第16話 黒樫の森を越えて
“記憶”というものは、ただの過去の断片ではなく、ときに現在を揺さぶり、未来を変える力を持っているのかもしれません。
黒樫の森に潜む“忘れられた想い”──それは、誰かの痛みであり、祈りであり、叫びでした。
今回の話では、アオイたちがそうした記憶に触れ、ひとつの魂を救い、そして“敵”だった紅の騎士団と心を通わせていくまでの物語が描かれます。
霧の中から現れる“記憶の影”と、それに立ち向かう仲間たち。
彼らの絆と、静かに交差していく過去と現在が、少しでも読んでくださったあなたの心に残れば嬉しいです。
それでは、どうぞ物語の中へ。
朝霧が、地面に薄く張りついていた。
草の露がまだ乾ききらない時間。誰もが静かに目を覚まし、焚き火の残り火を囲むようにして、言葉少なに朝を迎えていた。
アオイは、ぼんやりと空を見上げていた。
黒樫の森の頭上は、今日も厚い木々で覆われているはずだった。
けれど、その隙間からほんのわずかに差し込む光が、なぜか今日は“出口”の存在を感じさせた。
「……今日、抜けられる気がする」
ぽつりと、アオイが呟いた。
近くにいたユナが、微笑んでうなずいた。
「うん。森の空気が、少しだけやわらかくなった……そんな気がするの」
「昨日、君が“あの子”を救ったからだよ」
「……そうかもしれない。でも、私だけじゃない。みんながいたから、あの子に手を伸ばせたんだよ」
静かな声。
それは、まだ森の記憶に耳を傾けているような、繊細な響きを持っていた。
その後ろから、レオンがあくび混じりに声をかけてくる。
「なんにせよ、俺たちは今日進む。“向こう側”が見えるかどうか、それだけだろ?」
「……なにかが、待っている気がする」
ミレイが言った。風の変化を感じ取るように、わずかに眉を寄せている。
「それも、甘くはない何か。……この森の本当の姿が、ようやく姿を現そうとしてる。そんな気がしてならないの」
「警戒は怠らん。ここまで来て、気を抜くつもりはない」
ガルドの声は低く、しかし決意に満ちていた。
アオイは、剣を背に回し、しっかりと鞘を固定した。
「よし、じゃあ行こうか」
「うん!」
ユナがうなずく。
彼女の瞳には、昨日よりも確かな光が宿っていた。
彼らは歩き出す。
湿った地面を踏みしめながら。
忘れられた森の、深部へと──
その先に、まだ語られていない“記録”が待っているとも知らずに。
黒樫の森の奥へ進むにつれて、空気がまた変わっていくのを感じた。
ただ重いのではない。
それは、まるで「何かの視線」を背後に感じ続けるような、不穏さを帯びた圧力だった。
「さっきから……何か、聞こえない?」
ミレイが小声で言う。
耳を澄ませば、確かにかすかな音が混ざっていた。
風に紛れて、誰かの呼吸のような……あるいは──“囁き声”。
(記憶が、また動いている?)
アオイは周囲を見渡した。
そのとき、ユナが立ち止まる。
「……ここ、知ってるかもしれない」
「え?」
「昔……この森の外れで、一度だけ。すごく遠くに、火の手が見えたことがあったの。小さな頃で、よくは覚えてないけど……そのときの“匂い”と、同じなの。焦げた、木の匂い……」
レオンが木々の幹に触れ、じっと見つめる。
「焼けてる……いや、古いな。これは、何年も前の痕だ」
「……ラズの言ってたこと、本当だったんだな」
ガルドが呟いた。
「この森は、かつて“焼かれた”。忘れられた戦場……あるいは、記憶の封印地だったのかもしれない」
ふと──風が止まる。
空気が、一瞬で静まり返る。
そのときだった。
「ようやく会えたな。暁星の灯の諸君」
鋭い、しかし落ち着いた男の声。
姿を現したのは、赤い外套を羽織り、片手に剣を携えた男──ヴァルドだった。
その背後には、双剣を構えたカリス、巨盾を背負ったラズ、そしてローブ姿のノエル。
紅の騎士団が、再び揃って姿を見せた。
「……やっぱり、来たんだね」
ユナが一歩前に出る。
「“記憶の残響”が君たちを引き寄せたのかもしれないな」
ノエルが静かに言う。
「昨日、君たちが触れたもの。それは“忘れられた叫び”……けれど、それはほんの始まり」
カリスが肩をすくめる。
「ったく……正義感の塊どもは手がかかるな。お前らみたいな奴ら、嫌いじゃないけど、やっかいだ」
「何をしに来たんだ?」
アオイが問いかける。
ヴァルドは、目を細めた。
「“断片”だ。この森に散らばる記憶の破片。それを集めるために、我々はここにいる」
「なぜ、そんなことを?」
「……それが、我々の“償い”だからだ」
ヴァルドの答えは短く、だが重かった。
風が再び吹き始める。
まるで、記憶そのものが、再び“動き出す”合図のように。
「この森はまだ、“見せていない”。そして、我々がすべてを明かす義務も、ない」
「けど……共に進む気はあるってこと?」
アオイが問うと、ラズが無言でうなずいた。
「仲間じゃない。けれど、今は“同じ方向”を見ている──それで十分だ」
ヴァルドの言葉は、まるで誰かへの祈りのようだった。
そして──森の奥から、再び揺らぎが訪れる。
今度は、より大きな“何か”が待ち受けている気配が、空気を満たしていた。
彼らは剣を構えた。
“記憶”が、彼らを試そうとしていた。
霧が、また濃くなった。
それは、自然の現象というよりは、記憶そのものが形を持ち、森を覆っているようだった。
「ここは──ただの森じゃないな」
レオンが剣を抜く。
その視線の先、倒れた木々の隙間に、黒ずんだ石碑のようなものが半ば埋もれていた。
「なにこれ……碑文?」
ミレイが手で土を払いながら言った。
ラズが無言で近づく。彼は手袋を外し、石に触れる。
「……焼かれた痕跡がある。これは──かつて、封印された何かの“核”」
「封印……?」
アオイの眉が動く。
「我々が追っている記憶の“断片”は、本来存在してはならないものだ」
ノエルがローブの裾を揺らしながら前に出た。
「そしてこの場所は、それらを“隔離”し、“封じる”ために作られた、言わば“記憶の隔離区域”」
「そんなの、聞いたことない」
ユナが目を見開く。
「当然だ。公にはされていない。我々がかつて仕えていた“上層部”ですら、断片的にしか知らなかった」
カリスが斜め後ろから声を投げた。
「──で、その“上層部”は、今や見て見ぬフリさ。記憶の管理なんて、面倒ごとは全部下に押しつけりゃいいってな」
「……それが、お前たちが“紅の騎士団”として独自行動してる理由か」
アオイが低く呟いた。
「違う。だが、きっかけの一つではある」
ヴァルドが歩み寄る。
彼の瞳には、一切の迷いがなかった。
「“忘れられた想い”は、誰かにとっての真実であり、痛みであり、希望でもある。だが、それが暴走すれば、世界を飲み込む力になる」
「──だから、我々は“それ”を集めている」
ノエルの手のひらに、淡く紅い光が宿る。
「集め、鎮め、そして……いずれ、還すために」
「“還す”……?」
「記憶を、元の場所へ──本来あるべき“魂”のもとへ」
ノエルの声は、まるでどこか遠い場所に語りかけるようだった。
だが、次の瞬間。
「っ……!?」
地面が揺れた。
霧が渦を巻き、黒い影が現れる。
「また来たか──“記憶の影”」
ラズが即座に盾を構え、ノエルが魔法陣を展開する。
現れたのは、霧の獣によく似た異形の存在──だが、今度は“人の声”を発していた。
『……かえして……ぼくの……おねえちゃんを……』
「なに……?」
ユナがはっと息を呑む。
「この声、子ども……?」
『まちがってない……まちがって……ないのに……!』
霧の中から、かすれた嗚咽のような声が響いた。
「記憶の暴走体だ。未練の強い記憶が形を取り、他者を巻き込む」
ヴァルドが剣を抜く。
「だがこれは……今までの“影”とは違う。もっと……深い」
アオイも構えを取った。
「だったら、俺たちで受け止めよう。過去を斬るんじゃなく、“今”を救うために」
「ユナちゃん、マジ天使──って言いたいとこだけど、これはマジでヤバいやつだね」
ミレイが軽口を叩きながらも、手に風の魔法を集めていた。
レオンが剣を構える横で、ガルドが盾を地に突き立てる。
「来るぞ……!」
霧が、裂けた。
“過去”が、彼らに牙を剥いて襲いかかってくる。
彼らはそれを迎え撃った。
“誰かの記憶”を、無下にしないために──
そして“今”を守るために。
霧の獣──否、“記憶の影”は咆哮を上げて飛びかかってきた。
その姿は、まるで人の形を模したかのような、ひどく歪んだ“少年”の幻影だった。
『おねえちゃんを……かえして……!』
「っ、来るぞ!」
レオンが剣を振るい、獣の爪を受け止める。
衝撃と共に足元が砕け、彼は体勢を崩すも踏みとどまった。
「すげぇ力……っ!」
「ユナ、援護お願い!」
アオイの声に、ユナが即座に魔法陣を展開する。
彼女の杖が柔らかく光り、アオイの足元へ治癒と強化の魔力が流れ込む。
「うん、行って──アオイくん!」
「──行くぞ!!」
アオイは踏み込んだ。
脚に集中させた身体強化の力を爆発させ、一瞬で影の背後を取る。
そのまま拳を叩き込もうとした──
が、影はまるで予期していたかのように身を翻し、呻きながら叫んだ。
『ちがう……ちがうんだ……! ぼくは、ただ──!』
一瞬、アオイの動きが止まった。
その迷いを突いて、影の腕がアオイを弾き飛ばす。
「ぐっ……!」
後方に吹き飛ばされ、木の幹に背中をぶつける。
「アオイ!」
ユナの叫びが飛ぶ。
「……大丈夫、まだ──いける!」
アオイは顔を上げた。
その目に宿るのは、怒りでも恐怖でもない。ただ、強く“理解しよう”とする意志。
「この子は……“自分の記憶”に囚われてる。ずっと、お姉さんを探してるんだ」
「それだけじゃない」
ノエルが霧を見つめながら言った。
「この影の記憶は、喪失の痛みと“後悔”……きっと、守れなかったことが、彼を歪ませてる」
「だったら、俺たちがその痛みに触れよう」
アオイが立ち上がり、再び構える。
「誰かの記憶を踏みにじるんじゃなく、共に進むために──!」
「おいおい、相変わらず青臭いぜ、あんたは」
カリスが呆れたように笑った。
「……けど、悪くねぇ」
「行くわよ!」
ミレイが風をまとい、影の背後に回る。
「レオン、連携!」
「任せろッ!」
二人が同時に突きかかり、ガルドが盾で影の動きを止めた。
アオイがその隙に、影の胸へ拳を突き出す。
だが、拳は貫かなかった。
──柔らかい感触。
拳が届いたその先には、小さな“手”が重なっていた。
『……ねえちゃん……ごめんね……』
影が崩れはじめた。
形を成していた霧がゆっくりとほどけていく。
ユナがそっと手を差し出すと、小さな光が彼女の掌に宿った。
「この子……想いを、託していったの」
「……ありがとう」
アオイが目を閉じて呟いた。
「忘れない。お前の気持ち、ちゃんと受け取ったよ」
霧が静かに晴れていく。
風が通り抜け、森に光が差した。
まるで、誰かの想いがようやく“報われた”かのように──。
森に差し込む陽の光は、どこか柔らかかった。
まるで“誰か”の想いが、ようやく静かに還っていったことを知らせるように。
「……消えた、な」
レオンが剣を肩に乗せながら、深く息をつく。
「あの影、最後に……笑ってた気がした」
「ええ。たしかに、安らいだ表情をしていたわ」
ミレイも穏やかな口調で続けた。
アオイは、小さく光る粒子が空へと昇っていくのを見つめながら、胸に手を置いた。
「やっぱり、“記憶”はただの記録じゃないんだな。誰かの気持ちが、そこにはある」
「……アオイくん」
ユナが隣で、小さく頷いた。
「この森の中には、まだ“忘れられた記憶”が残ってる。きっとまた、誰かの心が姿を成す」
「……ってことは、また“ああいうの”が出てくる可能性があるってことか」
カリスが木の陰から現れて、面倒くさそうに肩を回す。
「ったく、気が抜けねぇな……まあ、悪くはなかったけどよ。アイツの最期、救われたように見えた」
「カリス……」
ノエルがそっと彼に目を向ける。
「あなたも、ちゃんと見ていたのね」
「ま、な」
とカリスはそっけなく返しながらも、目を伏せたままだ。
「ラズも……見てたんだよね」
ユナが振り返ると、ラズは静かに頷いた。
「……ああ。おそらく、今のような“記憶の残滓”は、この森の奥に行けば行くほど強くなる」
「だからこそ、俺たちがここに来た意味がある」
ヴァルドが歩み出て、仲間たちを見渡す。
「かつて俺たちは……数多の地で戦い、記憶を喪わせた。“忘れられた声”を、黙殺してきた」
「でも、それはもう終わりにしたいってこと?」
アオイが静かに問うと、ヴァルドはゆっくり頷いた。
「忘れたふりを続けるのは、もう終わりにしたい。……俺たちは、変わると誓った」
「それが、“今を生きる”ってことかもしれないね」
アオイはそっと笑った。
「じゃあ、次は一緒に進もう。“想い”を無駄にしないために」
「……仲間、か」
カリスがまたぼそっと言い、今度は誰もそれをからかわなかった。
「ならば、進もう」
ラズが短く、だが力強く言った。
「この森の奥で、俺たちが背負ってきた過去と、もう一度向き合うために」
アオイたちと紅の騎士団──
ふたつの道を歩んできた者たちが、今、ひとつの想いを携えて同じ方向へと歩き出した。
その背中に差す光は、森の奥から射す陽ではなく、彼ら自身の中に灯った“意志”の光だった。
──そして、次なる“記憶”が、静かに彼らを待っている。
森に差し込む陽の光は、どこか柔らかかった。
まるで“誰か”の想いが、ようやく静かに還っていったことを知らせるように。
「……消えた、な」
レオンが剣を肩に乗せながら、深く息をつく。
「あの影、最後に……笑ってた気がした」
「ええ。たしかに、安らいだ表情をしていたわ」
ミレイも穏やかな口調で続けた。
アオイは、小さく光る粒子が空へと昇っていくのを見つめながら、胸に手を置いた。
「やっぱり、“記憶”はただの記録じゃないんだな。誰かの気持ちが、そこにはある」
「……アオイくん」
ユナが隣で、小さく頷いた。
「この森の中には、まだ“忘れられた記憶”が残ってる。きっとまた、誰かの心が姿を成す」
「……ってことは、また“ああいうの”が出てくる可能性があるってことか」
カリスが木の陰から現れて、面倒くさそうに肩を回す。
「ったく、気が抜けねぇな……まあ、悪くはなかったけどよ。アイツの最期、救われたように見えた」
「カリス……」
ノエルがそっと彼に目を向ける。
「あなたも、ちゃんと見ていたのね」
「ま、な」
とカリスはそっけなく返しながらも、目を伏せたままだ。
「ラズも……見てたんだよね」
ユナが振り返ると、ラズは静かに頷いた。
「……ああ。おそらく、今のような“記憶の残滓”は、この森の奥に行けば行くほど強くなる」
「だからこそ、俺たちがここに来た意味がある」
ヴァルドが歩み出て、仲間たちを見渡す。
「かつて俺たちは……数多の地で戦い、記憶を喪わせた。“忘れられた声”を、黙殺してきた」
「でも、それはもう終わりにしたいってこと?」
アオイが静かに問うと、ヴァルドはゆっくり頷いた。
「忘れたふりを続けるのは、もう終わりにしたい。……俺たちは、変わると誓った」
「それが、“今を生きる”ってことかもしれないね」
アオイはそっと笑った。
「じゃあ、次は一緒に進もう。“想い”を無駄にしないために」
「……仲間、か」
カリスがまたぼそっと言い、今度は誰もそれをからかわなかった。
「ならば、進もう」
ラズが短く、だが力強く言った。
「この森の奥で、俺たちが背負ってきた過去と、もう一度向き合うために」
アオイたちと紅の騎士団──
ふたつの道を歩んできた者たちが、今、ひとつの想いを携えて同じ方向へと歩き出した。
その背中に差す光は、森の奥から射す陽ではなく、彼ら自身の中に灯った“意志”の光だった。
──そして、次なる“記憶”が、静かに彼らを待っている。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
“記憶の影”として現れた少年の想いは、ひとつの救いによって昇華されました。けれど、物語の核心はまだ、森の奥に静かに眠っています。
そして今回、紅の騎士団が“敵”ではなく、想いを共にする“旅の同行者”として加わりました。
かつて誰かを守れなかった彼らが、それでも変わろうとする姿は、アオイたちの旅に新たな深みを与えてくれたように思います。
次なる“記憶”が何を語るのか。
それに触れることで、アオイたちは、そしてあなた自身も、どんな感情を抱くのか。
次回も、心を込めて描いていきます。
また、お会いしましょう。