第19話 風の門に至る道
谷に吹く風は、まだ冷たく。
戦いに敗れ、悔しさを噛みしめたアオイの前に現れたのは、拳の流派《蒼》を継ぐふたりの男──ハクロウとシンゲン。
ただ強さを求めるのではない、“理”と“型”の中にある力。
ここから、アオイの修行の旅が、本格的に始まります。
朝の光が、山の斜面をやわらかく照らしていた。
木々のざわめきは、まるで旅人たちを送り出す風の歌のように静かで、優しい。
アオイたちは、〈沈黙の森〉を抜けたその足で、東へと進んでいた。
その先には、伝承に語られる「風の門」──かつて蒼の流派が修行の地とした場所があるという。
「……風が変わったね」
ユナがぽつりと呟く。
風は確かに、森にいた時よりも冷たく、鋭くなっていた。
それはまるで、これから彼らが迎える“何か”を予告するかのようだった。
「山道もだいぶ険しくなってきたな。そろそろ本格的な登りだ」
レオンが足を止め、後ろを振り返る。
ミレイとガルドが黙って頷き、紅の騎士団の面々も無言で続いた。
「……怖くはない?」
アオイがユナに尋ねると、彼女はゆっくりと首を振った。
「ううん。……むしろ、どこか懐かしい。ずっと昔に聞いた気がするの、“風の声”を」
「……俺も、なぜか落ち着くんだよな。ここに来て、身体の奥が静かになっていくような──」
アオイは胸の内に何かが静かに広がるのを感じていた。
身体強化とはまた違う、もっと“内なる力”が、そこにあった。
「……油断はするなよ」
ヴァルドが静かに告げる。
「この先は“試練の地”だ。俺たちの記憶にも、ここで命を落とした者がいる。……本物の“戦場”になるかもしれん」
「へえ、意外と怖がらせてくれるじゃん」
ミレイが肩をすくめた。
「でも、いいんじゃない? そういう緊張感、嫌いじゃないわ」
「俺は嫌いだぞ。穏やかに山登りしたいんだけどなあ……」
カリスがぼやくように呟き、ノエルがふっと笑った。
「それでも来てくれたじゃない。ありがとう、カリス」
「……言われると照れるからやめろ」
そして──
開けた岩場の先に、忽然と“それ”は現れた。
「……門?」
ユナが呟く。
それはまるで自然の岩壁がそのまま開いたかのような、巨大な裂け目だった。
風がその奥から吹き抜け、何かの“気配”が、確かにそこに息づいていた。
「ここが、“風の門”……!」
アオイが思わず声を漏らす。
胸の中で、何かが静かに反応していた。
この先に、何かがある──そんな確信だけが、言葉もなく身体に伝わってくる。
「準備はいいか?」
レオンの声に、全員がうなずいた。
「……じゃあ、行こう」
アオイが一歩を踏み出す。
風が、彼の髪をかすかに揺らした。
そして──物語は、“蒼の修練”の入り口へと進んでいく。
風の門をくぐった瞬間、空気が一変した。
山の内側に広がっていたのは、荒涼とした岩の谷。
ところどころに草が生い茂るが、そこには不自然なまでの“静寂”があった。
「……ここ、本当に修行の場なの?」
ミレイが眉をひそめる。
「魔力の流れが、おかしい」
ノエルが足を止め、周囲を見渡す。
「ただの自然じゃない……何かが、ここを支配している」
──バギィィィィン!!
突如、空気を引き裂くような音が鳴り響いた。
アオイが反射的に振り返る。
裂けた岩壁の上に、巨大な影がいた。
「……あれは……!」
四本の脚で地を蹴り、背には骨のような突起を持つ獣。
全身を黒い鱗が覆い、その目は、怒りに満ちた赤で光っていた。
「風喰らいの魔獣、《カル・ヴァロ》……!」
ラズが低く呻く。
「数十年前、この地で修行していた戦士たちを半壊させた伝説の魔獣だ……!」
「なにそれ、聞いてない!」
ミレイが即座に魔法の構えを取る。
「……来るよ!」
咆哮と共に、《カル・ヴァロ》が地を蹴った。
爆発的な風圧が走り、全員の身体が瞬間的に吹き飛ばされる。
「っく……!」
アオイは転がりながらも構えを取った。
身体が勝手に反応していた。だが、感じる。
──強すぎる。
「ユナ、回復は任せた! 前は俺とガルドが!」
レオンが叫ぶ。
「了解!」
ユナはすぐさま魔法陣を展開。青白い光が仲間の体に広がる。
「おい! 本気出せよ、お前ら!」
カリスが双剣を抜き、先陣を切った。
「こっちは仲良くするって決めたばっかなんだから、こんなとこで死んだら洒落にならねえ!」
「誰が死ぬかよ……!」
アオイが叫びながら、魔獣の足元に飛び込む。
拳に力を集中──“赤”の魔力を込めて、渾身の一撃!
──しかし。
バキィィッ!
硬い鱗に弾かれ、アオイの拳は砕けそうな衝撃に襲われた。
「ぐっ……!」
たまらず後退する。
「効いてねぇ……!?」
「こいつは、普通の攻撃じゃ倒せない……!」
ノエルの叫びが届く間もなく、魔獣が尾を振る。
その一撃で、ガルドが吹き飛ばされた。
「ガルドッ!!」
ユナの悲鳴。
レオンがすぐさま間に入るが、魔獣の突進は止まらない。
「やばい……このままじゃ、全滅するぞ……!」
ミレイが必死に魔法で牽制を入れるも、炎も風も、鱗に弾かれてしまう。
「……アオイ、ダメだ! 一度、退く!」
ヴァルドが叫ぶ。
「今は“力”が足りない! これは……“修練の壁”そのものだ!」
だがアオイは、拳を握りしめたまま立ち尽くしていた。
心の奥で、何かが呼んでいた。
だが──届かない。
“蒼”の力には、まだ届いていない。
「……くそっ……!」
悔しさに、唇を噛み締める。
その時、ユナの声が飛んだ。
「アオイ、お願い、今は……生きて!」
その一言で、アオイはようやく身体を動かした。
「撤退だ!」
レオンが叫び、全員が後方へと走り出す。
谷の奥へ。風の門のさらに奥地へと──
──“修練”は、始まったばかりだった。
谷の岩陰──
全員が息を潜め、かろうじて魔獣の追跡を振り切った場所だった。
「はあ……はあ……」
ユナは、傷ついた仲間たちに治癒魔法を絶やさず送りながら、唇を噛んでいた。
「まさか……ここまでとは……」
レオンの鎧は大きくひしゃげ、肩を押さえて座り込んでいる。
「くそ、情けねぇ……俺、隊長だってのに……!」
「落ち着け、レオン。お前がいなきゃ、誰も引けなかった」
ガルドが低く言った。
「俺だって、吹っ飛ばされたまま動けなかった……」
「オレもさすがにヤバいと思ったぜ……」
カリスが唇の端から血を拭いながらつぶやく。
「つーか、あの鱗、なに? 反則すぎだろ」
「“風喰らいの魔獣”……本当に伝説のままだったね」
ノエルが魔力で周囲の感知を続けつつ、小さく息を吐く。
「……今の私たちでは、勝てない」
「……“蒼”が、必要なんだ」
アオイがぽつりと呟いた。
拳にはいまだ震えが残り、視線は地面に落ちていた。
「俺の“赤”は……もう、通じなかった。あの時みたいに……無力だった」
静かに立ち上がるアオイ。
その背に、どこか“孤独”がにじんでいた。
「だから行く。修練の地に、“蒼”の力を求めに」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
ミレイが慌てて声を上げる。
「いきなりそんな……それ、あたしたちはどうすれば……?」
「蒼の修行って……誰でも受けられるわけじゃないんじゃないの?」
ユナが心配そうにアオイを見つめた。
「わかってる。でも、俺が進まなきゃ、また誰かが傷つく。……同じことは、もう嫌なんだ」
その言葉に、ユナが小さく息を呑んだ。
「……アオイ」
「俺、行ってくる。……きっと、また戻ってくるから」
アオイはそう言って、ゆっくりと仲間のもとを離れた。
その背中を、誰も引き止めることができなかった。
「……もう、置いてかれるのはイヤなのに」
ユナが小さくつぶやいた。
その横で、ヴァルドは静かに目を閉じていた。
「“進む”というのは、時に残酷な選択を強いる。……だが、その痛みは、必ず何かを生むはずだ」
谷の向こうに、風が再び吹いた。
今度は冷たく、しかし確かに“呼んでいる”ような風だった。
──“蒼の道”は、ここから始まる。
岩の谷に、再び轟音が響く。
《カル・ヴァロ》は執拗に地を引き裂きながら、獲物を探すように咆哮を繰り返していた。
谷の陰に身を潜めていたアオイは、拳を握ったまま、その咆哮を見つめていた。
「……また、何もできなかった」
拳は震え、皮膚には擦り傷と打撲の痛みが残っていた。
それでも、奥底にあったのは、痛みではなく、悔しさだった。
「……俺が、進まなきゃ」
「待って、アオイ!」
ユナの声が背後から届いた。
「今は無理だよ、あれは──あれは、“今の私たち”じゃ倒せない……!」
アオイは振り返らなかった。
「わかってる。……でも、だからこそ、俺がやらなきゃならないんだ」
そう言って、彼は再び谷の中心へと、単身で歩み始めた。
「アオイ、馬鹿っ……!」
ミレイの叫びも届かない。
紅の騎士団の誰も、今のアオイを止められなかった。
その背中は、たしかに──“覚悟”を帯びていた。
谷に戻った《カル・ヴァロ》は、アオイの気配に反応し、目をぎらりと光らせた。
再び、怒りの咆哮を上げると、風を裂くような突進を仕掛けてくる。
「来い……!」
アオイは、左足を深く踏みしめ、全身に“赤の魔力”を集中させた。
瞬間、拳が赤く燃え上がるように輝く。
「“一撃”で仕留める──!」
──しかし。
その突進は、届かなかった。
《ゴウッッ!!》
突然、風を断ち切るような音が谷に鳴り響いた。
次の瞬間、《カル・ヴァロ》の巨体が空中で弾かれ、地面に激しく叩きつけられる。
アオイは唖然と立ち尽くした。
「な、何が──!?」
岩の上に、ふたりの人物が立っていた。
ひとりは、無骨な旅装をまとい、しなやかな体躯の青年。
もうひとりは、白髪の長い髪を後ろで束ねた、痩せた老人。
いずれも武器を持っていない。
ただ、その立ち姿だけが、まるで“岩そのもの”のような圧倒的な存在感を放っていた。
「おい、ジジイ。ちょっと加減が効きすぎだろ。もう少し吹っ飛ばしてくれても良かったんじゃねぇか?」
青年が軽口を叩く。
「……加減もできん奴が、弟子を名乗るでない」
老人が、静かに返す。
ふたりの間に流れる空気は、どこか穏やかで、そして揺るぎがなかった。
《カル・ヴァロ》が再び唸り声を上げ、立ち上がる。
しかしその目には、さきほどまでの獰猛さはなかった。
本能が、目の前のふたりを“異質な存在”として捉え始めていた。
「……アオイ君、と言ったか」
青年がふと、アオイの方を見て微笑んだ。
「ここからは、俺たちに任せてくれ」
「……君たちは……誰……?」
「名乗るほどの者じゃないさ。だが、強いて言うなら──」
青年は一歩、谷に降り立った。
「“拳の流派・蒼”──その系譜に連なる者。名は、ハクロウ」
老人も、ゆっくりと続けた。
「そして我は……その師、シンゲンじゃ」
アオイの目が、わずかに見開かれる。
その名は、どこかで聞いたことがあるような……しかし、それよりもなによりも──
その気配が、魂に響いた。
まるで、彼らこそが“風の門”に至る者の象徴であるかのように──
谷に、再び静寂が訪れる。
だがそれは、戦いの終わりではない。
──真の“修練”が、ここから始まろうとしていた。
谷の中央、風が渦巻く中に、ハクロウが一歩踏み出した。
たった一歩。だが、その一歩で、空気が変わる。
《カル・ヴァロ》が反応する。
獲物を前にした猛獣のように吠え、全身の筋肉を躍動させ、再び突進を仕掛けてくる。
「くるぞ、ジジイ。目ぇ離すなよ」
「わかっておる。……お主こそ、足をすくわれるでないぞ」
軽口を叩いたその直後、ハクロウの姿が掻き消えた。
──風が、二重に走った。
ひとつは《カル・ヴァロ》の突進による風圧。
もうひとつは──それを“避けた”人間が残した風の軌跡。
アオイの目には、追えなかった。
「なっ……!?」
気づけば、ハクロウは魔獣の懐に入り込んでいた。
背を丸め、重心を極端に落とした姿勢。
拳は構えず、ただ“空”を撫でるように両腕を広げている。
「“水月”──」
その声と同時に、柔らかな一歩。
その一歩で、岩が微かに揺れる。
次の瞬間、《カル・ヴァロ》の巨体が“浮いた”。
巨体の顎を、掌底が掠めたのだ。
「──そして“反響”」
振り上げた掌が、空気を震わせるように響く。
遅れて、衝撃が襲った。
目には見えない“打撃”が、波のように《カル・ヴァロ》の体内を巡る。
その巨体が、風船のように内側から膨らみ、次の瞬間──背中から爆ぜた。
《ドンッッ!!》
岩壁にめり込むようにして、魔獣が吹き飛ばされる。
それでも立ち上がろうとする《カル・ヴァロ》。
だが、立てなかった。
片膝をつき、苦しげに息を吐く。
「ほう……まだ立つか。気骨はあるな」
ハクロウが微笑む。
その姿は、まるで武の体現だった。
一切の無駄がない。力に頼らず、重さを流し、圧を返す。
アオイは、思わず息を呑んだ。
「今の……が、“蒼の拳”……?」
「見ているか、アオイ君」
シンゲンが静かに言った。
「“型”とは力ではない。“動きの理”を学ぶことが、術へと至る道だ」
アオイは拳を握りしめたまま、谷の空気に圧倒されていた。
その一撃には、技も力も、精神も……すべてが込められていた。
(俺は──まだ、あんな動きができない)
(だけど──)
谷の中心に立つハクロウの背中を、彼はまっすぐに見つめていた。
(……だから、知りたい)
(どうすれば、あそこに届くのか──)
静かに、《カル・ヴァロ》が呻き声をあげた。
その声は、敗北の声だった。
呻く《カル・ヴァロ》が、最後の意地を見せた。
四肢に力を込め、重い体を地面から持ち上げる。
血走った目が、なおも獲物を狙っていた。
怒りとも、恐れともつかない──
獣としての“本能”だけが、その巨体を動かしていた。
「まだ来るか……根性あるな」
ハクロウは、構えすら解かず、ただその場に立つ。
獣が吠えた。
最後の咆哮とともに、まっすぐ彼へと跳びかかる。
──次の瞬間、その爪は、空を切った。
ハクロウの姿が、ふっとかき消える。
気づけば、魔獣の真横を、すでにすり抜けていた。
「アオイ君」
その声は、跳躍の余韻が残る風の中から届いた。
「“動きを見る”ってのは、力を見極めるんじゃない」
《カル・ヴァロ》の突進が空を裂くたびに、
ハクロウはひらりと身をかわす。
重力さえ感じさせない軽やかさ。
まるで、風そのもののようだった。
「“意思を見る”んだ。──拳ってのは、心とつながってるからな」
再び飛びかかってきた魔獣の頭部を、指一本で押し返す。
そして、
「“これで終いだ”」
淡々と呟きながら、拳を腰に引き──
掌底一閃。
腹部への“沈打”が、獣の体内に響き渡る。
その一撃は、音もなく、しかし確実に──《カル・ヴァロ》の動きを止めた。
巨体が、膝から崩れ落ちる。
一度、大きく息を吐いて──そのまま、意識を手放した。
谷が、静まり返る。
アオイは言葉を失いながら、目の前の光景を見つめていた。
「……すごい……」
「すごい、じゃわからんだろう?」
ハクロウが、アオイの方を見たままニッと笑った。
「“強くなりたい”か?」
アオイは、一瞬戸惑ったように目を瞬かせ──
それでも、しっかりと頷いた。
「……なりたい。……なりたいんだ、俺は」
「もう、誰も守れないなんて、あんなの──もう二度と、嫌だから」
拳を握りしめながら、アオイは叫んだ。
声が震えていたのは、恐れではない。
それは、ずっと心にあった“悔しさ”が、ようやく言葉になったから。
シンゲンが、その様子を静かに見つめていた。
「……迷いがなくなったな。ようやく“言葉”と“心”が、重なり始めた」
「アオイ君」
ハクロウが、歩み寄る。
「俺たちのもとで、“蒼”を学ぶ気はあるか?」
「ここから先──君が進みたい道の、入口はここだ」
アオイはしばし黙っていた。
けれど、ふいに風が吹いた。
谷の上空を通り過ぎるその風に、何かを背中から押されたように──彼は、口を開いた。
「……お願いします。俺に、“型”を教えてください」
「よし。だったらまずは、殴られてもらうぞ?」
ハクロウが笑う。
「“拳の型”ってのは、頭で覚えるもんじゃない。身体に叩き込むもんだ」
「……殴られるの、前提なんですか……」
「そりゃそうだ。学ぶってのは、“打たれること”から始まるんだよ」
シンゲンが、淡々とした口調で言い添えた。
「この世で最も深く刻まれるのは、“痛み”による記憶じゃからな」
アオイは、思わず苦笑した。
それでも、表情には迷いがなかった。
「……やってやりますよ。全部受け止めて、それでも──強くなるためなら」
ふたりの“武”の使い手は、その言葉を確かに受け取ったように──
静かに、うなずいた。
谷に、再び風が吹く。
だが、それはもう、冷たい風ではなかった。
──“風の門”へ向かう、本当の旅が。
ここから、始まろうとしていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!
今回は、「蒼の拳」との出会い、そしてアオイの決意が描かれました。
魔獣との戦いは、単なるバトルではなく“学び”の始まり。
武の極致に触れたことで、アオイの成長の物語が新たな段階に入ります。
また次の話でお会いしましょう!