第31話 赤の兆し、夜を染めて
“記憶の谷”を越え、アオイたちは次なる目的地「北の祠」へと向かう──
しかし、その道中で、世界の異変がはっきりと姿を現し始める。
瘴気に蝕まれた村。
空に現れた“赤い月”。
そして、再び現れる紅の騎士団──
迫る災厄の兆しに、アオイたちはどう立ち向かうのか。
朝の光が、谷に差し込んでいた。
昨日までの冷たい空気は、少しだけ和らいでいる気がした。
けれどそれは、穏やかな日常の訪れではなく──
別れの余韻が、静かに辺りを包んでいるからかもしれなかった。
アオイは、立ち止まった。
谷を抜ける前に、もう一度だけ、あの石碑を振り返った。
淡い光はもう消えている。ただ、風だけが優しく吹いていた。
「……ありがとな」
誰にともなく、小さく呟く。
隣にいたユナが、その声を受け取ったように微笑む。
胸元の護符──“風結の護符”に、そっと手を添えていた。
「行こうか」
アオイの一言で、皆が頷く。
レオンが肩を回し、ミレイがひとつ伸びをしてから、空を見上げた。
「今日も空は……曇りがちね。でも、昨日よりずっと軽い気がする」
「ふん。谷を出たら、次は“北の祠”だったか」
ガルドが低く呟くように言う。
アオイはうなずいた。
「フォンタナの谷を抜けた先にあるって、村の人が言ってた」
「古い祠……ってことは、また何か眠ってる可能性あるね」
ミレイが言いながら、足を踏み出す。
──そして、アオイたちは歩き出した。
“記憶の谷”をあとにし、世界の異変に向かって。
森を抜ける道は、いつもより静かだった。
鳥のさえずりもなく、葉の擦れる音さえ遠ざかっている。
「……気のせい?」
ミレイが立ち止まり、首をかしげる。
「風の通りが、変なのよ。流れてこないっていうか、……詰まってる?」
アオイも鼻をかすかにひくつかせた。
「空気が……重い」
ふと、ユナが足元に目を落とす。
水辺の小さな草花が、黒く変色していた。
「これ……」
ユナが指先でそっと触れると、花は触れただけで崩れ落ちた。
「枯れてる……けど、ただの枯れ方じゃない」
「葉の裏、見て。斑点が出てる」
ミレイがしゃがみ込み、じっと見つめる。
「それに、風の流れに淀みがある。……これって、まさか──」
彼女が立ち上がり、遠くを見つめた。
「“瘴気”よ」
その言葉に、全員が一瞬だけ沈黙する。
風が、ざわりと枝葉を揺らした。
「瘴気……?」
アオイが聞き返すと、ユナが小さく頷いた。
「魔力を濁らせる、毒のような空気。……古い魔術書で読んだことがある」
「生き物を狂わせ、自然を蝕む……伝承の中の“災厄”の気配」
「つまり、ただの腐敗や毒とは違うってことか」
レオンが眉をひそめる。
「魔法的な汚染……厄介だな」
ミレイが腕を組んだまま続ける。
「ただの汚染じゃなくて、“意志”を持った何かが引き起こしてる可能性があるわ」
「ここまで来て、偶然なんてことはないでしょうし」
アオイは、静かに拳を握る。
「……この空気が、これからもっと広がるとしたら」
「世界が……少しずつ壊されてる」
その言葉に、誰も反論しなかった。
足元の草が、かすかに枯れた音を立てていた。
──空はまだ、曇り空のままだった。
けれど、その奥に“何か”が潜んでいるような気がしてならなかった。
日が傾き始めた頃、木々の隙間から小さな村の影が見えてきた。
「……あれが、地図に載ってた村かな」
アオイが言うと、レオンが頷いた。
「ここを通れば、フォンタナの谷に出られる。祠も、近いはずだ」
けれど、その村の上空に──
「……空が……」
ミレイが呟いた瞬間だった。
雲の切れ間から、うっすらと浮かび上がった“それ”が、全員の視界に飛び込んできた。
「……赤い月……?」
ユナの声が、かすれるように漏れた。
月は、まだ完全に昇りきってはいない。
けれど、空の色を歪ませるには十分すぎるほどの存在感を放っていた。
まるで血が滲んだような、濁った赤。
光は脈打ち、微かに“動いている”ようにも見える。
「これ……普通の月じゃない」
アオイが呟く。
「空が……反応してる。風も、土も……怯えてるみたいだ」
ユナがゆっくりと口を開く。
「昔、古い書に書いてあったの。“赤の月”が空に昇るとき、大いなる災いが目を覚ますって……」
「でも、ただの伝承だと思ってた。……本当に現れるなんて」
「冗談じゃねぇな……」
レオンが苦笑いのように顔をしかめる。
「これから行く祠に、何が待ってるかなんて想像もしたくないな」
ガルドは黙って空を見上げていた。
その瞳に映る赤は、決してただの月ではなかった。
「……でも、行くんでしょ?」
ミレイがあえて軽く言う。
「止まったら、きっと後悔する。あたしたちは、もうそういう場所まで来てる」
「うん」
アオイは強く頷いた。
「この月の正体も、瘴気のことも……全部、確かめるために」
そして彼らは再び歩き出す。
赤い月の光を背に受けながら──
その先に待つ“真実”へと。
村の入り口に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
静かすぎた。
子どもの声も、家畜の鳴き声も、何も聞こえない。
「……人気がない」
ミレイが眉をひそめる。
「誰かいるはずなのに、気配がない」
「……閉ざされてる」
ユナがぽつりと呟いた。
木の扉、窓、すべてが固く閉じられ、外に出た痕跡もない。
畑の道具も放り出されたまま、まるで“何かから逃げた”ようだった。
「おい」
レオンが道の端で手招きをした。
倒れた荷車の裏に、小さな動物の死骸が転がっている。
「黒く……焼け焦げてる?」
アオイが近づくと、焦げたような匂いとともに、鼻を突く異臭が広がる。
その動物の毛は逆立ち、口は苦しげに開かれていた。
「……これ、“瘴気”でやられたのか」
「……たぶん」
ユナが目を伏せた。
「魔力の乱れがひどい。周囲の空気が、何かに侵されてる」
「この村、すでに手遅れかもしれないわね……」
ミレイが低く言う。
「これ以上広がれば、他の地域にも……」
その時だった。
──ザッ。
遠くで、草を踏む音がした。
「っ……誰かいる」
アオイが声を低くして身構える。
音は、ゆっくりとこちらに近づいてきていた。
ひとつ、ふたつ──まるで足並みが揃っている。
そして──
霧の向こうに、赤い外套を纏った影が浮かび上がる。
「……!」
ユナが、護符に手を添える。
ミレイとレオンがすばやく前に出て、ガルドが盾を持ち上げた。
影は、複数だった。
霧を裂いて現れたのは、紅の騎士団──
あの“異形との戦い”の夜に相まみえた、強敵たち。
「ここで……会うのかよ……!」
アオイの拳が、無意識に震えた。
──だが、そこに現れたのは、明確な“敵意”を持っていた。
その視線は鋭く、まるで何かを“確かめる”ようにアオイたちを見据えている。
赤い月の下、瘴気に沈んだ村で。
再び、剣が交わる音が響こうとしていた──
「……久しいな、“蒼の拳”」
その声に、空気が震えた。
前に立ったのは、カリス──双剣の紅騎士。
その鋭い目が、まっすぐにアオイを射抜いていた。
「カリス……」
アオイが名を呼ぶ。
以前の戦いで交えた剣──その感覚が、肌に蘇る。
「ここで何を……!」
ミレイが問いかけようとした瞬間、彼女の言葉を遮るようにカリスが口を開いた。
「確認しに来ただけだ。お前たちが……“どこまで踏み込むつもりか”をな」
「……どういう意味?」
ユナが一歩前に出る。
「王都では、瘴気が“反乱者”の仕業だと報じられているらしいわ。
つまり私たちは、そういうことにされてる」
「……その通りだ」
カリスの背後から、もう一人の紅の騎士が歩み出る。
──ノエル。
炎と幻惑を司る魔術士。
その表情は柔らかいが、瞳の奥には揺れがあった。
「でも、私たちはまだ……信じてはいない」
その言葉に、レオンが目を細めた。
「何を信じてないって?」
「お前たちが“本当に災厄を招いたのか”──」
「それとも、王の方が何かを隠してるのか」
「……なら、なぜこんな場所に出てくる」
アオイの声が、少しだけ熱を帯びる。
「話をしに来たのか? それとも、“止める”ためか?」
カリスの口元が、皮肉に歪む。
「……話はしてやる。だが、“剣”を通してな」
──その瞬間、空気が変わった。
ノエルが静かに詠唱を始め、カリスが双剣を交差させる。
「ま、こうなるとは思ってた」
ミレイが風を集め始める。
「アオイ、行ける?」
「もちろん」
アオイは拳を握った。風が、その周囲に集まり始める。
──風と炎がぶつかり合う直前。
ユナがそっと目を閉じ、魔力を練る。
「お願い、みんな無事で……」
そして──
“赤い月”の下で、再び戦いが始まった。
──風が渦巻く。
ミレイの魔力が集中し、空気が研ぎ澄まされていく。
「アオイ! 行ける!?」
「任せろ!!」
アオイの身体に、“蒼”の光が宿る。
拳が青く光り、その周囲に風が纏わりつく。
「合図は?」
「今だ!」
ミレイの叫びと同時に──
「風撃・青閃突ッ!!」
風が弾けた。
ミレイが生んだ強風が、アオイの身体を“前へ”と推進する。
空気を切り裂く音とともに、蒼の拳が疾走した。
「──ッ!」
カリスが反応する。双剣を交差して受け止めたその瞬間、
拳が剣を押し返す。
「ぐっ……!」
カリスが後方に吹き飛ばされる──
だが、その背中をノエルが支え、即座に障壁を張る。
「さすが、あの夜の拳ね……!」
ノエルが呟いたときだった。
アオイの“蒼”が、彼女の魔力と触れ合った瞬間──
何かが、流れ込んだ。
(……?)
ノエルの視界が一瞬、ぼやける。
紅い花畑。
白い服の少女。
そして──静かな別れ。
(これは……誰の記憶? 私……?)
アオイも、違和感に気づいていた。
拳を通じて、“想い”が交錯した。
「今のは……ノエル、お前……」
ノエルは、目を見開いたまま言葉を失っていた。
彼女の中で、何かが揺らぎ始めていた。
「……っ! 退くわ!」
ノエルが叫ぶ。
すぐさまカリスが立ち上がり、双剣を構える。
「今日はここまでか。──だが、次は容赦しない」
アオイたちは追いかけることはしなかった。
その代わり、アオイは小さく呟いた。
「……“蒼”は、繋げるんだ。想いも、記憶も……全部」
赤い月の下で交わされた一撃は、
ただの力ではなかった。
“誰かの過去”に触れ、“誰かの痛み”に触れる──
それが、“蒼”の力だった。
そしてアオイたちは、深く息をつきながら、再び歩き出す。
この戦いは、まだ始まりにすぎない。
けれど確かに──
紅の騎士団の心に、最初の“ほころび”が生まれた。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
この話では、“赤い月”と“瘴気”という新たな脅威、
そして再登場した紅の騎士団との再会と交錯を描きました。
ただ戦うのではなく、“想い”がぶつかり合い、“記憶”が触れ合う──
そんな瞬間に、アオイの“蒼”の力が生きてきたように思います。
いよいよ、物語は核心へと進み始めます。
次回も、ぜひ見守っていただけたら嬉しいです。




