第20話 風の門へ
谷を吹き抜ける風が、旅の終わりと始まりを告げる。
仲間たちと共に歩んだ日々を胸に、アオイはひとり“修行の道”へと足を踏み出します。
別れの言葉、約束の抱擁、そして《風の門》。
これは、強くなるための旅の第一歩──その一話です。
谷を吹き抜ける風が、旅の終わりと始まりを告げていた。
《カル・ヴァロ》の咆哮が消えたあと、谷には不思議な静けさが残っていた。
アオイたちはその中心に立ち、次に向かうべき道を見つめていた。
「──“風の門”は、この先の尾根を越えた山間にある。鍛錬にふさわしい場所じゃ」
そう語ったのはシンゲンだった。
白髪をなびかせ、まるで風の流れと対話するように岩の上から一同を見渡している。
「ただし……あそこへ向かうのは、アオイひとりだ」
一瞬、空気が止まる。
仲間たちの顔に、動揺の色が浮かんだ。
「……なんだって? 一人で?」
レオンが先に口を開いた。
いつも陽気な兄貴分も、今回ばかりは声に硬さが混じっていた。
「修行とは、“自分”と向き合うことだ」
ハクロウが口を挟む。
「仲間がいれば、気が緩む。無意識に甘えも出る。だからこそ、今は一人で挑むべきなんだ」
ミレイが腕を組みながら小さく息をついた。
「まぁ……それっぽいこと言ってるけど、心配になるのも当然でしょ」
「でも、アオイならやれるさ」
ヴァルドの低い声がその場に響いた。
背筋を伸ばしたまま、アオイに視線を向ける。
「お前はあの時、自分の意志で“敵”に向かっていった。その目は、もう誰の命令にも左右されていなかった」
「そういう奴は、強くなる」
カリスが口角を上げて言った。
「ほら見ろよ、ノエル。若造があっという間に大物になってきやがった」
「ええ、でも……まだ目の奥に“迷い”がある。きっと、それを消す旅なんでしょうね」
ノエルは微笑みながら言う。
その瞳はやさしく、どこか母性すら感じさせた。
ラズはなにも言わなかったが、無言で近づき、手のひらほどの包みを差し出す。
中には干し肉と木の実を編んだ携帯食──きっと自作の保存食だ。
アオイはしっかりとそれを受け取り、小さくうなずいた。
「……ありがとう、みんな」
その声に、誰もがうなずき返す。
だが一人だけ、まだ言葉を発していない者がいた。
ユナだった。
彼女は少し離れた場所で、ただじっとアオイを見つめていた。
ユナは、まだ言葉を発していなかった。
ただ風に揺れる金髪をそのままに、じっとアオイを見つめている。
その瞳には、いくつもの感情が映っていた。
「……ユナ?」
アオイが歩み寄る。
声をかけた瞬間、ユナは顔を伏せるように一歩、後ずさった。
「……ほんとは、行ってほしくないよ」
小さな声が、風に乗って届いた。
「だって、やっと……やっと一緒にいられるようになったのに……」
「また、“行ってきます”なんて言われたら……」
その声は震えていた。
それでも、涙は見せまいと顔を上げようとしない。
アオイは、そんな彼女の前にそっと立ち、ゆっくりと両手を広げた。
「……心配かけて、ごめん。でも、俺……今、どうしても行かなきゃならないんだ」
ユナが、顔を上げる。
瞳の奥が、潤んでいた。
そして──
「ばかっ……!」
たまらず、アオイの胸に飛び込む。
抱きついたその瞬間、堪えていた涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちた。
「……また、戻ってこなかったらどうするの……!」
「……また、一人になったら、私……!」
アオイは何も言わず、ただその細い肩を抱きしめる。
手のひらに感じる、震える背中。
心臓の鼓動が、ふたりの距離を繋いでいた。
「戻ってくるよ。絶対に」
「ユナちゃんのいる場所に──必ず帰る」
その言葉は、どこまでもまっすぐで。
どこまでも優しかった。
ユナが顔を上げる。
涙で濡れた頬に、かすかに笑みが浮かぶ。
「……約束、だからね?」
「うん、約束だ」
アオイは笑って、心の中でぽつりと呟いた。
(ユナちゃん……マジ天使……)
その髪が、風に揺れていた。
あの夜、焚き火のそばで見た光景と同じように──
今も変わらず、彼女はそこにいてくれる。
遠くで、ハクロウが咳払いをした。
「──すまんが、そろそろいいかの?」
「名残惜しいのはわかるが、修行は待ってくれんぞ」
アオイは、もう一度だけユナを抱きしめ──そして、そっと離れた。
「行ってきます」
「……気をつけてね、アオイくん」
ユナの声が、最後まで彼を見送っていた。
谷を抜け、尾根へと続く獣道を歩き始めたアオイは、何度も振り返りたくなる衝動を抑えていた。
足取りは軽くはない。けれど、迷いはなかった。
(──大丈夫。ユナちゃんは、ちゃんと見送ってくれた)
(泣いて、笑って……「約束」って言ってくれた)
(だから、俺も前を向く)
背中に残る温もりが、少しだけ風をやわらかくした気がした。
「歩きながら悩むのは結構だが、足元を見んと崖から落ちるぞ」
シンゲンの声が背後から飛んできた。
振り返ると、いつの間にかすぐ後ろに並んでいた。
「……あ、はい。すみません」
「心が乱れてるうちは、重心も乱れる。型どころか足運びも崩れるわ」
ハクロウが横から口を挟む。
「まぁでも、さっきの別れ方はよかったな」
「……は?」
「なんかこう、“若い”って感じがしてな? 胸にくるものがあったぜ。青春ってやつか」
ハクロウがニヤッと笑う。
「ちゃんと“天使”って思ったか?」
アオイは、盛大にむせた。
「なっ……!? なんでそれを──!?」
「顔に出てたぞ。わかりやすいにも程がある」
シンゲンがあきれたようにため息をつく。
「“恋心”を隠せぬようでは、呼吸も型も整わん。──まずはそこから矯正じゃな」
「ま、そう固くなるなって。修行なんてな、最初は“痛い・つらい・帰りたい”の三拍子だからな」
「おい、それ脅してません?」
三人の足音が、徐々に山の静けさに溶けていく。
風の音だけが、彼らの歩む先を包み込んでいた。
そして、尾根の先。
木々の間から、どこか神聖な気配を漂わせる“門”が、微かに見えていた。
──“風の門”。
アオイの、次の戦いが始まる場所。
木々の間を抜けると、突如、視界が開けた。
そこは、山の中腹にぽっかりと現れた、静謐な空間だった。
風は音を立てずに流れ、空気はまるで澄み切った水のように清らかだった。
アオイの目の前に立っていたのは──
古びた石柱が左右に並んだ、半円形の門。
風の流れに沿って建てられたその形状は、自然と一体化しているようにすら見えた。
「……これが、“風の門”……?」
思わず、アオイが呟く。
「ここはただの場所じゃない」
シンゲンが、静かに前へ出た。
「ここを越える者は、自分の弱さと向き合い、心を削り、身体を刻む」
「それでも立ち上がる者だけが、“型”を体得できる」
ハクロウも続く。
「つまり、ここから先は──“人の道”じゃねぇ。“武の道”だ」
「途中で逃げ出すのも自由だが、それは“拳”から目を逸らすってことだ。いいか、アオイ」
アオイは一歩、前へ踏み出した。
その足音は、まるで大地が応えるように、確かな響きを残した。
「……行きます」
門の前に立ったアオイの髪が、風に揺れる。
門をくぐる──その瞬間、
ふっと、空気が変わった。
まるで、世界が一段、深く沈んだような感覚。
耳に届く音は風だけ。
遠くの鳥の声すら、まるで消えてしまったかのように静まり返っている。
「──まずは、足運びからだ」
ハクロウが背後で言った。
「型とは、力ではない。流れだ。“歩き方”ひとつで、すべてが変わる」
「心で歩け。流れを断つな。意識を逸らすな」
「いいか、今からは──ひとつひとつの動作が、お前の“未来”になる」
アオイはゆっくりと息を吸った。
赤の力ではなく、ただ、自分の身体を感じる。
足の裏。重心の移動。空気の流れ。風の動き。
すべてが繋がっていく。
──そして、アオイの修行が始まった。
******
アオイが《風の門》の向こうに消えてから、しばらくの間、誰も言葉を発さなかった。
風だけが、残された者たちの間を静かにすり抜けていく。
「……なんか、ぽっかり穴が空いたみたいだな」
レオンがぽつりと呟いた。
「ついこの間まで新入りだったくせに、いつの間にか中心にいたって感じだ」
「ふふ。背中、ちゃんと見せてくれたもんね」
ミレイが微笑む。
「正直、うらやましいくらいだった。あのまっすぐな目、あの決意」
ユナはまだ門の方を見つめていた。
「……私も、あのとき守られてばかりだった」
「でも、次に会うときは──今の私じゃ、きっと並んで歩けない」
ラズがそっと、近くの岩に腰を下ろし、静かに火打ち石を取り出す。
焚き火の準備を始めながら、ぽつりと呟く。
「……強くなろう。みんなで」
その言葉に、全員の視線が彼へと向いた。
ラズが続ける。
「アオイだけじゃない。……俺たちも、もっと強くならないと、いざという時……“背中”を支えられない」
「うん。修行ってアオイだけの特権じゃないよね」
ミレイが腰に手を当てる。
「私は、“空中魔法”の精度を上げたい。特に乱戦時の瞬時判断と……詠唱の同時処理。弱点、見えてきたから」
「俺は剣術だな」
レオンが手元の剣を軽く抜く。
「戦い方、ずっと我流だったし……正直、限界感じてたんだ。どっかでちゃんと修行してみるさ」
ユナもゆっくりと頷いた。
「私は……癒しの魔法の幅を広げたい。……でも、それだけじゃない気がする」
「“強さ”って、戦う力だけじゃない。心も、気持ちも……全部」
「じゃあ、みんなで“修行の旅”ってわけか」
ミレイが口角を上げる。
「……旅に出るって言っても、目的地はバラバラになりそうだけど」
「構わないさ」
レオンが笑う。
「また、どこかで会える。あいつが戻ってくるなら──俺たちも胸を張って会いに行こうぜ」
荷造りを終えた一行は、岩場の上で最後の火を囲んでいた。
焚き火の炎が、夕暮れの空を仄かに照らしている。
誰も多くは語らなかったが、そこには確かな絆があった。
「……なんか、ほんとに静かになっちゃうね」
ユナがぽつりと呟いた。
「アオイくん、いつも騒がしいわけじゃないけど……いないと、余計にわかる」
「ま、でもそろそろウチらも出発するか」
ミレイが立ち上がりながら伸びをする。
「時間、無駄にしてる場合じゃないし」
レオンが背負った荷袋を軽く叩く。
「じゃあな、アオイ。お前より先に強くなってやるからな」
ユナは門の方を一度だけ見て、微笑む。
「ちゃんと、無事でいてね……」
そして、それぞれの道へ。
だが、その背中には一つの想いが共通していた。
──次に会うときは、もっと強くなった自分で。
風が吹いた。
火が揺れ、光が空に溶けていく。
その音だけが、今はアオイたちを繋いでいた。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます!
今回は、物語の大きな転機となる“別れ”と“旅立ち”が描かれました。
ユナとの涙のやりとり、仲間たちの静かな決意、そしてアオイが踏み入れる《風の門》──
どれも「心の修行」のような、静かで熱い時間だったと思います。
次回からはいよいよ本格的な修行編に突入!
拳と精神、身体と向き合う試練の数々──どうか見届けてください。




