第17話 沈黙の森、語られぬ夢
※この話には、心に残る“記憶”と向き合う描写が含まれています。
少し静かな章ですが、彼らの旅の中でとても大切な“分岐点”です。
今回は、〈暁星の灯〉と紅の騎士団がともに歩き始めた先で、再び“記憶”に出会うお話です。
霧に包まれた森で、忘れられた想いと、誰かの祈りに触れる。
そこにあるのは、ただの過去ではなく──未来へ進むための“願い”。
どうか、物語の静かな深みに、少しだけお付き合いください。
霧の気配が薄れ、夜が明ける。
朝靄の中、森は静まり返っていた。まるで昨夜の出来事をなぞるかのように、木々の間を薄い光が差し込んでいる。
アオイは、冷たい土の感触を足の裏に感じながら、静かに立ち上がった。
焚き火の跡に残る微かな熱。その傍で眠っていた仲間たちが、ひとり、またひとりと目を覚ましていく。
「……おはよう」
ユナの柔らかな声に、アオイは振り返った。
彼女の瞳はまだどこか眠たげで、それでも芯のある光を湛えていた。
「おはよう。ちゃんと、眠れた?」
「うん……少しだけ、夢を見てたの。あの子の……最後の笑顔」
アオイは静かに頷いた。
「俺も、見た気がする。“ありがとう”って、言ってた」
ふと、視線を横に移すと、少し離れた場所にレオンが立っていた。剣の刃を点検しながら、空を仰いでいる。
「今日も、進むんだよな」
「当然だ。止まってる暇はねぇ」
ミレイが伸びをしながら加わった。
「でも……なんか不思議な感じ。昨日までは“敵”だった人たちと、今こうして同じ場所にいるなんて」
「“昨日の敵は今日の仲間”、ってやつか」
レオンが笑うと、近くで座っていたカリスがぼそりと呟いた。
「……仲間ってのは、簡単に言うけどな」
「カリス?」
「ま、悪い意味じゃねぇよ」
彼は寝癖を手で押さえながら、目を逸らす。
「ただ、昨日まで剣向け合ってた連中が、こうもあっさり背中預けるってのは、ちょっと信じらんねぇってだけだ」
「信じられないなら、信じさせるしかないわね」
ミレイがさらりと返すと、カリスは鼻を鳴らした。
「お前は強えな」
「当然でしょ」
ミレイがふふんと笑う。
「……だが、まあ」
カリスは足元の枝を蹴りながら呟いた。
「お前らのその“青臭さ”が……悪くないってのも、認めてやる」
アオイはその言葉に驚きつつも、思わず笑ってしまった。
「ありがとう、カリス。そういうの、嬉しいよ」
「ちっ、照れるじゃねぇか」
カリスがそっぽを向くと、近くで見ていたノエルが小さく笑った。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか」
ヴァルドが声をかけた。
その声は、昨夜よりもわずかにやわらかく響いていた。
「……ああ」
アオイが頷き、皆が荷をまとめはじめる。
誰もが無言で、それでも確かに“前へ”進む準備をしていた。
まだ霧は完全には晴れていない。
けれど、その中に灯る意志は、確かに揺らぎなく。
新たな一歩を、彼らは静かに踏み出そうとしていた。
──次の記憶が、待っている。
森の中を歩く足音が、しんとした空気の中に溶けていく。
朝の光はまだ淡く、頭上を覆う木々の影が道を覆っていた。
だが、不思議と先が見えないことへの恐れはなかった。
昨夜、あの“記憶の影”と向き合ったことで、皆の中に何かが芽生えていた。
「……このあたり、見覚えある」
先頭を歩いていたガルドが、足を止める。
「おそらく……数年前、俺が護衛任務で通った道だ。けど、当時と比べて、森の様子が違いすぎる」
「違うって、どういうこと?」
ミレイが後ろから覗き込む。
「木の位置も、道の傾きも違う。霧の影響で、地形ごと“歪められている”可能性がある」
「記憶の残滓が、地形にまで影響を?」
アオイが眉をひそめた。
「ありえるわ」
ノエルが静かに口を開いた。
「この森は、ただ“記憶を見る”だけの場所じゃない。“忘れられた想い”そのものが空間に染み込んでいる。魔力では説明しきれない、“何か”があるのよ」
「じゃあ……今もこの先に、“誰かの記憶”が潜んでるってことか」
ユナが前を見つめる。
「うん、たぶん。何かが──呼んでる気がする」
「霧が濃くなってきたな……」
レオンが剣の柄に手を添える。
「気をつけろ、何か来るぞ」
霧の奥から、風が吹いた。
一瞬、視界の奥に“影”が走った気がした。
だがその姿は、すぐに霧の帳に溶けていく。
「……気のせいじゃないな」
アオイが構える。
「誰かの“記憶”が、また現れようとしてる」
「なあ、こういう時って、毎回戦う必要あるのか?」
カリスが肩をすくめながらぼやいた。
「“記憶”が姿を持ったとき、それが望むのは対話か、拒絶か。どちらにせよ、俺たちがどう向き合うかで変わるはずだ」
ヴァルドの声に、誰も反論はしなかった。
「じゃあ、進もう」
アオイが言う。
「たとえどんな過去が待っていようと、向き合うって決めたんだから──」
静かな決意を胸に、彼らは再び歩き出す。
霧の奥で、まだ名も知らぬ“記憶”が目を覚まそうとしていた。
それは、誰かが忘れたくて、けれど忘れられなかった哀しみか。
あるいは、許されないまま置き去りにされた後悔か。
森の奥へ、深く深く。
足音だけが、静かに響いていた。
──まだ誰も知らない、もうひとつの物語へ。
霧の中を進むにつれ、空気が変わった。
肌にまとわりつくような湿気。耳の奥で響く、かすかなささやき。
まるで誰かが「ここにいる」と訴えかけてくるような、そんな気配が辺りに充満していた。
「……誰か、泣いてる?」
ふいにユナが立ち止まる。彼女の顔が、どこか苦しげに歪んだ。
「声が……聞こえる。直接じゃなくて、心に響いてくる感じ……」
「俺には何も……」
アオイが辺りを見回した瞬間──
「ッ!」
空間が、ゆがんだ。
目の前の霧が“裂け”、そこに“もうひとつの風景”が広がる。
草原。陽の光。小さな村と、その中で笑い合う姉弟。
「っ……これは、記憶?」
誰かの過去が、空間に焼き付いたかのように再生されていた。
その中にいたのは──あの“霧の影”と同じ顔をした、小さな少年だった。
「……この子、また……」
ユナが震える声で呟いた。
だが次の瞬間、映像は一変する。
草原が赤く染まり、空が灰色に沈む。
──炎。
──叫び。
──崩れ落ちる村の姿。
「うっ……!」
アオイたちは一斉に顔を背けた。記憶の奔流が、直接頭に流れ込んでくるような感覚。
「……これは、あの子が見た光景」
ノエルが目を閉じて言う。
「奪われた場所。失われた時間。そして、取り戻せなかった約束……」
「うわあああああッ!!」
霧の中から、悲鳴が響いた。
振り返ると、そこに立っていたのは──“もうひとりの少年”。
先ほどの“影”とは違う、だが、どこか似た気配を持った存在だった。
「また……?」
アオイが構える。
「ちがう、今度のこれは……“記憶の影”じゃない。“記憶が生んだ、想像”……?」
「そうよ」
ノエルが応える。
「想いが強すぎると、実在しなかった“誰か”すら、この空間では姿を持って現れることがあるの。まるで、記憶のなかの“もしも”が生きているみたいに……」
「じゃあ……これは、“もうひとつの弟”?」
ユナが言うと、その“少年”は顔を上げ、彼女を睨みつけた。
『──なんで助けてくれなかった!』
「っ……!」
「違う……違うんだ。お前は、本当は存在しなかったはずの……」
アオイが言葉をかけようとしたとき、少年の影が飛びかかってきた。
「来るぞ!!」
レオンが前に出て剣を構える。
その一撃を防ぐように、ラズが大盾を突き出し、衝撃を抑え込む。
「“記憶の想像”でも、力は本物だ……!」
「なら、また向き合うしかないってことか!」
ミレイが風をまとって跳躍し、影の背後へ回る。
アオイの拳が、再び熱を帯びる。
だがその熱は、怒りではない。
彼の目は、ただまっすぐに、少年の心を見つめていた。
──この哀しみも、きっと誰かの“願い”から生まれたもの。
なら、見捨てるわけにはいかない。
影の中に残された“本当の想い”を、見つけ出すために──!
霧が晴れ、静けさが戻った森の中。
だが、その静けさの中には、確かに“余韻”があった。
誰かの記憶が還った痕跡。そこに残された想いが、空気の粒に滲んでいるような感覚。
「……あそこだね」
ユナがそっと指差した先──絡み合った木々の向こうには、小さな祠のような石造りの構造物があった。
今にも崩れそうなその場所から、かすかに魔力の波動が漏れている。
「なんだ、あれ……」
カリスが眉をひそめる。
「結界か? いや……違う、もっと“内向き”の魔力だ」
「封印か、あるいは……“記憶そのもの”を閉じ込めてるのかもしれない」
ノエルが口にする。
「つまり、その奥にまだ何かがあるってことか」
アオイが一歩踏み出す。
「……行こう。ここまで来たんだ。最後まで見届けたい」
「ちょっと待てよ」
ミレイが声をかける。
「今の私たち、さっきの戦闘でかなり消耗してるよ。万全の状態で臨んだ方がいいんじゃない?」
「そうだな……」
レオンも頷きかけたが、そのとき──
「いや、今行くべきだ」
と、静かな声でラズが言った。
全員の視線が彼に向く。
ラズは、祠を見つめながら、ぽつりと続けた。
「俺たちは……この森で、過去と向き合うって決めた。後回しにすれば、また“目を背ける理由”になる」
「ラズ……」
「俺にはわかる。この先にあるのは、きっと“あの村”の記憶だ。……ユナ、お前の村のことかもしれない」
その言葉に、空気が一瞬、重たくなった。
ユナは目を伏せ、静かに頷いた。
「……うん。わたしも、なんとなく感じてた。ずっと避けてきた記憶。でも、今なら、向き合える気がする」
「俺も、一緒に行く」
アオイが真っすぐユナを見る。
「……怖かったら、手を握ってていいよ」
「……ありがとう」
ユナは少しだけ笑った。
「じゃあ、行こうか」
レオンが肩を回し、再び前に立つ。
「泣き言はあとにしようぜ。どんな記憶だって、背負えるさ」
「紅の騎士団も……来るの?」
ミレイが問うと、ヴァルドが頷いた。
「俺たちにも、見るべきものがある」
彼の言葉に、カリスとノエル、ラズが無言で続いた。
こうして、ふたつの集団が祠の奥へと歩みを進める。
足音だけが静かに森に響き、まるでその音が、“忘れられた声”を呼び覚ますかのようだった。
そして、祠の奥──
そこにはまだ、“語られていない記憶”が、静かに彼らを待っていた。
祠の奥は、想像以上に静かだった。
苔むした石の階段を下りていくと、ぽっかりと開けた空間に出る。
そこは、かつて誰かが“祈りの場所”として使っていたような、簡素な祭壇が設けられた小さな部屋だった。
「……ここ、知ってる」
ユナが小さく呟いた。
「たしかに……幼い頃、父に連れられて来たことがある。村の“魂の帰り道”って呼ばれてた」
「……“魂の帰り道”?」
アオイが問いかけると、ユナは頷いた。
「ここは……“想い”が還る場所だった。亡くなった人の記憶を、少しでも残すために祈る……そんな場所」
「……でも、もう誰も来なくなって、封じられて……」
その言葉に、祠の奥、祭壇の裏側から微かな“気配”が広がった。
空気が震える。
光が揺れ、空間にひとつの“映像”が浮かび上がる。
それは──少女と少年の姿だった。
「……あれは──」
ユナが息を呑む。
そこにいたのは、かつてこの森に住んでいた、ユナの幼なじみの兄妹だった。
彼らは、村が焼かれる前──この祠で手を取り合い、何かを願っていた。
『いつか、また一緒に笑えますように』
その声は、今にも消え入りそうなほど儚い。
でも、その“願い”だけは確かに、この場所に残っていた。
「……この子たち、きっと……」
ノエルが小さく目を伏せる。
「この森が、記憶を形にするなら──その想いが、ずっと残っていたのね」
「想いって……残るんだな、本当に」
アオイは、ぼんやりと手を差し出した。
光はその手をすり抜けたが、どこかあたたかい何かが触れたような気がした。
「……わたし、ずっと後悔してた。助けられなかった。忘れないって言いながら、どこかで目を背けてた」
ユナの声が、静かに響く。
「でも、もう……逃げない」
彼女はまっすぐ、祭壇の前に立った。
「あなたたちの“願い”を……わたしが、引き継ぐ。誰かの記憶が消えないように。ここに、生きたってことを、ちゃんと刻むから」
その瞬間──
光が、あふれた。
小さな祠の中に、淡く青い光が満ちる。
風がそっと吹き抜け、祭壇の前に咲いた一輪の花が、やさしく揺れた。
「……青い花」
アオイが目を見張る。
「まるで、“想い”が咲いたみたいだな……」
「ふふっ、ロマンチスト」
ユナが少し照れたように笑った。
「……なあ」
レオンが、ぼそっと口を開く。
「こういうのってさ、なんていうか……“奇跡”って言うのか?」
「いや、違う」
ヴァルドが静かに首を振る。
「奇跡なんかじゃない。“願い”が、想い続けられていた結果だ。……だからこそ、尊いんだ」
「うん、たしかに」
アオイは一歩、皆の前に出た。
「俺たちは、まだ道の途中だ。でも、こうして──誰かの願いに触れたことで、進むべき道が見えた気がする」
「だったら、進もうぜ」
レオンが拳を突き出す。
「記憶の奥にある、まだ語られてねぇ想いに──」
ミレイが笑って拳を合わせた。
「風がある限り、私の魔法は止まらないからね」
ガルドも、無言で拳を重ねた。
そして、ユナが小さく笑って──
「うん、進もう。絶対に、忘れないために」
アオイたち〈暁星の灯〉──そして紅の騎士団。
かつては交わらなかった二つの歩みが、いま、ひとつの誓いのもとに重なった。
誰かの“想い”を、無駄にしないために。
そして、自分たち自身の“想い”を、もう一度信じるために。
空を見上げると、木々の隙間から、淡い光が差し込んでいた。
それはまるで、今しがた還っていった“記憶の光”が、彼らに次の道を照らしてくれているようだった。
──こうして、森での長い一夜が、静かに幕を閉じた。
そして、彼らの旅は、次なる章へと進んでいく。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。
「記憶」と向き合う旅は、時に痛みを伴いますが、だからこそ見える景色もあります。
誰かが願い、忘れたくなかった“想い”が、ほんの一輪の花となって現れる──
そんな奇跡のような瞬間を、今回は丁寧に描きました。
この話を通じて、登場人物たちの絆がまたひとつ深まりました。
彼らの背中をそっと押してくださった読者の皆さんにも、心から感謝を込めて。
次回からは、いよいよ彼らの旅路が“東の修行編”へと動き出します。
どうぞ、これからも見守っていただけると嬉しいです。