけ希望の色を取り戻す。
「お前ら、見えてるか!? こいつら、攻撃が効く!!」
「物理、通るってことか……!?」
レオンが剣を抜くと、ユナもすかさず呪文を唱える。
「“光よ、迷いを祓え——リュミエール!”」
ユナの魔法が霧の一角を貫いた。
光の柱が一本、現実との境界を引き裂くように落ちる。
「ユナちゃん、ナイス!」
「アオイくん、もう一発いける!?」
「……ああ!!」
再び拳を握りしめる。
心の中で囁く声は、まだ残っていた。
——「お前なんかに、守れるわけがない」
——「どうせ、また見捨てられる」
(……うるさいよ)
その声を振り払うように、もう一度拳を振るう。
今度は、確信と共に。
「うおおおおおっ!!」
拳が、霧の魔物の“顔”を撃ち抜いた。
抜け殻のようだった存在が、ぼろぼろと崩れ始める。
「効いてる! 本当に、効いてる!」
レオンが吠えるように言い放ち、剣を振るう。
ガルドは霧を払うように前進し、ミレイは軽やかに横に回り込んだ。
「行こう! 今が突破のチャンス!」
「ユナちゃん、後ろは任せて!」
「うん!」
戦いは一気に動き出した。
最初の絶望が、少しずつ希望に変わっていく。
それは、ただ勝ち目が見えたからではない。
——“心が、繋がった”からだ。
アオイの拳は、確かに“仲間たち”に届いたのだ。
そして彼は、気づいていた。
(俺……今、戦えてる)
過去でもなく、未来の不安でもなく。
“今”を、仲間と共に戦っている。
霧の中、そう思えたことが、何よりも強かった。
「右から来る!」
ミレイの声に応じて、アオイがすぐさま振り向く。
濃霧の中、ふらりと現れたもう一体の魔物が、ゆらりと手を伸ばしてくる。
「おせぇんだよ!」
レオンの剣が唸りを上げ、魔物の腕を切り裂いた。
それと同時に、ユナの補助魔法がアオイとレオンを包み込む。
「“聖なる力よ、彼らに祝福を——セリア”!」
魔法の光が、ふたりの足元に浮かび上がった瞬間、霧がわずかに後退する。
「っしゃ、いけるぞ!」
「アオイ! 今!」
「……うおおおおっ!!」
全身の力を込めたアオイの拳が、再び魔物の“核”を貫いた。
ひび割れるような音が響き、霧の中に広がっていく。
魔物が、静かに崩れていった。
残されたのは、しんとした沈黙。
──だが、それは“終わり”ではなかった。
「みんな……見て」
ユナが静かに指さす。
崩れた魔物の中心に、淡く光る“何か”があった。
それはまるで、夢の残滓のように儚く、けれど確かにそこに存在していた。
「これは……“記憶”?」
「……誰かの想いだ。断片的だけど……ほら」
アオイが手を伸ばすと、それはまるで映像のように広がった。
笑い声。
誰かが誰かの手を引いて、森を駆ける。
それはきっと、遠い昔の記憶だった。
「ここで……誰かが、生きてたんだ」
ガルドがぼそりと呟いた。
その言葉に、全員が黙り込む。
「この谷、“ただの魔物の巣”なんかじゃない。何か、もっと大きなものが……」
ミレイの声が、わずかに震えている。
「“記憶”を食う魔物……ってことはさ、誰かの想いが、ここで喰われたってことなんじゃない?」
「うん。きっと、“痕跡”はこの先に続いてる。……私、感じる」
ユナが霧の向こうを見つめながら、強く頷いた。
アオイもまた、その言葉に背を押される。
——試されていたのは、きっと“心”だった。
恐れや迷いに囚われるか、それでも前を向けるか。
霧の谷は、彼らの覚悟を確かめていたのだ。
「よし……行こうか、みんな」
レオンの声に、全員がうなずく。
崩れた魔物の跡地には、もう何も残っていなかった。
だが彼らの心には、それぞれの“なにか”が刻まれていた。
そうして、“霧の谷”を越えて、仲間たちは再び歩き出した。
霧の谷の中心部は、まるで時間が止まったように静かだった。
霧は依然として濃く、輪郭を失った木々が不気味に立ち並ぶ中──その一角だけ、風がそっと吹き抜けた。
「……ここだけ、霧が薄い」
ミレイがぽつりと呟いた。
確かに、その場所は何かに守られているかのように、視界がわずかに開けていた。
地面には、小さな石碑のようなものが埋もれており、その表面には風化した刻印があった。
「読めないな……何の文字だろう?」
レオンが首をひねるが、誰にも判別はできない。
「でも……ここ、“大事な場所”だった気がする」
ユナがそっと手を触れた瞬間、石碑の周囲に一瞬だけ魔力の波紋が走った。
(……あの夢の中で、見た光景と同じだ)
アオイの中に、記憶の断片がフラッシュバックする。
草原に咲く青い花、誰かの祈る背中、そして……この石碑に似た何か。
「やっぱり、“痕跡”はここにある」
ユナの言葉は、確信に近かった。
「けど……今は、これ以上深くは掘り下げられないな。体力も、魔力も、ギリギリだ」
レオンが皆の顔色を見回す。
誰もが疲れ切っていた。
戦闘だけでなく、この谷が与える精神的な重圧は、彼らの内側を静かに削っていた。
「ここで一度、引き返そう。痕跡の“入口”は見つけた。あとは準備を整えて、改めて来ればいい」
「……賛成」
ユナもゆっくりと頷いた。
アオイは、ふと足元を見た。
そこには、小さな白い花が咲いていた。誰にも踏まれることなく、ただ静かに。
「ねぇ、この花……」
「……“シラユリ”だな。東の地方じゃ、“再会”って意味があるらしいぜ」
レオンがぽつりとつぶやく。
アオイは、言葉にできない感情が胸の奥でじんわりと広がるのを感じていた。
再会──
まだ出会っていない“誰か”との。
あるいは、自分自身の“過去”との。
(何かが、確かに始まっている)
そう感じながら、彼は静かに歩き出した。
仲間たちとともに。
霧の谷の“祈り”を胸に刻みながら──。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
「記憶」というものには、時に重さがあります。
思い出したくないもの、向き合いたくない過去、それでもそこにある誰かの想い。
この霧の谷のエピソードは、アオイたちの“心の修行”のはじまりでもあり、
彼らが本当の意味で“仲間”になっていく第一歩を描いたつもりです。
物語はまだ始まったばかり。
この先も、彼らの歩みを見守っていただけたら嬉しいです。
また次の話でお会いしましょう。